至道無難禅師「即心記」(1)

*〔底本:公田連太郎(編)『至道無難禅師集」春秋社、昭和31年〕

*〔 〕はブログ主による補足。 [ ]は底本編集者による補足を表す。*はブログ主による注釈。原文はひらがなが多く、以下はあくまでもブログ主の解釈です。

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〔まえがき〕

 三国(中国・インド・日本)の人、姿かたちは同じであるが、言葉は異なる。心を一つにするのは、仏の教えによるのである。死を忌み嫌うのは、死を知らないからである。人はそのまま仏であるのにそのことを知らない。しかし、もしそれを知れば、仏の心に背く。知らなければ迷いである。偈(詩)を作って次のように言おう。

 

 根元を悟れば

 万事を離脱する

 言語を越えたところを誰が知ろうか

 仏陀も祖師も伝えない所

 

 生死を知る人があれば、心の種(たね)となるだろうか。粗末な言葉を蒔いておくのも、一方では自分の罪を心に懸けないからに違いない。筑波山の峰の木の葉から落ちる雫も集まってみなの川の淵となれば、童子の助けにもなるかと思ってのことである。

 

   延宝乙卯孟春(延宝三年=1675年1月)これを書く

                              至道庵主

 

[寛文11年=1671年版にはここに即心記上という標題がある]

 

 知れば迷い知らねば迷う法(のり)の道

 何が仏の実(まこと)なるらん

(知れば迷い、知らなくとも迷う仏法の道

 何が仏の真実なのだろうか)

 

一、仏の眼を開いて見れば、日本の人々*は仏に近い。邪念が少ないからである。邪念というのは、わが身を思うことである。それが迷いの根本である。しかもわが身と言っても、実は自分の身ではないのである。それを自分のものと思うのは、まったく浅ましく、嘆かわしいことである。誰でも知っていることだが、人は死ぬものであり、病気にかかるものであり、貧しさの苦しみを受けるものである。このことが自分の身ではないという証拠である。このようなつらい世の中に生をうけて、苦しみが多いということも理解せず、長生きすることを願う。おおよそ世の中の人を見れば、七十歳になっている人はまれである。

*原語は「衆生(しゅじょう)」で「命あるものすべて」を指すが、ここでは人としておく。

 

一、ある老人が語るのを聞いたが、随分かわいそうな様子を書き留めるのも気が引けるけれども、昔の友だちは先立ち、今の人に交わろうとすると汚いと嫌われ、若い人はどこかに行ってしまって話の座にはいない。秋の夜は長いのに、眠ることもなく、戻らない昔を思い、どうなるかわからない行く末に思いを懸ける。地獄、餓鬼、畜生、修羅*を住みかとして巡ることがなんと悲しいことか。今はひたすら仏道を学ぼうと思いますと言って、私に向かって、涙を流して問うので、たいへんかわいそうに思って、宗旨を尋ねると、禅宗だと答える。若い頃からこの禅の道には深い志をもっていたという。私は、大道(仏法の完成された姿)はどうかと聞いてみると、かえって念仏を唱えて数珠をいじり、たいへん奇怪である。どのような人に仏法を尋ねたのかと聞くと、以前は仏法の教えの勉強などいたしましたが、十五年前くらいからは、いやいや仏法を学ぶといってもたった今死んでしまって行く先を知らないのであれば大きな間違いだと思い、ある僧にお会いして、死んだあとの行き先を尋ねましたところ、それは悟りを開いて知ることである、悟ろうと思ったら、身の業(ごう)**を消し尽くさねばならない。業を消し尽くそうと思うなら、お経を読み、念仏を唱えなさいと仰るので、その通りに努めているのだと言う。私が、たった今死んでどこへ行き、どのようになろうと思われるのですかと尋ねると、極楽へ行き、仏になると答える。極楽はどこですかと問うと、業が尽きて現れるでしょうと、教えにまかせてこれこれと答える。私がまた、業が尽きない前に死んでしまったらどうなるのですかと問うと、答えがなく、涙を流し、手を合わせて、お教えくださいと言う。かわいそうに思って、向き直って、あらゆる事は心がなす事ですと言う。その人は、そうでしょう、と言う。心の元は何がありますかと問えば、何もない、と答える。私は言う。それこそそのまま極楽世界、それこそそのまま仏、それこそ我が宗の悟りです。常にそこをお守りなさい、と言うと、さすがに常々仏道に思いを懸けていたのが現れたのでしょうか、生もない、死もない、万物一つもない、ないと思うこともないと喜び、手を合わせて拝みます。禅は第一に悟りを先にして、悟りにまかせて修行をすれば、日々夜々安楽である。疑ってはいけません。身の業が尽き果ててから悟るというのは、もっともなことですが、そこに至るのは難しい。悟りを先にして身の業を尽くすのは、安心して行ないやすいのです。このようなわけで日本は身を思うことが軽いのです。それゆえ仏に近いのです。身がなければそのまま仏だからです。

*「六道輪廻」のうちの四つ。あとは人間、天上。

**過去にした善悪の行為が、結果として現在のわが身にふりかかってくること。善なる行為は善なる結果として、悪い行為は悪い結果としてふりかかることは、「善因善果・悪因悪果」と言われる。

                               〔つづく〕