至道無難禅師「即心記」(7)

    臨済禅師*について

  己めが破戒の比丘(びく)**となる事は

  仏祖を殺す***報いなりけり

 (自分が戒律を破る僧となる事は

  お釈迦さまや祖師がたを殺す報いなのである)

臨済禅師:臨済宗の開祖、臨済義玄禅師(生年不詳~867年没)。

**比丘(びく):男性の僧侶のこと。女性は比丘尼

***仏祖を殺す:臨済禅師には、「仏に会ったら仏を殺し、祖師に会ったら祖師を殺せ」という激しい説法がある。

 

    死んで後の世を願う人に

  死にて後を仏と人や思うらん

  生きながら無き身を知らずして

 (死んだあとを仏だと人は思うだろうか

  生きながら身の無いことを知らずに)

 

    臨済禅師のおっしゃった「聞くもの」について

  耳も聞かず心も聞かず身も聞かず

  聞くものの聞くをそれと知るべし

 (耳が聞くのでない、心が聞くのでない、身が聞くのでない

  聞くものが聞いているのを、それだと知らねばならない)

 

    迷いの深い人に

  己が身に化かさるるをば知らずして

  狐狸を恐れぬるかな

 (自分の身に化かされているのを知らないでいて

  狐や狸を恐れていることだよ)

 

    草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)*

  草木も国土もさらに無かりけり

  仏というもなおなかりけり

 (草や木や、国の大地もまったく無い

  仏というのもやはり無いのである。それで成仏である。)

*草木国土悉皆成仏:草や木や国土もすべて成仏する、という意味の言葉。もともと、「一仏成道 観見法界 草木国土 悉皆成仏」とつながる。「一つの仏が仏道を達成して世界を見るとき 草も木も国土もすべてが成仏している」。文言は9世紀の天台僧、安然に由来するという指摘があり、思想そのものは華厳経に由来するか。

 

    罪を苦しむ人に

  思うままにこの身に罪を作らせて

  地獄の中へ突き落すべし

 (思うままにこの身に罪を作らせて

  地獄の中に突き落としなさい)

 

    苦行を終えて山を出る釈迦について

  ひたすらに身は死に果てて生き残る

  ものを仏と名はつけにけり

 (身はまったく死に果てて、なお生き残る

  ものを仏と名付けたのである)

 

    知らないのに仏法を説く僧に

  己が身の科(とが)をも知らで説く法を

  聞き得る人も同じ畜生

 (自分の身の誤りを知らないで説く仏法を

  理解したと思う人も同じ畜生である)

 

    いずれ人の師となるだろう人に

  無一物になりぬるときに何事も

  科(とが)にならぬと見るぞ悲しき

 (無一物になったときには何をしても

  罪にはならないと思うことは何と悲しいことか)

 

    心の鬼を問う人に

  世の中の人は知らぬに科(とが)あれば

  わが身を責むる我が心かな

 (世の中の人は知らなくとも、罪があれば

  自分の身を責めるのが自分の心なのだ)

 

    自分だからこそ慈悲をするのだと思っていた人に

  常々に心にかけてする慈悲は

  慈悲の報いを受けて苦しむ

 (つね日ごろやろうと心に思って行う慈悲は

  その報いを受けて苦しむものである)

 

    ある僧侶に

  悟りても身より心を縛りなば

  解けざるうちは凡夫なりけり

 (悟りを開いても、わが身が心を縛っているなら

  それが解けないうちは凡夫と同じである)

 

    仏法の大道が難しいことを

  世の中の人のかたきは他に無し

  思うわが身は我が敵(かたき)なり

 (世の中の人にとって難しいことは他にはない

  わが身のことを思うそのわが身が自分のかたきなのである)

 

    いろいろ苦しむ人に

  何事も修行と思いする人は

  身の苦しみは消え果つるなり

 (何事も修行と思ってする人は

  その身の苦しみは消えてしまうものである)

 

    仏道を教えたときに

  道という言葉に迷う事なかれ

  朝夕おのがなすわざと知れ

 (道という言葉に迷ってはならない

  朝夕に自分が行っていることだと知りなさい)

 

    仏法の大道を問う人に

  天地(あめつち)のほかまで満つる身なれども

  雨にも濡れず日にも照られず

 (天地の外まで満ちているのが仏身であるが

  それは雨にも濡れないし日にも照らされない)

 

    いろいろな所に道を探し求める人に

  いろいろの教えに迷う法(のり)の道

  知らずばもとの物となるべし

 (仏法を求めていろいろな教えに迷う

  何も知らなければ元来のものとなるだろう)

 

    無難の日常を問う人に

  月も月花も昔の花ながら

  見る物の物になりにけるかな

 (月は月であるし、桜の花も昔と変わらない花であるが

  見た物そのものになっていることよ)

 

    生死を問う人に

  生きて居る物を確かに知りにけり

  泣けど笑えど只何もなし

 (生きているものを確かに知ったことだ

  泣いても笑ってもただ何も無い)

 

  死にて後を確かに思い知りにけり

  只何も無し無き物も無し

 (死んでから後を確かに思い知ったことだ

  ただ何も無い、無いというものも無い)

 

    応無所住而生其心*

  住み所無きを心のしるべにて

  その品々(しなじな)にまかせぬるかな

 (とどまる所がないことを心の導きとして  

  出会ったそのもの事に任せていることだ)

*応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん):「まさに住する所なくしてその心を生ずべし」(どこかに心が留まることがなければ、きっと悟りの心を生じるだろう。)金剛般若経にある文言。六祖がこれを聞いて悟った逸話はよく知られている。

 

    生死即涅槃(ねはん)*

  生き死にも知らぬところに名を付けて

  涅槃と言うも言うばかりなり

 (生きるとか死ぬとかいうことも知らないところを名付けて

  涅槃と言うのも、ただ言うだけのことである)

*涅槃(ねはん):生死を越えた悟りの境地

 

    仏とは何かと問う人に

  世の中の人の心の悲しきは

  無きを尋ぬる仏なりけり

 (世の中の人の心で悲しいのは

  仏という無いものを探しまわっている仏であるよ)

 

  いかにせん我さえ知らぬものなれば

  人に教えん言の葉も(ことのは)も無し

 (どうしようか、自分さえ知らないものであるから

  人に教えるような言葉などない)

 

    達磨大師について

  いかにしてこれほど嘘をつきぬらん

  さりとては無き悟りなりしを

 (どうしてこれほど嘘をついたのだろうか

  悟りといっても、ほらこの通りというものは無いのに)

 

    念仏行をする人に

  弥陀仏の誓いの網は広けれど

  我から漏るる人ぞはかなき

 (阿弥陀仏衆生を救おうとする誓いの網は広いけれど

  自分からその網を逃れてしまう人は虚しいものだ)

 

    己身弥陀唯心浄土(こしんみだゆいしんじょうど)*

  一筋(ひとすじ)に南無阿弥陀仏と唱うれば

  仏も見えず身も無かりけり

 (ただひたすら南無阿弥陀仏と唱えれば

  仏も見えないしその身も無くなってしまう)

*己身弥陀唯心浄土(こしんみだゆいしんじょうど):自分の身そのものが阿弥陀仏であり、もっぱらこの心が浄土であるという教え。

 

    趙州和尚因僧問云狗子還仏性有也無州云無*

  無というもあたら詞(ことば)の障(さわ)りかな

  無とも思わぬ時ぞ無となる

 (無と言っても、言葉の妨げになってしまうのは惜しいことだ。

  無とも思わないときが本当に無となるのだ)

*趙州和尚因僧問云狗子還仏性有也無州云無:趙州従念(じょうしゅう じゅうねん)和尚(778年~898年)にまつわる非常に有名な公案(こうあん:禅修行の手がかりとされる問題のようなもの)。ある時、一人の僧が趙州和尚に「(お釈迦さまは一切衆生悉有仏性、生きとし生けるものは皆仏性をもつとおっしゃいましたが)、犬(のような私)にも仏性はありましょうか」と尋ねたところ、和尚が答えて言った。「無」。

 

    庭前栢樹子(ていぜんのはくじゅし)*

  草木も国土も同じ法(のり)の道

  実ありがたき教えなりけり

 (草も木も国土も同じ仏の道を示している

  本当にありがたい教えである)

*庭前栢樹子(ていぜんのはくじゅし):難しいとされる公案の一つ。ある時、一人の僧が趙州和尚に尋ねた。「祖師西来意(そしさいらいい、達磨大師がわざわざ西のインドから中国へ来られた心)はどのようなものですか」。和尚が答えて言った。「庭先の栢(かしわ)の木」。

 

    麻三斤(まさんぎん)*

  仏はと問えば答うる麻三斤

  何が仏の名に漏れぬべき

 (仏とは何かと問われて、麻三斤と答える

  いったい仏という名から漏れるものがあるだろうか、ありはしない)

*麻三斤(まさんぎん):公案の一つ。洞山守初(とうざんしゅしょ)禅師にあるとき僧が「仏とはどういうものですか」と問う。禅師が答えて言った。「麻(糸)三斤」。「斤」は重さの単位。

 

    あるとき真実となった人に

  本来は教えもならず習われず

  知らねば知らず知れば知られず

 (道は本来教えることもできず、習うこともできない

  それを知らなければ知らないのだし、知ったと思えばそれも知らないのである)