至道無難禅師「即心記」(9)

一、火のそばは暑い。水のそばはひんやりしている。大道人のそばへ寄れば、身の悪は消えるのである。これを道人というのである。軽々しく道人というのは恐ろしいことである。

 

    私の寺の信徒に定めおくこと

一、坊主は天地の大極悪である。為すこともなく世渡りをする。大盗人である。

 

一、修行の結果が満ちて、人の師となろうとするとき、天地の重要な宝となる。何にせよ、世渡りの師匠ばかりいる。大道の師は稀である。

 

一、一枚の紙、わずかの金銭でもおろそかにしてはいけない。

 

一、常日頃、身に過ちがないよう慎んで、身のために行ってはいけない。仏法の敵、仏の敵は身である。

 

一、人からものをもらうこと、毒薬と思いなさい。大道が成就したのち、人が惜しむものを頂戴しなさい。それがその人を助けることになるからである。

 

一、修行をしているあいだ、人から打たれ、踏まれるとき、過去に自分が作った業(ごう)が尽きるのだと喜びなさい。

 

一、他家で一夜を明かすときも、その家の亭主の着る者を借りてはいけない。家の隅に寄りかかって眠りなさい。だいたいのものは袱子(ふくす、僧が出歩くときに所持する物入れ)に入れて持って行きなさい。約束をした日には、雨や雪になっても行きなさい。

 

一、大道が成就しないうちは、女を近づけてはいけない。

 

一、仏道へのこころざしの無い家に泊まってはいけない。

    右の九か条を常に守りなさい。これ以外は、古徳(昔の徳のある高僧)の言葉にある。

 

一、人に教えることが難しい事がある。常日頃何をするにも、それは直に大道である。愚かな人は、それがたやすいことと思う。たまたま本心を見届けることがあったとしても、いつも慣れていたそれまでの道に行ってしまう心が強い。

 

一、教えるのが難しい人というのがいる。世間的知恵の過ぎた人である。

 

一、教えるのが難しい人というのがいる。財産や地位を好む人である。

 

一、仏法の大道を心にかけて求めるには、悪い友達を遠ざけねばならない。

 

一、ある人が、迷いの元は何かと尋ねた。善し悪しを知るのが元である。

 

一、ある人が、悟りの元は何かと尋ねた。善し悪しを知るのが元である。

 

一、自分の心をどのように見たらよいのか、と言う人に

   色好む心に変えて思えただ

   見る物は誰(た)そ聞く物は誰そ

  (情欲を好む心に変えて、ただ次のように思いなさい

   今見ているものは誰か、聞いているものは誰かと)

 

一、ありがたいことだと思う。これほどの身分の低い者まで何々院(という戒名の者)がいるだろうが、そうは言っても王という字は除外される。

〔この項、意味がとりにくいが、戒名のことと理解しておく。〕

 

一、その道その道の優れた人に尋ねればよいであろう。俗人が法師の善し悪しを選んだり、法師が俗人の良し悪しを言ったりするのは、だいたいのところは分かるだろうが、詳しいところはよくわからない。昔、自分が若かったころ、人がおっしゃったのを聞いていて、馬に付ける鐙(あぶみ)に名前が多いので思ったことだが、武家である自分の家の事さえ、詳しいことになると推測できない。まして自分の家業でない事柄はよくわからないのである。

 

一、私の弟子が、死霊を弔う事について尋ねた。第一に、身を消し、心を消し、修行が成就して弔えば、その霊は浮かばれるのである。年をとって情欲の念がなくなっても、心に映るうちは、弔っても浮かばれはしない。必ず無念になって弔えば、悪霊も浮かばれるのである。この道を成就した人には確かな印がある。面と向かうとき、男女ともに悪念が消えるのである。これを道人と言う。

 

一、釈迦如来のお心を指して、道心と言う。その姿を出家と言う。その作法を乞食(こつじき)と言う。仏法がすたり果てたのも道理である。寺で下働きをする坊主を道心と呼び、非人(ひにん)*を乞食と言う。二つの名前は、書くにも及ばない身分の低いものに譲ってしまったのだ。もう一つ残っている出家という名前は、身の無いのを言う。天下に誰か身の無くなる人があろうか。

*非人(ひにん):江戸時代の身分制度で最下層の者。

 

一、僧衣を着るほどの人は、けっして女の傍へ近づいてはならない。いかに身のふるまいに誤りがないといっても、心に映るのである。それゆえ女に近づくのは、必ず畜生になる稽古なのである。わしが女を遠ざけるのは、畜生の心が残るからである。

 

一、人は、名前と服装で高い位に登る。秀吉は、尾州尾張の国)の熱田神宮から五十町*(約五キロ半)ほど離れた中村という、茅葺小屋がわずかに三十軒ほどある所の、身分の低い者の子である。天竺(インド)でも、大唐(中国)でも、日本でも、ただ一人の人である。本当に滅多にない事である。兵法も軍法もお知りにならないで、強敵を打ち倒される事、草が風になびくような勢いである。武士の氏神(うじがみ)となるべき人だと、ある格式のある家の人がおっしゃっていたが、本当にそうだと思ったことだ。

*町:長さの単位。100メートル強。

 

一、中国の話で、隣の家が崩れてしまい、その家の女が寒いというので、自分のふとんに入れて眠ったという〔何も無かったということ〕。中国でも、このような名誉に値する男だからこそ書きとどめたのであろう。私の師匠*が風呂に入ったときに、女が体の後ろから前まで、残らず洗った。これも我が国で珍しいことだと思う。

*私の師匠:無難禅師の師匠は、愚堂禅師(1577年~1661年)。

 

一、例えば、栗を植えれば栗の木が生える。人の種は白露*である。それだから、年をとっても、仏法にこころざしがなければ、心から消えることはない。財産を求める欲は、情欲のために飾ろうとするのである。財を求める欲が甚だしいと、主君を殺し、親を殺すこと、確かである。

*白露:精液のこと。