至道無難禅師「即心記」(10)

一、維摩居士(ゆいまこじ)*は、一度に二三百人を悟らせになった。大唐(中国)の六祖大師は、柴を売って生業をたてていたが、如来が説きおかれた経に、何も無いところから出る心は万事によい、と人が読んだのをお聞きになって、直に悟りの心を開いたと、今に言い伝えている。それなら物を知らなくても成就することと思い、何も無い心を尊び、よくよく思い返してみると、空しく情欲を好み、財宝を求めるのは身に他ならないと、如来はおっしゃったのである。そうしてどうすれば身を無くせるかという教えをお広めになったのである。我も人も、この身が死んで後でなければ身は無くならないだろうと思っていたが、常日頃は身がない事を、誰でも知っている事である。仏の教えは簡単で素直なものだと心得て、人にもそう語ると、物知りの人は、どうして学問を積まずに成就するものかと言って聞き入れないのである。理解する心のある人は、ありがたいことだと言って悦ぶ。

維摩居士(ゆいまこじ):居士(こじ)は出家して僧とならない在家の修行者のこと。維摩(ゆいま)は、インドの釈迦の弟子でヴィマラ・キールテの音写。維摩詰とも書かれる。

 

一、妙なことだけれども、むかし、どういう人であったか、鎌倉殿(源頼朝)のご前で珍しいものを頂戴し、それを持って道を進んでいたら、子どもが集まってそれを頂戴というので、与えて行ったという。なかなかそうはなれない事だと、頭をふり、眼に皺をよせて頷いている。私も人も心にとめて感じ入っていたところ、大変若い人が、何を感心しているのですか、と懐から餅を取り出してくれた。その時は腹もふくれていたので食べずに、私もまた懐へいれておいたところへ、人が来て、何でもいいので食べさせてくださいと言うので、取り出して彼にやって食べさせた。彼も喜び、私もよかったと思うにつけて、確かに思い当たったことである。何も無い心から行う行為は、された方も自分も良いと思うのだ。これが仏というものかどうか、知らない。

 

一、ある人が語ったことだが、心経(しんぎょう)*を誰かが読んで聞かせておられた時に、姿かたちを無くせとおっしゃったというのである。なんともありがたい教えであるよ。人は知らないが、私には確かに思い当たって知る事である。昔、朝につけ夕につけ、富貴を好み、自分の身も安楽にして子供にもいろいろ与えようと、若い時から思い詰めて、苦しんで主人に奉公して、主君のお気持ちにかない、また家の年寄りの気持ちとも違いがないようにと、神仏にも祈っていたけれども、ただ今は、身がすっと無くなっているのである。今までの苦しみは身をよくしようと思っていたからなのである。釈迦如来のおっしゃるとおりである。身を思わなければ大安楽である。極楽である。仏の恩はいよいよ深い。そうしてまたいつも頼りにしている人の傍に行ったところ、いつもより心安く自分の近くに呼んで、今まではあなたは何となく気難しく感じていましたが、今日は心に何も無いですね、と褒められたのである。自分の胸が安楽であれば、人もそれを見知るのだと思ったことだ。

*心経(しんぎょう):般若心経のこと。

 

一、物知り坊主が、あるとき私にむかって言った。お前さんも禅だと聞いているが、禅も十人十色らしい、あなたのは禅と言えないな、と。私は無言で座っていた。つらつら思うに、情けないことである。仏法の大道は、元来、知るということがあれば誤りだというのをこの人は知らない。常に学問に苦しみ、悟りに苦しみ、己を高いものと見てしまって過ちをおかす。

  物知りは仏に遠くなる身方(みかた)

  知らぬは直(じき)に身の終わりなり

 (いろいろ物知りになるのは、仏から遠ざかる味方をしているのである

  知らないのは、そのまま身の終わりである)

 

一、ある人が、常日頃どのように努めたらよいかを聞いた。私は言った。それぞれの人が、自分の心をおそれなさい。主君は許すこともある。しかし、心に見つけられた過ちは、許しはありません。

 

一、本来教えの外であるから、どうしようもない。釈迦如来は、妙法とおっしゃったけれども、大きな誤りである。

 ある年老いた二層が、心経(しんぎょう)の注釈の詳しいのを持って来て、これを見るのですが、昔の人のおっしゃったことはよく分からないのです、と嘆く。たいへんかわいそうに思って、自分の愚かさをも省みず、言葉を添えたことである。

 「魔訶」は大ということである。身の無いのを言う。

 「般若」は何も無い所から出る知恵を言う。

 「波羅蜜多」は魔訶から出る知恵はどこにも滞らず留まらないのである。

 「心経」身の悪を消し尽くすことを言う。そこから出るものはすべて経である。

     これより後は注釈である。

 「観自在菩薩」見れば自分の中に在る菩薩である。

 「行深般若波羅蜜多時」身を無くすことを言う。

 「照見五薀皆空」身の無きこと確かである。

 「度一切苦厄」身が無ければ苦しみのないのである。

 「舎利子」聞いている人を指す。

 「色不異空空不異色」身と虚空と一つである。

 「色即是空空即是色」いよいよ落ち着いて何も無い姿である。確かに知るがよい。姿かたちの悪が消えるとき、姿かたちはない。形あるものを思い、財宝を望むとき必ず姿がある。これでよくわきまえて知るがよい。

 「受想行識亦復如是」形あるものさえ空(くう)となれば、受想行識(感覚・想念・意志・判断)といった心の働きも無い。

 「舎利子」前と同じ。

 「是諸法空相」言うに及ばない。

 「不生不滅」虚空には何も生じず、消滅もしないのである。

 「不垢不浄」虚空に汚いことも綺麗なこともない。

 「不増不減」虚空に増すことも減ることもない。

 「是故空中」言うに及ばない。

 「無色無受想行識」虚空と一つになれば、何も無いのである。

 「無眼耳鼻舌身意」虚空には無いのである。

 「無色聲香味觸法」もとより無いのである。

 「無眼界乃至無意識界」前と同じ。

 「無無明亦無無明尽」無明もない。また無明が尽きて無いと言うこともない。元来無いということ。無いと思ってもいけない。

 「乃至無老死亦無老死尽」前と同じ。

 「無苦集滅道」空に苦は無く、集も無く、滅も無く、道も無し。

 「無智亦無得」空に智無し。得ること無し。

 「以無所得」言うに及ばない。

 「故菩提薩埵」この道を行く人は、たった今もこの名である。

 「依般若波羅蜜多故」身を無くすること第一なり。

 「心無罣礙無罣礙故無有恐怖」身が無いのでもとより物を恐れることがない。

 「遠離一切転倒夢想」身が無いので一切うろたえることが無い。何もかも離れ尽くしているのである。

 「究竟涅槃」最終的な涅槃というのは生死が無いことである。

 「三世諸仏」言うに及ばない。

 「依般若波羅蜜多故」身が無いのを言う。

 「得阿耨多羅三藐三菩提」死人が生き返るようなものである。

 「故知般若波羅蜜多是大神呪」言うに及ばない。

 「是大明呪」言うに及ばない。

 「是無上呪」これ以上の上が無いのである。身を無くすからこのようになる。

 「是無等等呪」何も比べるものが無い呪文である。

 「能除一切苦真実不虚」一切の苦しみがすっと無い。

 「故説般若波羅蜜多呪」身が無いところから行うことの尊いことを言う。

 「即説呪曰」言うに及ばない。

 「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶」

    心なく身も消え果てて何もかも

    言いたりしたりなりやなるらむ

   (心も無くなり、身も消え果てて、何もかも

    言ったりしたりするようになっているであろうか)

 

                     至道庵主    「無難」の印影

 

[寛文十一年版の即心記はここで終わる]