至道無難禅師「即心記」(11=終わり)

 この世で親のかたきを討たないのは、一生の恥である。この身をここで殺さなければ、永遠の苦しみである。この身を殺すのは、直(じか)に如来になれば殺すのである。大乗、最上乗*の教えにふさわしい人には、如来を教えて、さまざまな定めについては言わない。如来は慈悲と功徳があり、もちろん虚も実もなく、去来することもない。

*大乗、最上乗:仏教の教えの区別。小乗、大乗、最上乗の順で高度で優れた教えとされている。

 

 ある人が地獄について尋ねた。私は言った。あなたの身に責められるのを言うのだ。極楽について尋ねた。身の責めが無いのを言うのだ。仏とは何か尋ねた。心身ともに無し。彼は言った。それでは死人に同じだ。私は言った。生きながら死人になるのを言うのだ。私の禅宗は、悟りである。お前さんの過去や現在の苦しみや楽しみは、今目の前にあるか無いか。彼は言った。何も無い。

  人の身の作法をさらに変えずして

  悟りて見ればただ何も無し

 (人の身の振る舞い方を何も変えることなく

  悟ってみればただ何も無い)

  人の身の作法をさらに変えずして

  迷えば常に苦しかりけり

 (人の身の振る舞い方を何も変えることなく

  迷っていれば常に苦しいのである)

 仏法は、天地の内の霊なるものであって、大いなる善である。人は天地を姿とするものであるから、仏道修行をするのである。

  

     心

 仏と言い、神と言い、天道と言い、菩薩と言い、如来と言い、いろいろと有り難い名前は、人の心の呼び方を変えて言っているのである。

 心は本来、一物(いちもつ)もない。

 心の動きは、第一に慈悲である。やわらかく、素直である。

 主君に向かえば忠誠を尽くすことを思い、親に向かえば孝行を思い、夫婦兄弟友人に向かえば、それぞれの道を正しくしようと思う。これが心の本心である。そのように有難いものである。

 心を妙と言い、阿字と言い、阿弥陀と言い、悟と言う。疑いは無い。自分の過ちを自分の心に見られては、許すことはない。悪人が必ず罰を受けるのは、その身の心が許さないからである。疑いは無い。善人が次第によくなるのは、その身の心から良いことを与えるのである。疑いは無い。そのように明らかに人々に備わっているのである。

 このように有難いものである。上に立つ者がひとり仏道修行をなされるならば、天下は太平である。国の主(ぬし)が仏道修行を行うならその国は安楽である。家の主が仏道修行を行うならその家は安楽である。それを知らずに、何事でも自分の思うままにまかせ、身の悪に騙され、人のことをいろいろと善し悪しにつけて妬(ねた)んだり嫉(そね)んだり、自分の心も自分の身もひとときも安楽な時はなく、常に苦しみ、悲しむことが絶えない。その悪念に引かれ、死んでから行く世も浮かばれることはない。情けなく悲しいことである。

 仏様がこの世に出られて、身の過ちを消し去りなさい、過ちがなければ身は無い、身が無ければ直に仏だと説かれた教えは有り難いものである。

 修行というのは、身の過ちを消し去ることである。立ち居振る舞いにつけて、自分の過ちを自分の心に見せて消し去ることを怠らなければ、とうとう消し去り尽くして、自分の身は直に虚空となり、虚空が直に自分の身となる。疑いはない。そのとき、生も死も、あらゆる事柄からすっと解放されて、大安楽であるから、そこを極楽と言うのである。願い求めることがないので、仏と言うのである。疑いはない。

  身も消えて心も消えて渡る世は

  剣(つるぎ)の上も障(さわ)らざりけり

 (身も消えて心も消えて渡る世間は

  剣の上であっても何の支障もないのである)

 疑いはない。

 

     人がつねに誤ること

 人に騙されて苦しみ、自分に騙されて喜ぶこと。

 人の死を知って、自分の死を知らないこと。

 人の良し悪しを選ぶが、自分は不作法であること。

 本来無と言うと、無と知ること。

 仏道に法(決まり)をたてること。

 仏道に入ることがなければ、身を守ることはできない。

 疑念をもつ人があれば、その人は身の仏を敬っていない。

 貧乏を苦しみ、逃れることを知らない。

 悟りをもって仏法と言う。悟人はまれである。

 ふと生じた悪念をひるがえすことができない。

 

〔おく書き〕

 右のこの一冊、寛文庚戌(寛文十年、1670年)末秋(陰暦9月)、これを取り集めたのであるが、このうえ加筆するのは誤りに近いとはいえ、不思議と命ながらえ、年が七十四才に及んで、釈迦如来のご説法に、少しも説法しなかったと仰せになったこと、生も死もあらゆる事が直に無いことなど述べおかせられたのにつけて、ふと思いついて、私が一生になすことは一つもない、これは誰でもが知ることであるから、ひょっとすると仏道に向かおうと思う人もあるかもしれないと願うにつけて、勧められるのを断りがたく、筆を加えるのも、私のように愚かな人の助けにもなることがあろうか。七十四才にして、この一枚の奥書きを書けと、門弟の要求のままに、筆をとったことなのである。

  延宝丙辰(延宝四年、1676年)仲夏(陰暦五月)  無難  花押

 前の本に奥書きがあり、今またこの六枚を書き添えたので、版木の業者がいやがるのでこれで留めて終わりとする。

 

[この六枚というのは、「この世で親のかたきを討たないのは一生の恥である」以下を言う。]

 

[(寛文十一年版の即心記には、冒頭に序文が一遍、巻末に跋文(ばつぶん、後書き)が三篇ある。「前の本に奥書きがある」というのは、つまり巻末の跋文三篇のうち、鉄道と至?(?は不の下に干、読み方不明)の二篇を言うのであろう。即明のものは初版には無かったのであろう。冒頭の序文は以下の通りである。)]

 

〔以下、序文および跋文三篇が続くが省略〕             終わり