*〔底本:公田連太郎(編)『至道無難禅師集」春秋社、昭和31年〕
*〔 〕はブログ主による補足。 [ ]は底本編集者による補足を表す。*はブログ主による注釈。原文はひらがなが多く、以下はあくまでもブログ主の解釈です。
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人があざけるのを忘れて、「即心記」「自性記」の二冊の法語を作る。ひょっとすると幼い女の子のためにでもなるであろうか。
一、一休和尚*の法語、その一句によって仏道を悟れば、永遠の苦しみを離れ、大安楽を得るであろう。誰であろうか、いろいろと言葉を添えて、かえって笑いぐさとなるが、嘆かわしいことこの上ない。大和尚のお書きになったものでさえ、末世**ではこのようである。私のような無学無知のものが書くことは、どれほどおかしくお思いになるかしれないが、言葉を添えることをお許しいただきたい。私は美濃の国(岐阜県の一部)関ケ原宿の番太郎(ばんたろう)***である。愚堂和尚(ぐどうおしょう)****の人足(荷物運び)をして江戸へお供をした時、和尚がかわいそうだとお思いくださって、本来無一物(ほんらいむいちもつ)*****とお示しくださり、たいへん有り難く思い、三十年修行して、じかに無一物になり、和尚のご恩によって、仏が有り難くもったいないことを知り、仏法を人に教えるのである。たいへん尊いことである。
*一休和尚:一休宗純禅師(1481年没)。室町時代の禅僧。子供時代のとんち話でよく知られる。
**末世(まっせ):末の世。お釈迦様が無くなってから仏法は正法、像法、末法と次第に衰退するという末法思想という教えで、古くからある。末世は、末法の世ということ。
***番太郎(ばんたろう):町村に雇われて町内の番小屋に住み、駄菓子・雑貨を売りながら、火事や盗賊の番をした者のこと。身分の低いものが務めた。
****愚堂和尚(ぐどうおしょう):愚堂東寔(ぐどうとうしょく)禅師(1577年~1661年)。至道無難禅師の師匠。
*****本来無一物:中国六祖、慧能禅師の語として知られる。「ほんらい何も無い」。
一、あるときのこと。孔子のおっしゃった一言を理解できれば、凡夫(ぼんぷ)*はたちまち聖人となり、明徳(みょうとく)**が明らかになり、有り難いということを、中国の人は見誤っているので、私は自分の拙さをかえりみず、孔子のためと思って筆を加えるのである。
*凡夫:真理を悟らない普通の人。
**明徳(みょうとく):儒教の経典(けいてん)である『大学』に出る言葉。「大学の道は、明徳を明らかにするにあり(大学の道は、明徳というものを明らかにすることにある)・・・。」至道無難禅師より少し後の、同じく江戸時代の盤珪禅師(1622年~1693年)は、この「明明徳」に疑問をもって出家し、ついに悟りを開いたと言われる。
一、ある人が、仏道へのこころざしを起こして楽をしたいと言う。私は思ったことだが、昔から仏道へのこころざしほど苦しいものはない。少しでも身の行いが悪ければ天罰を受ける。仏道へのこころざしが重大であることは、なかなか筆で書きつくせない。だいたいは、仏道へのこころざしを起こす人は、年をとってからである。第一に、財産や情欲の思いをやめ、世間に交わることなく、常に心を清らかに保ち、仏の教えにそむくことなく、何をするにつけても、身の業(ごう)*を消し去り、人が見ている見ていないにかかわらず、自分の本心、本性は直(じか)に仏である、もし身の悪をもってこの本心を汚せばどうしようかと、立っても座っても苦しみ、よく努力して、心を明らかにする。ほんの少しのこともすべて報いであると確かに知り、少しも自分のはからいにまかせず、仏のご説法が有り難いのを知るのである。
ある人が語ったことだが、鎌倉の山中で、三年間、松葉などを食べ、ときどき里に出てご飯を求め、そのような生活を守り続けることは、世間の人のできることではない。夜は狼の眼の光がおびただしく、さまざまな毒虫もいたが、この法師に過ちをすることはなかった。このように仏道に励むこと二十年に及んだが、人のためになったことはなかった。これはどうした事ですかと。私は言った。優れた師匠に会わなかったからである。自己のすることは、天に通じがたいのである。
*業(ごう):自らの行った行為の結果が現在に影響するという考え。その行為の集積のこと。
一、ある人が尋ねた。仏道の心を守る人は、踏み倒したり、打ち倒したりしても構わない、とはどういう事ですかと。私は言った。それは仏道の心の本意である。第一に、過去現在未来の罪は、どのようにして消滅するか。人に悪く言われ、思われて、喜ぶときは、罪はただちに消滅する。喜ぶことができなければ、何とも思わなくとも罪は消える。世の中の人のように、腹を立てれば、罪は増えても消えはしない。このように努力しなければ、まったく畜生(動物)と同じである。生まれ変わって牛や馬となるだろう。仏道の心を成就しようと思う人は、自分の心に恐れ、慎んで、身の業を消し去りなさい。ほんの少しでも人に食べ物を与え、あるいは物を与えても業は消え去る。
一、ある人が、仏道に励んでかなり時間がたつが、わが身の苦しみは絶えない、どうしたらよいだろうかと尋ねた。私が詳しく事情を聞くと、座禅をしてたまたま如来になっても、座禅をやめてその場を離れると、元のようになってしまうと言う。私は言った。物事に対面するのに三通りがある。物事に対面するとき、物事が移り行くだけであればそれは直心(じきしん、そのままのこころ)である。年取って衰えた人に対面して、かわいそうだなと見るのは仏の心である。慈悲の心である。年取って衰えた人に対面して、汚い、嫌だと思うのは、身の悪念である。その身が苦しみから離れないのは、常日頃の修行が間違っているからである。
一、もしも仏道へのこころざしを成就したいと思うのであれば、第一に友人を選びなさい。たまたま仏道へのこころざしを起こしても、あるいは若い友達に誘われて行楽に月日を送る者もいる。あるいは地位や身分の高い人に呼ばれて、自分の名誉や利益を求める心がまだ尽きていないので、喜んで、仏道へのこころざしが妨げられる者もある。
山林に入って、自分ひとりで修行に励んで、世間の人を見下す者もいる。そのような、自分では思いも寄らない妨げがあるものである。
一、仏道へのこころざしを堅く守ろうと思うなら、優れた師匠に会い、自分の本心、本性を確かに見、これを強く守りなさい。深い山に入るとか町中とかどこに住むかについては、自分の気持ちにまかせなさい。
一、檀那(だんな)*をもつ人は、それを頼りにする人もいる。仏道の心は、天地の中に頼りにするものはない。身の悪業(あくごう)を消し去り尽くし、天地と一体となるとき、天下の人が尊敬することは道理である。そのように修行しないうち、衣食住に苦しむことは、何とも言いようがない。
*檀那:僧や寺院に対する経済的支援者のこと。
一、仏道の心を守る人は、物事につけて恐れなさい。何も身の行うところがなくて衣食住が安泰なのは、必ず天罰を受けるので、仏道の心を守るには、何事につけても不足する状態がよいとするのである。
延宝甲寅(延宝二年、1674年)冬、右の四枚を書き添えるものである。
至道庵 無難