至道無難禅師「自性記」(3)

一、ある人が求めるのにまかせて、語った。

 本来無一物は、如来である。常に用いなければ大いなる悪念となる。常に用いるときには大慈悲心となり、あらゆる事柄に対応してどこまでも円(まど)かで明らかである。物に対応するときに円かな心になれば、如来がこの身を使っていることは確かである。

 

一、お金は天下の宝である。悪人が持てば、人を苦しめ、自分も苦しむのである。善人が持てば、人を助け、自分も楽しむのである。

 

一、知恵は身のうちの宝である。念から使えば、人も自分もともに苦しむのである。本心が使えば、人も自分もともに喜ぶのである。

 〈須菩提よ。もしも如来が来たり去ったりし、座ったり臥せたりすると人が言うなら、この人は私が説いた意味を理解していない。なんとなれば、如来はそこから来るところはなく、去ってゆくところもなく、それゆえに如来と名付けるのである。〉*

 この経文の心をある人に語った。たとえば鏡にものが映るようなものである。見聞きし何かを見知るとき、行ったり来たり立ったり座ったりするいつでも、念をとどめてはいけない。たとえばその身の眼は鏡のようである。どうして色事や財宝に念が出てそこにとどまるのか、と言うと、その人は「その通りです」と手を合わせた。

*〈 〉内は、金剛般若経、第二十九・威儀寂静分の文言。お釈迦様が、十大弟子のひとりである須菩提(しゅぼだい)尊者に語りかけている。

 

一、〈須菩提がお釈迦様に申し上げて言った。世尊よ。仏が阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい、この上なく優れた知恵)を獲得されても、獲得されたものは何も無いとすべきでしょうか。お釈迦様はおっしゃった。その通り、その通り。須菩提よ。この上なく優れた知恵においては、獲得できるほんの少しの事柄もない。これを名付けて、この上なく優れた知恵、阿耨多羅三藐三菩提と言うのである。〉*

 これは、すべてのお経の極意である。生きながら死人になる事、尋常のことでは難しいのである。

*〈 〉内は、金剛般若経、第二十二・無法可得分の文言。

 

一、〈須菩提よ。もし三千大千世界の中の山の王である須弥山の数ほど、珍しい七種の宝物を集めた人がいて、それを人に施したとしよう。また別の人がこの般若波羅蜜多経や、経中の四行詩などを保持し、唱え、他の人のために教えたとしよう。前者の福徳は、後者の百分の一にも及ばない。千万憶分の一、あるいは数で表すことができないほどの違いである。〉*

 これは、人に勧めて、仏道に入りなさいとおっしゃるのである。実にありがたい。大法(仏法の深く大きい真理)を知らない人が、何度も生まれ変わって苦しみを受ける事、どうして逃れることができようか。大法のありがたい事は、天地に替えるものがない宝である。なんともまあ愚かなことである。何やかやといっても死ぬということは目の前にある。主君をはじめ、親兄弟夫婦、誰一人も残るものはない。これにも懲りないわが身だろうかと、天に祈り、神仏に祈りをかけて、是非この今の世で大道に至り、さらに重ねて転生しない事を強く願いなさい。この話を聞いていた人が、私は時間がありません。修行につとめることができませんと言う。私は教えて言った。たとえば山に入って修行をする人はしっかりするだろうか。またこの恐ろしい情欲や財産の世間の中で、現実をじかに見、じかに聞いて、このことを是非成就したいと思って修行する人が、しっかりするだろうか、と聞いたけれども、昔の人も山はよいと仰ったと言う人ばかりである。

*〈 〉内は、金剛般若経、第二十四・福智無比分の文言。一つの世界の中心に非常に高い山である須弥山(しゅみせん)が一つあり、一人の仏がいる。この世界が無数に集まったのが三千大千世界。古代インドから仏教に入る宇宙観。

 

一、ある人が言った。この仏道の道に思い入れる心が強くさえあれば、山では松風、雪や月、鳥の声、こうしたものに向かうだけでやがて念が消えてゆくだろう。しかしむしろ、この世界の悪念が多い所で、強く努力して念を消すならば、剣の歯を直接渡るような所で、自分の悪念を殺すのであって、かえって山に入って十年の修行をするより、一日でも苦しみを離れれば、火の中で火の難を逃れるようなものだと言う人もあった。

 

一、仏の教えは、人それぞれに対して変わるので、仏を求める人にその気持ちを尋ねてみると、確実なことは分からないのだけれども、死んでのちにいろいろと地獄へ落ち、また極楽という所があると聞いたので、仏にすがり、極楽へ行きたいと祈っているのだと言う。この世はこのように浅ましく、苦しみの涙に沈んでいるが、因果の報いを受けてのことで悲しいと語る。

 

一、この世を安楽に過ごすにもかかわらず、仏の道を願うのは過ちだと言う人もいる。

 

一、仏のことも神のことも知らないで、この世は面白いといって世渡りする人もいる。

 

一、はじめから神仏のことなど言うのも嫌だといって、一生苦しんで世渡りする人もいる。

 

一、あるいは、他人の良し悪しを言って気を慰めて世渡りをする人もいる。