至道無難禅師「自性記」(8)

一、「その気持ちを誠実にしようと望むものは、まずその知を達成する。その知を達成するというのは、物を究明することにある」というのはどういう事か。私は言った。これは、確かな教えである。「物にいたる(物を究明する)」と言ったのは、極意である。本心の事である。孔子は、知らないのを本心とおっしゃり、子思(しし)*は天命性(天命は本性である)」と言い、曾子(そうし)**は「物にいたる」と説かれたのである。いずれも本心、本性の事である。

*子思:孔子の孫。紀元前483頃~紀元前402年頃。

**曾子孔子の弟子。紀元前505年~没年不詳。

 

一、「天命、これを本性という」*とはどういう事か。私は言った。身のほかは天である。人々の胸のうちに何も無いのは、天より与えられたということである。それがすなわち本性である。

 *「天命、これを本性という」:以下、『中庸』に出る言葉。

 

一、「本性にしたがうこと、これを道という」とはどういう事か。私は言った。身の念が無いところ、それが本性である。あらゆる事に染まらない心で見聞きし、気づけよ、ということである。見たり聞いたり気づいたりする主(ぬし)が明らかであるから、あらゆる事を行う所も明らかになるということである。

 

一、「道を修めること、これを教えという」とはどういう事か。私は言った。よく修行を果たすことのできた人は、人の師となるということである。

 

一、「道であるものは、かたときも離れることができないのである。離れることができるのは、道ではないのである」とはどういうことか。言うに及ばない。

 

一、「それゆえに、君子は、その見ない所で戒め慎み、その聞かない所で恐れ畏まる」とはどういう事か。私は言った。本性は見えず、本来無一物(ほんらいむいちもつ)である。心に恐れ慎めということである。

 

一、「隠れているの(本性)を見ることはなく、少ないの(心)は現れることがない。それゆえ君子はその独りを慎む(無)のである」*とはどういうことか。私は言った。君子は本心、本性を養うのである。養うのは身の悪をもって汚さないのである。身の悪をもって汚すのは、おそろしい事である。心は神といい、天道といい、仏という。三国(インド・中国・日本)に渡って言葉は別でも、元は一体である。ここは、じかに本性の正しいことを言うのである。無一物になったときの事である。仏法を悟らない凡夫の誤りはここにある。無一物ならば、見聞きや気づきはないだろうと思う。聖人は、見聞きや気づきにおいて無一物である。ここをよく理解しなければいけない。

*この部分の読み下しは、今日の読み方と異なるようであるが、底本の送り仮名によって意味をとっておく。

 

一、「喜怒哀楽がまだ起こらないこと、これを中と言う」とはどういうことか。私は言った。何もない所を本性と言い、心と言い、中とも言うのである。

 

一、「それらが生じて、みな節度をもっていること、これを和と言う」とはどういうことか。私は言った。本心、本性より出るものは、みな素直なのである。身の念から出るのは、言葉に過ちがあって、人が聞きがたいのである。

 

一、「中は天下のおおもとである」とはどういうことか。私は言った。無一物は天下の姿である。

 

一、「和は、天下に行われるべき道である」とはどういう事か。私は言った。本心、本性が物に及ぶのは、明らかで、よろしいことである。

 

一、「中が和を達成し、天地が定まり、あらゆる物が養われる」とはどういう事か。私は言った。本心、本性を体としてあらゆることを行なえば、聖人である。人はこのようなありがたい事が確かに自分の身にありながら、どうして悪念をもって自分を苦しめ、人を苦しめるのであろうか。まったく愚かなことである。第一に、子孫が報いを受けて苦しみ、その後は絶え果ててしまうこと、疑いはない。

 

一、昔、中国に伯牙(はくが)という名の琴の名人がいた。また、子期(しき)という、琴を聞く人がいた。あるとき、子期は伯牙の所へ行って琴をかきならすのを聞いて帰った。後で、どうして戻ったのかと尋ねたところ、琴の響きに物を殺すところがあったのを聞いたので、帰ったと言ったが、伯牙が言うところでは、庭の蜘蛛の巣に蜂がかかっていたのを見て、危ういことだと思ったのが、さては琴に影響したのだろうというのであった。私の弟子は、時の鐘を打ったのを聞く。何ともなしに打ったときは、天に響きがあって、悪魔が退くだろうと言った。またある時は、悪い響きである、悪魔が来るだろうと言ったので、時の鐘を打つ人に尋ねると、物思いをしながら打ったと言い、また何とも思わずに打つと言う。その道に優れた人は、普通の人の及び得ない事があるものである。

 

一、法華経の方便品(ほうべんぼん)に、「止止不須説、我法妙難思(やめよう、やめよう、法を説くことはすまい。私の法は言い難く、考えることも難しい)」とある。「妙」は言葉で表せないということである。たとえば人に向かって、何も思うところなく、一日語ったけれども話は尽きず、話していることも意識しないで、頷き、あらゆる事柄を忘れているときは、なるほど心持は軽い。去ってから後で、何を話したかもわからない。これは妙のおこなうことである。どんな事でも、心に合わないことを聞くと、気難しくなり、たちまち念となるのである。これは妙のおこなうことではない。たとえば妙は心である。念は身である。

 

一、「もろもろの増上慢の(おもい上がった)者、説法を聞いて必ずや敬い信じることはないだろう」*。妙というものは世界に満ちており、しかも自分は確かにいる。何事をなすのも、じかに妙がおこなうと言うのである。もっともと言って話を聞いてはいるが、その者の常日頃の悪念は言うに及ばず、それゆえに妙を軽く簡単なこととみて、必ず罰を受けるのである。妙に到達すればじかに仏の体となる。世界にめったにない至極の境地を言うのである。それだから、思慮分別が少しでもあれば、妙とは異なる。確かに罰を受けるのである。

 「たとえ一切の見聞き気づきを滅却して、内心の幽閑(奥深い静けさ)を守ったとしても、なおそれは法の塵である思慮分別の影となるのである」**

 幽閑は凡夫の及ぶところではない、なかなかありがたい事だけれども、仏になることはできないのである。

*前節の方便品の続き。

**楞厳経にある言葉。