*〔底本:公田連太郎(編)『至道無難禅師集」春秋社、昭和31年〕
*〔 〕はブログ主による補足。 [ ]は底本編集者による補足を表す。*はブログ主による注釈。原文はひらがなが多く、以下はあくまでもブログ主の解釈です。
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一、伊勢の神は、人の心である。伊勢の宮は、人の身である。身やが綺麗であれば、神が住む。宮が汚ければ、神は住まない。
一、人の身がいさぎよければ、心が澄む。身にこだわりがあれば、心は澄まない。身をいさぎよくしようと思えば、心を正しくしなさい。心を正しくしようと思えば、何も思わないようにしなさい。
一、どんな願いも望みもなくて、伊勢へお参りすれば、必ず善い。いろいろ望みがあり、願いがあって伊勢へお参りすれば、必ず罰(ばち)を受けるのである。このような事、知る人がないので、教えのために書き置くのである。
寛文九己酉(1669年)霜月(旧暦11月)の日
至道庵主
〇
一、仏と言うのも、天道と言うのも、神と言うのも、皆人の心を言うのである。そのことが確かであるのを知りたければ、誰でも、人の知らない悪いことをして、親も子も兄弟も知らなくとも、自分の心がそれをよく知っていて、心に痛められて苦しむ事、確かである。このことでよく理解して、我が身の過ちを我が心に見せて、悪を取り去りなさい。たとえ、外からどんな悪いことを言いかけてきても、自分の心がそれを知らない時は苦しまないのである。このようなわけであるから、仏と言うのは心の事なのである。
一、浮き世の人、心という事を知らず、つね日ごろ物に向かって善し悪しを言い、いろいろの事を分別するのを心だと思っている。それのことではないのである。何ものも無く、何とも思わない時を、心と言うのである。つねづね何も無い所をよく守って、身の悪を取り去りなさい。身の悪が強くて取り去ることができない時は、いろいろの行(ぎょう)などをして取り去りなさい。身の悪に引かれてまた生まれ変わって苦しむのである。
一、つねづね慈悲を行いなさい。慈悲といえば、物をあげることだと思っている。もとより、物を人に与えるのは、第一の慈悲である。つねに人の苦しむ事をせず、言わないのが慈悲である。
一、人が嫌がり、苦しむ事をして、宝を山ほど持ったとしても、やがて滅びるのである。疑いはない。このように努力を重ねて、仏といって仏もなし、仏法もなし、生きてもおらず、死にもせず、ここにもおらず、あちらにも行かず、虚空と同じようになって、虚空と思うこともなし。身もなし。何もかもなし。無とも有りとも思うこともなし。
思うままに使いなれたる我が身かな
使う我が身も我(われ)もなければ
(思うままに使い慣れた我が身であることよ
使う我が身も自分もないのであるから)
寛文九己酉(1669年)仲冬(旧暦11月)の日
至道庵主
つねづね観音菩薩を信仰しなさい
〇
一、火は物を焼くものである。水は物を濡らすものである。仏は慈悲をするものである。人に慈悲を行なえと教えますのは、仏のまねをしなさいという事である。慈悲の行いさえしていれば、必ず必ずよくなるものである。慈悲のもとは、心が清らかであることである。心が清らかであることは、無一物である。無一物は無一物である。言うに及ばないことである。善し悪しのほかである。自分の胸に善し悪しがあれば、この善し悪しにはばまれるものである。善し悪しがなければ、天地一枚である。物があれば天と隔たってしまう。よくよく心得なさるがよろしい。
何もかも知らぬ心の心こそ
名のみばかりの仏なりけれ
(何もかも知らない心のその心こそ
名前だけはある仏であることだ)
説く法は松の嵐にまかせつつ
身は大空のゆくえなきかな
(説法は、松をふく嵐の音にまかせて
この身は大空(おおぞら)の空(くう)をどこへ行くともない)
山深く霞(かすみ)の閉じる柴の戸に
来ぬ人通す入相(いりあい)の鐘
(山深く、霞が閉ざしている粗末な住まいに
来ない人を導き通す夕暮れの鐘の音であるよ)
神と言い仏と言うも天道の
同じ心の慈悲を言うなり
(神と言い仏と言うのも天道と
同じ心の慈悲を言うのである)
なべて人のおのが心に恐れなば
身の災いはさらになきなり
(およそ人は自分の心に恐れているなら
身の災いはまったくないのである)
一、必ず必ずたちまちに死ぬことになるのであるから、油断することなく、仏道を心がけるようになさい。仏というのは、自分の胸のうちより他には、けしの実ほどもないのです。自分の胸のうちに清々としてきれいな心をつねづねお守りなさい。自分の身を思う念が出て来て、つね日ごろ悪念があるのであれば、この世はしばらくのことにすぎず、いつまでもいつまでも、地獄に落ちて苦しみを受けるものなのです。これから出向く世のことはさて置いても、この世でいろいろ苦しむことになるのです。
一、自分の胸のいかにも清らかな心、慈悲の心、これよりほかに仏はないのです。
一、我が身を思う念、これに迷ってしまい、また生涯を変え変えて、この世でもできないことを願い、苦しむのです。たとえ願うことができても、人間の八苦*を逃れることはできないのです。清らかで慈悲の心であれば、すでに逃れているのです。
*八苦(はっく):生・老・病・死の四苦(しく)と愛する人と別れねばならない愛別離苦(あいべつりく)・にくい人と会わねばならない怨憎会苦(おんぞうえく)・求めるものが得られない求不得苦(ぐふとくく)・心身が思うままにならない五蘊盛苦(ごうんじょうく)を加えたもの。
至道庵主
一門の皆へ