至道無難禅師行録(4=終わり)

師は、常に人に示すのに、多く和歌を用いて、言った。

   心より外に入るべき山も無し

   知らぬ所を隠れ家にして

  (心のほかに入るべき山もない

   知らないという所を隠れ家にして)

 

   知れば迷い知らねば迷う法の道

   何が仏のまことなるらん

  (知れば迷い、知らなくても迷う仏法の道

   何が仏の真実なのだろうか)

 

   恐ろしき浮世の中をそのままに

   仏は物に障らざりけり

  (恐ろしい浮き世の中をそのままにして

   仏は何かに妨げられるということがないのである)

 

   さかしまに阿鼻地獄へは堕つるとも

   仏に成るとさらに思うな

  (真っ逆さまに阿鼻地獄へ落ちたとしても

   仏になるとはけっして思ってはならない)

 

   殺せ殺せ我が身を殺し殺し果て

   何も無きとき人の師となれ

  (殺せ殺せ自分の身を殺して殺し尽くして

   何も無くなったとき人の師となりなさい)

 

 ある僧が師の平生の在り方について尋ねた。師が示して言った。

   月も月花も昔の花ながら

   見る者の物に成りにけるかな

  (月も月、花も昔のままの花だが

   見る者が、その物になってしまっているよ)

 

 山を出たお釈迦さまの絵に賛を書いて、

   ひたすらに身は死に果てて活き残る

   物を仏と名はつけにけり

  (ひたすらに身が死に果てて活き残った

   ものを仏と名付けたのであるよ)

 

 臨済和尚の像に賛をして言った

   おのれめが破戒の比丘(びく)となる事は

   仏祖を殺す報いなりけり

  (自分が戒律を破る僧となる事は

   お釈迦さまや祖師がたを殺す報いなのである)

 

このほか、道歌および仮名文字での法語はたいへん多い。『即心記』『自性記』が現に世間で読まれている。

 

師の性格は、諸国の事に通じているわけではなく、また時勢と合うということもなく、文章に凝るということもなく、決め事に拘泥せず、一生涯にわたって私欲なく慎み深く、栄誉名声を求めず、言葉や行いは簡潔実直であり、自然と古人の風格があった。愚堂国師ご在世のおり、かつて師の見識がとび抜けているのを愛して、無難和尚と呼んだ。それからその時の人々がこれを尊んで、通称としたのである。

 

老中、大久保加賀守忠朝(1632年~1712年)の家に霊の祟りがあった。祈祷やお祓いがその術を尽くして行われたが、代々災いが絶えなかった。忠朝が師の徳望(徳が高く人々に慕われていること)を聞き、礼拝して救ってほしいと頼んだ。師は、白紙の上に大きく黒い餅を描いて渡した。たちまち霊の祟りがやんだ。これによって将軍綱吉公の侍局〔世話役だと思われるが詳細不明〕である貞松院が師を礼拝して出家し、尼となった。また正室である浄光院の侍女および女官たちは、話を伝え合って共に師の教えを受けた者の数はたいへん多かった。江州(近江の国、現在の滋賀県)朽木(くつき)の京極修理大夫(しゅりのだいぶ)は、貞松院長元尼公のすすめによって、管轄する村の普門寺に師を招いて仏道について尋ねた。(尼公の長元は、字(あざな、別名)を心操と言い、もともとは京極氏の出である。そういうわけでしきりに先代の主君に勧めたのである。郷土の人々も親族も共に尊敬し供養した。)しばらく住んだ後に再び東北庵に帰った。上杉氏の息女は、師の元に身を投じて尼となり、松嶺隠之という名を頂いた。後に興禅寺を創始し、師の指導をお願いして尼僧たちを世話した。

 

寛文の最後の年(寛文十三年、1673年)、師について道を学ぶ人々が、渋谷のさとに土地を選んで、再び禅河山東北寺を創建し、師を招いて開山始祖になっていただこうとした。師は、古風で素朴なのを好み、あるじとなることを望まず、正受慧端首座を推挙した。慧端はまた、信濃の国へのがれた。このとき、愚堂国師の最後の弟子であった慧水首座という者がいた。隠れ住んで久しく、府内(大分)の三田に居た。師はこれを招いて代わりに東北寺の第一代とし(後に全体道の法をつぎ、洞天と号して三度、妙心寺に住んだ。)、師みずからは別院に居て、至道庵主を名乗った。延宝二年(1674年)至道庵を小石川に移した。ここに三年たった頃、みずから職人に肖像を彫刻させ、また日頃携えていた拄杖(しゅじょう)・竹箆(しっぺい)・法衣・鉄鉢(てっぱつ)および国師から伝えられた払子(ほっす)を至道庵内に留めおき、弟子の丹瑞に保管させた。延宝四年丙辰(1676年)(陰暦)八月十九日、病なく、抜け殻を脱するように坐したまま亡くなった。七十四歳、僧侶としての年月は多くはない。弟子たちは師の全身を捧げて東北寺に葬った。

 

親密に印記(仏法を会得したことの証明)を受け、師の正統な法脈を継承したのは、ただ正受道鏡慧端禅師ひとりである。次いで四人の庵主がいる。各々が密かな伝授を受け、それぞれの持ち前に従って教化を行った。いわゆる祥山丹瑞庵主(至道庵二世)、光応一外庵主(谷中の幻住庵に住む)、岩融円徹庵主(極楽水庵に居る)、明通清艦庵主(至道庵の側に小庵を結んで居る)がそれである。また、隠之尼禅師・長元尼上座・是三尼上座などの何人かの禅尼がいて、師の篤実な風格を慕い、節を守って仏道修行に励んだ。僧や尼僧、男女問わず、また領主や大臣、貴婦人等で親しく教え励まされて仏道に入り、仏心に通じた者は数知れない。あるいは幽霊を成仏させて大きな恵みを受け、あるいは霊の祟りを沈めて後々まで恩を受けるといった類もまた少なからずあった。また、師が教化した縁のある寺も多く、普門寺(江州朽木)、清水寺武州すなわち武蔵国、稲毛)、興禅寺(府内すなわち大分、白金)、松嶺寺(本所)、即現寺(同所)、宣雲寺(深川)、五葉庵(今、松源に属する)、東北寺、至道庵がそれである。ただ道場だけがあって、相続といったことをしないので、師の人徳やお言葉は尋ね求めることができない。ここに概略を記して、後の君子を待つこととする。

 明和七年(1770年)秋、東北寺の忠山和尚が、一百年忌のためにあらかじめ贈号を求め、「妙心第一座」となった。

 

開山至道無難庵主禅師行録  終り