盤珪禅師「盤珪仏智弘済禅師御示聞書 上」(1)

*底本:鈴木大拙(編校)『盤珪禅師語録 附 行業記」岩波書店、1941年〕

*〔 〕底本編者による補足、( )は底本編者の挿入、[ ]はブログ主による補足を表す。

*はブログ主による注釈。

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盤珪仏智弘済禅師御示聞書 上

 

一 ある僧が尋ねて言った。私は生まれつき、常日頃短気でございまして、師匠もさんざん注意をされますが直りません。私もこれは良くない事だと思いまして、直そうといたしますが、これが生まれつきでございまして、直らないのです。これはどうしたら直りましょうか。禅師のお示しを頂きまして、このたび直したいと思うのでございます。もし直って郷里に帰りましたならば、師匠の手前も、また私の一生の面目も立つと思われますので、お示しを頂ければと思うのでございます、と言う。

 禅師は言った。お前さんは面白いものを生まれついたのう。今もここに短気がありますか。あるのならばただ今、ここに出してみなさい。直してやりましょう。

 僧が言う。ただ今はございません。何かの折にひょっと短気が出るのです。

 禅師が言う。それならば短気は生まれつきではございませんな。何かの縁によってひょっとあなたが出すのですな。何かの折に、自分が出さないのに、どこに短気というものがありましょうか。あなたが自分の身をひいきすることで、自分が向かうものに関わって、自分の思わくを立てたがって、あなたがその短気を出しておいて、それを生まれつきだと言うのは、難題を親に言いかける大変な親不孝者というものでございますわの。誰でも皆、親が産み付けてくださったものは、仏心ひとつで、他のものはひとつも産み付けはいたしませんよ。ところが、一切の迷いは、自分の身をひいきにすることで自分が産み出しておいて、それを生まれつきと思うは情けない事でございますぞ。自分が産み出さずに、短気がどこにありましょうかの。

 一切の迷いも皆これと同じことで、自分が迷わなくて迷いはありはしないのですぞ。それをみな誤って、生まれつきでもないものを、自分の欲で迷い、自分の気性で、自分で生み出しておきながら、生まれつきと思うので、一切の事柄について迷わずにいるということができないのです。それほど迷いが尊いのであれば、一仏心に変えて迷ったらよろしかろう。みな一仏心の尊いことを知れば、迷いたくても迷わないのが仏、迷わないのが悟りで、ほかに仏になりようはございません。私が言うことを、そばによって、とっくりとよくのみ込んでお聞きなさい。

龍門寺本〔そなた一人に限らず、私のところに来られる皆さんの言うことを聞くと、どれも、皆さんの誤りで、仏心を念に変えてしまってやめることができず、念に念を重ねて気性にしてしまい、それが生まれつきで直らないと言われるのです。あなたがた、よくご理解なさい。大事なことですぞ。ひょっと一念の迷いが出て、心の働き様が下りますと、谷水が流れ落ちるように下りまして、三悪道[地獄・餓鬼・畜生]へ落ちてからは、取り戻すことができません。あるいはまた自分の欲で気性を作り出して、その自分の気性のように自分に合ったものののことを、元来悪い事があるのですから人が悪く言えば、腹を立てて、ひいきをして、いいように言い直します。あるいは自分の気性のように自分には合わない者の事を、それはいいことなので、人が良いと言へば、あれのどこがいいのかと、また悪く言い返したりする。

 一切の事がこうしたことであって、ひょっと迷いが出ますと、鼻の穴がえくぼと見えるようになってしまい、今の一生から畜生道へ落ちて、死んでから後は鳥や獣や魚、虫けらと生まれ変わり、死に変わり、ひたすら落ちて行って、後は地獄に落ちてしまい、元の人間にまで登って生まれ変わることは、優曇華の花が咲くよりももっとあり得ないことなのです。皆さんも、めったになく人と生まれなさったことは、どれほど幸せかと思いますので、よく仏法をお聞きなさい。

 私のように、不生(ふしょう)が仏心、仏心は不生であって、霊明なものということを説く人は他に一人もおられないので、この法話をお聞きになるのもまた優曇華の花なのです。身のひいきから迷い、その迷いから気性を作り出しておいて、生まれつきとは大きな間違いです。こんどのことできっぱりと決心して、二度と迷わないように、平生、仏心でいるようになさい。〕

 あなたの短気が出るのは、対面する者があなたの気に逆らうようなときに、自分の思わくとは違うので、その思わくを通そうとして、対面する者に取り合って、自分から短気を出しておいて、短気が生まれつきでどうしようもない、と言うのは、親の産み付けもしない難題を親に言いかぶせる大不孝なのですぞ。生まれつきであれば今もあるはずですが、生まれつきでないから、今はないのですな。あなたの短気というのは、六根[ろっこん:眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの感覚]の縁に対して、対面するものに取り合って、わが身をひいきにすることから、自分の思わくを通そうとして、その時々に自分が産み出しているのじゃな。身のひいきをせず、対面するものにとりあわず、自分の思わくを通そうとしなければ、どこに短気が出てきますか。出てきはしませんわな。そうすれば、我が身のひいきのゆえに、自分で迷っている事だわな。これにかぎらず、一切の迷いは、すべて身のひいきから迷うのですな。身のひいきをしないで、迷いは出てはきませんわな。ここをよくお聞きなさい。親が産み付けてくださったのは、不生の仏心一つで、他のものは産み付けはいたしません。それをあなたが、幼い頃から、他人が短気を出すのを見ならい、聞きならって、あなたも短気が気性となって、時々ふっと短気を出して、生まれつきだと思うのは、情けないことでございますな。今から、これまでの間違いを知って、この場から長く短気を出さないようにするのに、直す短気というものはありはしないのですな。直そうというようりは、出さずにいるのが近道ですわな。出しておいて直すというのは手間がかかり無駄なことというものですな。出さなければ直すこともいらないので、このことをよくわきまえなさい。よく納得すれば、この短気という一つのことについて、他の一切のことも同じように迷いはしませんわな。そうすれば常住不生の仏心ひとつでいて、他のものはありはしませんわな。その不生の仏心で、今日生きて働き、一切のことが整いますから、我が宗を仏心宗[禅宗の別の呼び名]と言い、また今日の活仏(いきぼとけ)というものでございますぞ。直指(じきし:ずばりと指し示す)の尊い事ではありませんか。

 皆私に任せて、私次第にして、まず三十日不生でおられましたならば、それから後は、自然と居たくなくてもいやでも不生でいねばならぬようになるものであって、みごとに不生で居られるようになるものでございますぞ。不生である仏心でいるところで、平生、仏心一つではたらいているというものでございますよ。そうすれば今日の活き仏ではありませんか、皆今日生まれ変わったようにして、新しくなって私の言うことをお聞きなさい。自分のところに何かがあれば、耳には入らないものですから、今新しく生まれ変わったようなつもりで聞けば、始めて教えを聞くようなもので、自分の内にものがないので、一言言っただけでもはやくも聞き取って、仏法が成就することですわな。