盤珪禅師「盤珪仏智弘済禅師御示聞書 上」(2)

二 禅師が先のようにお示しになったのを聞いて、出雲の俗人が禅師に尋ねて言った。禅師のお示しの通りであれば、無造作に仏心でいれば気楽でございますが、あまりにもお示しが軽すぎたのではございませんでしょうか、と。

 禅師は言った。仏心でいなさいというのが軽すぎますか。あなたが仏心を何でもないものと思って、腹を立てては修羅道に変え、自分の欲を出しては餓鬼に変え、愚痴を出しては畜生に変え、種々さまざまなものに心を簡単に変えてしまって迷うが、それが軽すぎるのです。私が示したことは軽すぎることはないのですぞ。仏心でいるより重く尊いことは、また他にはありはしないのです。ですから、私の言う通りにして、仏心でいるようになさい。仏心でいなさいということは、軽いことのように思われましょうが、重いことなのですから、皆の衆が、仏心を得ているということではないのですよ。それが軽いことですか。また仏心でいることは、重いように思われましょうが、今この話を聞きいれて、よくわきまえて心が定まって仏心でありますなら、また骨折りをすることもなく、軽く、気楽に今日の活き仏でいるというものでございますよ。そうではないですか。私が言うのを聞く。あなたが無造作に仏心でいる事は気楽なように言うけれども、気楽ではなく仏心を修羅に変え、餓鬼に変え、畜生に変えるのですな。つまらない事についても腹を立てるのは修羅道を作っているので、死んで後は言うに及ばす、修羅道に落ちることは知れたことですわの。また自分の欲のゆえに、ひたすら仏心を欲に変え、欲は餓鬼になる因でありますから、今の一生を生きている内から密かにとっくりと餓鬼道の下地をこしらえているので、死んで後、餓鬼道に行く事は言うに及ばず、明らかに知れた事ですわの。さてまた、自分の思わくのために益もないことをぐいぐいとひたすら念に念を重ねて執着し、思い続けて、思いをやめることができず、仏心を愚痴に変えてしまうことですわな。愚痴は畜生になる因でありますから、今生きている内からし畜生道に行くことは、明らかに知れたことなのですよ。このことを知ることができないので、みな生きている内から三悪道の道をとっくりとよくこしらえておいて、みな三悪道の場所取りをしているのを見ますと、おかしなことに思えますな。修羅に変えず、餓鬼に変えず、畜生に変えなければ、おのずから仏心でいるより他にしようがないのでございますよ。何とかよく徹底しましょうの。

 出雲の国の俗人が言う。非常にもっともでございます。あれこれ申し上げるべきこともありません。たいへん有り難く存じ上げます、と。

 

三 禅師が言われた。仏心は不生で、霊明なものに極まりました。不生なる仏心。仏心は不生で、それで一切の事が整いますわな。ですから皆、不生でおられよ。不生であれば、諸仏がよくそこに居るというものでございますな。尊いことではありませんか。仏心が尊いことを知りますれば、迷いたくても迷えはしませんな。これをしっかり徹底すれば、今、不生でいるところで、死んだ後、不滅なものとも言いませんな。生じないものが滅する事はありませんから、そうじゃございませんか。

 

四 ある僧が尋ねて言った。禅師の平生のお示しに、不生でいよ、とおっしゃられていますが、それでは平常空しく過ごすだけのように思われますが、と言う。

 禅師は言う。平常不生の仏心でいるのが空しく過ごすと言うのですか。あなた方が常に不生の仏心でいることなく、常に他の事に気を取られるのが強くて、あれにかかり、これにかかり、ひたすら不生の仏心を他のものに変えてしまっているが、それが空しいというものですわな。

 この僧の返事はなかった。

 禅師はまた言われたが、空しく過ごすということではありませんので、不生でおられよと仰られたのである。

 

五 ある僧が尋ねて言った。禅師のお示しのとおりでありますれば、うっかりとしているだけのように思われますが、と言う。

 禅師が言うには、あなたが何も思いがけなくいるときに、後ろから背中を人が錐でついたなら、痛いと気づきますか気づきませんか。痛いと気づきますでしょう。

 僧は言った。痛いと気づきましょう。

 禅師が言った。それならば、うっかりではありませんな。うっかりならば気づかないはずですが、うっかりでないので、よく気づくのですな。それであれば、いつうっかりでいたということがありますかな。ありはしませんな。そういうわけだから、私に任せて不生の仏心でおられなさい、と。

 

六 ある僧が尋ねて言うには、私どもは、日ごろ心がお留守になることが多くありまして、このことがよく理解できませんので、お示しを頂きまして、お留守にならないようにしたく思います、と言う。

 禅師が言うには、みな親の産み付けてくださった不生の仏心は、霊明なものであって、日ごろ皆にお留守になっていることはありませんが、あなたはいつお留守になっておられた事がありましたかな。あなたがお留守と言っているのは、他の事ではない。お留守というものは、お留守ではありません。あなたが仏心を知ることができないので、仏心のままでおらずに、仏心をあれに変え、これに変えてしまっているので、何を聞いても耳に入らないのです。仏心をものに変えているというもので、お留守というものではありませんな。お留守であるものが、お留守と言いましょうか。お留守ならば、お留守であることも知らず、尋ねることもしないはずですな。みなよく寝入っていても、お留守ではないから、人が呼び起こせば返事をして起きますわな。いつお留守なことがございますかの。この場でもその通りで、これまで、今後とも、日ごろお留守というわけではありませんな。ただいまこの場には一人もお留守な人もなくまた一人も凡夫はおられません。みな親の産み付けてくださった仏心一つどうしの寄り合いでございますよ。この場を立ち去って、ただいま私の教えを聞いている時のようにして、ふだん一切の事を整えていなされ。それであれば、不生の仏心ひとつでいるというものでありますな。自分の欲のきたなさで、気性を作り出し、わが身のひいきをして迷います。仏心を退き、つい凡夫になってしまいますな。もともと凡夫は一人もおられませんがの。

 同じ道を連れ立って二人が行きますが、一人は盗みをし、もう一人は盗みをしない人でしたので、盗みをする人は同じ人でいながら、もう一つ泥棒という名を付けて掲げてまわることになります。盗みをしない人は、世間で泥棒と言う人もなく、泥棒という名を掲げてまわるということもありません。ちょうどこのように、泥棒は凡夫で迷っている人です。盗みをしない人は、仏心でいて迷わない、不生の人でいらっしゃる。誰が親でも同じで、盗みを産み付けた親は一人もありましませんな。ところが今、幼少の時からひょっと悪い気が付き始めて、人の物を盗み取って、次第に大人になるにしたがって、自分の欲をば出して、上手に盗みをするようになって、誰も盗みをとめられなくなりますな。盗みをしなければ、それをやめるということも必要ないのだから、みな覚悟のないことを言わずに、人の物を盗みたいというのも自分の生まれつきでやめられないというのは、さてさて愚かなことでございますな。親が盗みを産み付けていない証拠には、生まれながらの泥棒はいませんな。人の悪い癖をみならって、自分の欲で自分で盗みをするのではありませんかな。それを生まれつきと言っていいものか。また、盗みは、私どもの業が深いので、盗まずにはおられないのですと言う。自分の欲で気性を長い事つくってきたことは言わないで、業のせいにして、みな利口そうなことを言っております。おかしなことではありませんかの。業があって盗みはしはしません。自分が盗むのが業ですな。たとえまた業でありましょうとも、また生まれつきでありましょうとも、それがいけないことと知って自分で盗まずにおりましたら、やめられないということはございませんな。盗みをしなければ、やめることもいりませんわな。たとえば昨日まで大悪人であって、千万人の者に後ろ指をさされましても、今日、それまでの誤りを知って、仏心でおりますれば、今日からは活き仏でございますわな。

 私が若い頃に、この近くに名を「かつは」と言う、熊坂の長範[くまさかのちょうはん、平安時代の伝説上の盗賊]のような大泥棒がおりましたが、ひたすら追いはぎをして、金銀を得ましたが、泥棒の優れた技を得た者であって、向こうから人が来れば、あれは金銀をどのくらい持っているかということを言うと、少しも間違うことがないほどのおそろしい者でありましたが、あるとき捉えられて、大阪の牢獄へ長い間入っておりまして、長い年月が経って、あまりにも泥棒の名人であったので、殺されずに助かり、目明し[めあかし、役人の下で罪人の捜査や逮捕に協力した者]になりまして、その後、目明しの役からも解放されて、自由になりまして、それから後は、仏師になり、仏像作りの名人で、大阪にいましたが、後生を願うようになって、念仏三昧で死にましたな。どこに業が深くて盗み、罪が深くて盗みをする者がありましょうか。盗むのが業、盗むのが罪でございますわの。盗みをしなければ業も罪もありませんわの。盗みをしようとすまいと、自分の心のままで、業ではございませんな。今、このように申し上げるのは、盗みをするということだけではありません。総じて一切の迷いは、皆盗みをするようなものであって、迷うとも迷うまいとも自分の心のままでございますぞ。迷う人は凡夫、迷わない人は仏で、別に仏でいるのはこれより外に近道はございませんわの。そうじゃございませんか。みなさん、このことをよく心にお決めなされよ。