盤珪禅師「盤珪仏智弘済禅師御示聞書 上」(3)

七 ある人が尋ねて言った。みな人が申すには、禅師には他心通〔他人の心を読むことができる神通力〕があるというのですが、本当でありましょうか、と。

 師は答えて言った。我が禅宗にはそのような奇怪な事はありません。たとえあっても、仏心は不生なものでありますから、用いたりはいたしません。私がみなさんの身の上のことを批判して聞かせるので、他心通があるように思われるでしょうけれども、私に他心通はありません。みなさんと同じ事でありますわな。不生でいれば、諸仏の神通の元でありますから、神通力に頼りませんでも、一切の事が整いまして、らちが明きますわな。いろいろとさまざまの脇道の事を言わなくても、不生の正法は、みな自分の身の上の吟味で済むことでございますわな。

 

八 ある人が尋ねて言うには、私も随分と生きながらえまして、修行をしまして、進んで退かずと心がけて参りましたが、どうしても退く方が強くなってしまいまして、気落ちしてしまいますが、これはどうしたら退かないようになりますでしょうか、と言う。

 師は言われた。不生の仏心でいなさい。不生の仏心でいれば、進むこともなく、退くこともいりませんな。不生でいますれば、進もうとするのが、はやくも不生の場を退くというものでございますな。不生の人は、進退にはあずかりませんな。常に進退を越えている事でございますな。

 

九 ある僧が尋ねて言った。私は、長いあいだ「百丈野狐(ひゃくじょうやこ)の話*」をもって悟りを開こうと骨を折りますが、いまだ会得いたしませんが、これはただ工夫が純一でないがためかと存じます。願わくば、禅師に開示していただきたいと思いますと、言う。

 禅師が仰るには、私の所には、そのような仏法の古道具のせんぎはしません。あなたは、まだ不生であって霊明な仏心だという事を知らないようなので、言って聞かせましょう。それでらちが明く事ですから、私が言うのをとっくりとよくお聞きなされ、と言って、いつものように不生についてお示しをなさった。この僧は、聞いて深く納得して、その後に、大衆を越え出る優れた人となったと言う。

*百丈野狐の話:公案集『無門関』第二則になっている話。

 

十 また傍にいた僧が尋ねて言うには、そうだとすると、昔の人の古則話頭(祖師たちの逸話やそれにちなんだ公案坐禅の際に師から課される問題のようなもの)は役にも立たず、無用のものでございますか、と。

 禅師が仰るには、昔の徳のある和尚たちが人に対処される仕方は、その場にあたり、その人に対面して、ただちに疑念を取り除かれただけの事で、今は別に必要はありません。私の口から必要なものとも不要なものとも、役に立つものともたたないものとも言い様はありませんな。みなただ不生の仏心でいればそれで済むのですから、それで済む事にまた脇道にそれるべきではありませんわな。ですから不生でいるようになさい。ただ、あなたは、ひたすら脇道へそれようとするのが強く、かえってそれに迷わされるようですので、それをやめてただ不生で霊明な仏心にきわまっているまま、不生の仏心でいるようになされよ、と。

 

十一 禅師は、ある日集まった大衆に言った。一切の迷いは、みな自分の身をひいきすることから迷いが出るのです。身のひいきさえしなければ、一切の迷いは出はしませんわな。たとえば、隣の人が喧嘩をしますれば、こちらの人には分(ぶ)がない、こちらの人は道理にかなっているということが明確に理解できて聞こえますが、自分の身に関係ないことですから、聞こえるだけで腹は立ちませんな。それがもし自分の身に関係してきますと、我が身のひいきをしますから、立ち向かう者に取り掛かって、仏心をとうとう修羅に変えてしまい、互いに責め合うということになってしまいますな。あるいはまた、仏心は霊明なものでありますから、それまでに自分が行って来たことの影がうつらないという事はございませんな。そのうつる影に執着してしまえば、ついまた迷いが出てしまいますわの。それまでに見たり聞いたりしたことの縁によって、その見たり聞いたりしたものが移るというものでございますな。もとより念というものに実体はありませんから、移れば移るままに、起これば起こるままに、止めば止むままにして、そのうつる影に執着さえしなければ、迷いは出はしませんわな。執着さえしなければ、迷いませんから、どれほど影がうつっても、うつらないのと同じことでございますわの。たとえ念が百念、千念きざして起こってきても、起こらないのと同じことで、少しも妨げになりませんから、払うべき*念、断ずる念と言っても、一つもありはしませんわな。

*原文は「はよふ念」となっているが、意味が不明なので「はらふ=払ふ」と理解しておく。