盤珪禅師「盤珪仏智弘済禅師御示聞書 上」(5)

十四 また禅師が仰るには、私のところでは、ふだん不生の仏心でいよとだけ勧めて、別に規則といって特別に立てて勤めさせはしませんけれども、毎日線香十二本ずつは、皆が話し合って勤めよう(坐禅をしよう)*と申しますので、どのようにでもしなさいということなのでございますよ。十二本ずつと決めておいて勤めさせるのでございますな。しかし不生の仏心は線香の上にありはしませぬぞ。仏心でいて迷わなければ、外に悟りを求めず、ただ仏心で坐し、ただ仏心で居て、ただ仏心で寝、ただ仏心で起き、ただ仏心で暮らしておるので、平生、何をするにつけても、活き仏で働いていて、他に事情もありませんわな。座禅は仏心を安座(安らかに落ち着かせる)することが座禅なので、常日頃が座禅でありますから、修行を勤める時ばかりを座禅と言うわけではありませんわの。座の時でも、用事があれば立っても構いませんので、私のところでは、皆の心次第にしておりますから、線香一本は経行(きんひん、座禅のあいだに歩くこと)し、また立ってばかりもいられませんから一本は座禅して、修行するようになされ。寝てばかりいるはずもないので起き、話してばかりいようはずもないので修行もさせますが、規則にかかわる事もございませんな。おおむね最近の僧は、道具**をもちいて人を指導して、道具でなければらちが明かないように思って、道具なしに直接さし示すということをしませんわな。道具でなければうまく行かないものとして、道具で人を教えるのは、瞎漢の禅子(かっかんのぜんす、仏法の目の開けない者)というものでござるわいの。あるいはまたこの仏道に進むのに、大疑団(だいぎだん、深く疑問を抱くこと)を起こしてその疑団が破れなければ役に立たないように、まずなんでもいいから疑団を起こせと言って、不生の仏心でいなさいとは教えず、疑団のない者に疑団をになわせて、仏心を疑団に変えさせてしまいますわいの。間違ったことでございますわの。

*座禅をするときに線香を灯して一定の時間座るもの。

**道具:ここでは公案などのことを指すと思われる。

 

十五 ある僧は、二十年来、脇を下に付けて横になったことがなく、悟りのために骨折って、いろいろとしてみたけれども、悟りが開けなかった。禅師が盛んに教えを広められていることを聞き及んで、禅師のところに来て教えを受けた。禅師は、不生の正法をお示しになられた。この僧、よく納得して言うには、師のいまだ聞いたことのない説法を承って、これまでの自分の誤りを知りましたと。

 師が仰るには、あなたが二十年来、骨を折った修行も、今日私が言う不生の一言にはおよびはしませんな。僧が言うには、なるほどその通りでございます。ごもっともに存じますと言うのであった。

 

十六 大結制(夏の修行期間が始まる日)の頃、丹波(たんば、現在の京都府兵庫県大阪府の一部)丹後(たんご、現在の京都府北部)但馬(たじま、現在の兵庫県北部)出雲(いずも、現在の島根県東部)美濃(みの、現在の岐阜県の一部)の国から、あるいは親と離れて嘆き悲しみ、あるいは子どもを失って嘆きがやまず、それによって禅師にお目にかかったならば胸が晴れると思って、国々から人がやってくる。女性もまた多い。そういうわけで、禅師はそうした女性のためにお示しになる。その教えに仰るには、

 親は子を失って嘆き、子は親から離れて悲しむ事は、それは世間一般に、親子の縁を結び、親となり子となって来た因縁の深いところで、親子が互いに離れたならば、そのようにもなろうことでしょうの。そうは言っても、みなさんが嘆いたからといって死んだ者が後戻りはしませんわの。戻りもしないものを愚痴の心から、ひたすらひたすら繰り返し繰り返しお嘆きになるが、この中に嘆きおおせた人があって、戻った人がおられますかな。ありはしませんわな。それならば、とても帰っては来ない事なのですから、これ以後はすっと嘆きを取り除いて、その嘆く手前で、一座の座禅をも勤め、一編のお経をも読み、お香やお花でも手に取って、その人の跡を弔ってやるのが、親には孝行、子には慈悲というものですわな。皆愚痴の心から、かえって妨げになることを知らずに、親のいとおしさに嘆き、子のかわいさに悲しんで、親や子に嘆いてやっているように思うのでしょうが、嘆くのは死人の妨げになるので、いとおしいといえども、いとおしいことにならず、かわいいといえども、かわいいことにならず、親や子をにくむというものですわの。親や子がにくければ、嘆くはず、またかわいければ嘆かないはずですわな。だとすれば、かわいさに嘆くというのは違うのですわな。ところが仕方のないことをずっと続けて、朝夕嘆き、自分の身命に変えて念に念を重ねて人の言うことも耳に入らず、手柄でもないことを終日終夜、涙ばかりをこぼしているのは、大きな間違い至極で、愚痴というものでござるわな。愚痴は畜生になる原因でありますから、その愚痴で死ぬなら、親子ともに真直ぐに畜生道に落ちて、互いに責め合うという事は、言わなくとも知れたことでございますわの。人々みな親の産み付けてくださったものは不生の仏心ひとつばかりで、他のものは産み付けはしませんわの。その不生の仏心を、親や子のゆえに愚痴に変えてしまって、みな生きているうちからして、こっそりと、上等な畜生でいるのですから、死んでから後は、まっすぐ畜生道に落ちて、親子どうし責め合うが、それが手柄でもありはしませんわな。私はそれがおかしくて情けないことですわな。そうではありませんか。これをよくお聞きなされ。

  親は子に慈悲を加えるのが親の道、子は親に孝行をつくすのが子の道じゃわの。ところが子が先に死んで親に悲しませて、親を愚痴の畜生にするのは、これが子の孝行でありましょうか。大不孝な子というものですな。その死んだ不孝な子が死んだので、親を畜生道に落として、その子の未来が安楽だろうと思いやりますか、安楽ではありませんわの。親子どうしで悪道に一緒に落ちるよりほかの事はないのですよ。親はまた仕方のないことをひたすらに悲しんで、子のゆえに迷い、自分は畜生になって、かわいいという子を地獄に落とすが、これが親の慈悲というものでありましょうか。子をにくむというものですわな。そうすれば、子が死んで親を畜生にすれば大不孝ものですわの。また親はその子に迷って仏心を畜生に変えてしまうので、互いに親子ともに地獄へ落ちて恨めしい敵となって責め合い、地獄の罪人となりますわの。ですから、子を失っても親と別れても、念に念を重ねて嘆けばあだになりますから、そのあだを顧みずに嘆いてよいということはないはずですな。これでも嘆かれますか。嘆くことはできますまい。その嘆きの代わりに、一編のお経を読み、一座の座禅を勤めて、お香やお花を供えて、その人の跡を弔うのが、これこそ死んだ人をいとおしいと思い、かわいいと思うというものでございますわの。

 親に離れ子を失ってから、信心のなかった人も、それから信心を発して、こころざしを起こして、後生を願う人となれば、子を失ったがゆえに信心する人に成ったのであるから、これは親が子に救われたというものですわな。そうすれば子は死んで、親を信心者にしたのですから、死んだことが幸いになって、生きているよりもまさって親へ大孝行をつくすというものでございますわな。その大孝行を尽くして親を救った子が死んだ後が悪いと思われますか、悪いはずはありませんわな。そうすれば親子ともに助かるというものでございますわな。子のゆえに親が信心を発し、不生の仏心でいれば、子は死んで、結局はめでたいというもので、子は親のために知識(仏道への導き手)となったというものですわな。

 みなさんがこの寒い季節に、遠路はるばる私に会って思いを晴らそうと思うばかりにここへおいでになった事は、気の毒に思いますわの。それですから、遠路はるばる来たかいのあるようにして、みな国元へお帰りになるようになさるのが、人々の徳というものでございますわの。どれほどか悲しい事を、私に会って胸を晴らそうと思っておいでになった事ですから、悲しみをまた国々へ持って帰らずとも、ここに置いて帰るようになされませ。

 私がいう事を、とくとよく納得なされば、、悲しみはあだになるのですから、悲しむことはないはずですわな。それでも嘆かずにはいられないという人があれば、その人は仏心を愚痴の心に変えている人なのですから、子は親を愚痴に変えてしまった罪によって地獄に落ち、また親は子ゆえに迷って仏心を愚痴に変えてしまえば親子ともに畜生道に落ちて、責め合うというものですわな。これでは皆さんに、嘆きなさいと言って勧める人があっても嘆くことはできないはずですが、どうですこれでも嘆きますか、とおっしゃると、

 嘆き悲しむことがあって各地から禅師のお示しを聞きに来た女性が大勢ありましたが、みな残らず言うには、なるほど本当によく分からせて頂きまして、すっと思いの胸がすっかり晴れまして、有難く存じますと言う。

(禅師が仰るには)それであれば、この寺の門を外に出て、みなさんの国元へお帰りになっても、その通りでありましょうか。

 女性たちの言うには、嘆きますのは、いとしさ、かわいさのあまりで泣いているのでありますから、お示しをとくとお聞きしまして目を開かれまして、嘆くならばそれがあだになって死人を憎むというもので、かわいい、いとしいというのでなく、死人のあだを作ることになりますので、嘆いて死人にあだをつくりだすようなことはいたしません。そのことを知りませんで、不覚であったことを思い知りましたので、この場ではもちろんのこと、私どもが国元へ帰りまして、親と離れない前、また子どもの死にません前の心持ちでいまして、たとえ嘆けと勧める人がありましても、これ以後すっと嘆くことはいたしますまい、と言って下がったのである。

龍門寺本[私どもが国元へ帰りまして、毎日のご説法に、不生の仏心は霊明なものとお示しを頂きまして、お聞きしましてからは、親と離れても離れなくとも、子どもを失っても失わなくとも不生でいまして、仏心を嘆きに変えることはすまいと、存じ上げる次第です。たとえ嘆けと勧める人がございましょうとも、これ以降はすっと嘆きますまい、と申し上げて、みな老若の女性たちが故郷へ帰っていったのでした。]