盤珪禅師「盤珪仏智弘済禅師御示聞書 上」(10)

(二十二つづき)あまりに身命を惜しまず、全身を地獄の火で*砕きましたので、座っている所が破れまして、座るのに大変困りましたが、その頃は根気がよくて、一日も横になって寝るということはありませんでした。しかしながら、座っている場所が破れて傷んでしまいますので、小杉原(こすぎはら:鼻紙などにつかった紙)を一畳分ずつ取り換えて敷いて座りました。そのようにして座らないと、かえって座っているところから血が出て痛みまして座りにくくなりましたので、綿などを敷くこともありましたわな。それほどでありましたが、一日一夜もついに脇を座に付けることはありませんでしたわの。その数年の疲れが後で一度におこりまして、大病者になりまして、あの明徳は決着せず、長い間明徳にとりかかって骨をおりましたわいの。

*地獄の火で:原文は「こつかに」とあり、ここでは「業火(ごっか)に」と読んだ。

玄旨軒眼目[師はその後、故郷へ帰って数年のあいだ引き籠ったが、一丈四方の部屋*を造り、牢屋のようにして、お椀が入るほどの穴を壁にあけて、戸の入口も土で塞いで出入りすることはなかった。食事は二回、壁に開けた一尺四方**の丸い穴から入れた。食事が終わればまたお椀を穴から出し、大小便は外の便所へ中からうまくできるように造ってあった。そうして先のつとめはこの内でのことというのである***。ある時、壁の穴の端に、何やら紙がちらちらしていたが、それも気が付かずにいたところ、禅師が「それを取って見てくれ」というので、取って見ると、十日も二十日も後の事でまだ来ない事が、書き付けてあり、「いついつ幾日の日は、どこから何が来る」だの、あるいは「伊予の国(現在の愛媛県)から使者が何日の日に来るが、何の用で来る」ということが覚え書きのようにして書いてあるが、一度も違っていたことはなかった。大変不思議な事であったと傍で使える者への話しであった。]

*一丈:約3メートルほど。

**一尺:約30センチほど。

***「この内でのことと」:原文は「此の内の受と」とあり、底本では「意味不明」と注記があるが、ここでは文脈からこのように読んでおく。

 それから病気が次第に重くなり、身が弱りまして、後には咳をしますと親指の頭ほどの血の痰がかたまって、ころりころりとまん丸に出て来ましたが、あるとき痰を壁に吐きかけてみましたところ、ころりころりところげ落ちるほどでございましたわの。このとき庵に住んで養生せよと皆が申しますので、庵に住みまして、しもべを一人使って病んでおりましたが、さんざん病がさしつまりまして、ひっしりと七日ほども食べ物がとまり、重湯以外は喉を通りませんで、それゆえもはや死ぬ覚悟をして思いましたのは、やれやれ仕方のないことだが、特に名残多いこともないが、ただ平生の願望を成就しないで死ぬことだな、とばかり思っておりました。そのおりにふっと「一切の事は不生で整うものを、今まで知ることができずに、さてさて無駄骨を折った事かな」と思いおりまして、ようやくそれまでの間違いを知ったことでございましたわの。

 またそれから気分がはっきりとして、喜ばしくなりまして、食欲が出まして、しもべを呼びまして、お粥を食べるから作ってくれと申しましたら、今まで死にかかっていた人が不思議な事を言われると、しもべも思いながら、喜びましてそのまま急ぎあわててお粥をこしらえて、少しでも早く食わせようと思ってまずお粥を食べさせましたが、まだろくに煮えておりません、粒の残る粥を食わせましたが、構わずに二三杯食べましたが、あたることもありませんでした。それからだんだんと回復し、今日までながらえていることでございますわの。

玄旨軒眼目[播州(播磨の国、今の兵庫県南西部)網干(あぼし)天徳山龍門寺の大結制(修行期間)は元禄三年(1690年)十月五日より始まり、翌年の正月五日に解散した。この正月で禅師は七十歳である。また翌年七十一歳の冬、美濃(みのの国、今の岐阜県の一部)ひたき*の玉龍寺で結制があった。龍門寺のものに劣らない。元禄六年酉の年、禅師は七十二歳で、江戸の光林寺に赴いている。その七月に再び播州に帰っている。ところが遠州(今の静岡県の一部)浜松からいくらか病状を示し、かつての寺に戻った。『落葉は根に帰り、来時口無し』(落葉が根に帰るように人は最後に故郷に帰る。この世に来たときに無言であったように、何も言わずに去るのである。)**という六祖大師のやり方と同じである。この年の九月三日、龍門寺で永眠する。門弟たちは遺偈***をお願いした。師は言われた。「わしは世にあること七十二歳、僧となって衆生を救うこと四十四年、人生の前半も後半も、わしがお前たち皆に示してきたことは、これすべて遺偈である。この他に別に遺偈を作るべきものはない。他の人にならってどうして死に至って言葉を差し出すことがあろうか。」と言い終わって座に寄りかかって超然として座ったまま亡くなった。僧侶も俗人も男も女も、父母を失ったかのようであった。一門の大衆は、霧の海で指針を失ったかのようであった。火葬したが臭いにおいはせず、骨は多く積み重なった****。門弟たちは密かに灰に紛れ込ませて各地に持ち去った。まったく釈尊の入滅のときのようである。

*ひたき:不明。

 **『落葉は根に帰り、来時口無し』:『六祖壇経』付嘱第十にある言葉。

***遺偈:死にあたって残す詩のこと。

****「骨は多く積み重なった」:原文は「骨節累累として舎利を綴る」であるが、意味がよくわからない。建長寺蘭渓道隆禅師示寂のおりの記事に「闍維得五色舎利。其煙觸樹葉。累然皆綴舎利。門人自遠方至者歴數十日。到葬所捜索林木。多得舎利。」(『元亨釈書』)があるという(堀邉 阿伊子」禅宗寺院における舎利信仰と空間認識」『駒沢女子大学研究紀要、第17号、pp. 227 ~ 233、2010年)。禅師を火葬したら五色の骨が出てきた。その煙が樹木の葉に触れた。すると葉が積み重なって骨を綴じ合わせた。門人で遠くから来たものは数十日もかけて来た。葬った場所に行ってその木を探し、多くの舎利を得た、ということであろうか。高僧の舎利に対する神秘的信仰が表されているようである。上記の「骨節累累として舎利を綴る」も、こうした表現に基づいているのだろうか。しかし、木の葉が「舎利を綴る」というのは情景が分からないでもないが、上記原文では骨が骨を綴じ合わせることになって、ブログ主には意味が理解できなかったため、上記のように訳しておいた。諸方のご教示を請いたい。

                                 (つづく)