盤珪禅師「盤珪仏智弘済禅師御示聞書 下」(2)

(二十四つづき)さて、江戸である儒学者が私にお尋ねになった事がございます。皆さんもお聞きなさい。よい事でございますので、話して聞かせましょう。どうお尋ねになったかというと、不生不滅の道理は、確かにお聞きすることができ、ごもっともに思います。ですが、この身が丈夫であるうちは、自分で前もって考えていない事を、耳には聞き、目では物を見分け、鼻では匂いを嗅ぎ、口では五つの味わいを覚え、あるいは物を言いますが、この体が去り終わりました後は、どれだけ何か言いかけても答えず、目では赤白の色を見分けず、香りを嗅いで知るということも少しもありません。このようなときは不生とも不滅とも言えないでしょう、とおっしゃったのです。

  これはこのように尋ねる気持ちがいっそうもっとものように聞こえますが、そうではありません。このことについていよいよ不生不滅の道理がよく通じます。なぜならば、この体というものは、いったん地水火風[四大=四元素]を借りあつめて生じた身ですので、生じたものはまた滅せずにはおらない道理ですから、ついにはこの体は滅します。ところで心は不生なものでございますから、体は土とも灰ともなりますけれども、心は焼いても焼けず、土に埋めても少しも朽ちるものではありません。ただ生じた体を一心の家として住みますので、そのあいだはものを聞き、香を嗅ぎ知り、何か言うのは自由ですが、借り集めて生じたこの体が滅すれば一心の住家がなくなりますので、見聞きし、ものを言うことができないまでのことです。今申したように、体を一度こしらえたので生滅があります。一心は元よりの一心ですから不生滅と説き聞かせましたが、この道理はしっかりとしたものではありませんか。

 釈迦の涅槃(ねはん)と申すものも、根(涅)は不生だと思います。槃は不滅の心でございます。私がどなたへも何を申し上げるかと言えば、自分の一心が不生であることを申し聞かせますだけでございます。ともかく一心のことを悟ることが大事でございます。もとより仏心を失っております。例えば盗みと申すものは、はじめは僅かの物を盗むことができて、これは元手もいらず、自分の手に入り、これほどいいことはないと思い、それからひたすら盗みが長じて、これがついに露見しないではおれらません。露見すれば縛られ、くくり付けられ、成敗にあいますが、その時は自分がした悪事をも忘れて、縛りさいなんでいる落ち度のない役人を恨み、これほどにつらいなされようはないと恨めしく言うのでございます。これは大いなる誤りではございませんか。このように大切な仏心を餓鬼道、畜生道へ変えますことは、さてもさても少しの過ちから生じたものなのでございます。

 私は、京都山科にも庵があります。この庵にいるときは、毎日京都に出ますが、その通り道が粟田口です。ここは悪人を獄門はりつけにする場所でありますので、しばしば通りかかって、そのような事を折々見ました。また江戸でも小出なにがし殿と申される方が悪人奉行でいらっしゃるが、私はこの人と親しいので、その屋敷へ毎日伺って見ますと、さまざまな悪人どもを連れて来て、役人たちが出て来てしばってくくりつけ、拷問をいたします。どれほどつらい目にあうことでしょうか。そのときは悪人どもは、自分が仕出かした過ちを忘れて、うらむべきでない役人のせいのようにうらむのを、しばしば見ました。私はその後、天下のご精進日を考えてきました。ご精進日には、このような悪人どもを連れて参りません。これはみな、少しの過ちから、さきのような仏性を地獄に変えてしまうということを申し上げるための譬えでございます。

 どなたもこの仏心に成るということをよくよく納得なさって、親が産みつけはしない身びいきの心をもたないように心掛けなされ。奉公をする人は男女とも主人に一身を投げて勤められよ。我が身を少しでもひいきすることなく、奉公をいたすことが第一のつとめでございます。とりわけ主君へ忠心を尽くしますことが、そのまま親への孝行でもございます。

龍門寺本[もし親の産み付けません身のひいきから悪事をいでかし、不奉公をなされば、親の産み付けてくれた仏心を悪事と変えてしまうのですから、親への不幸というものでございます。]

 親に孝行する人を主人もその孝行心を感じて、いよいよかわいがるものでございます。主人がそのようにかわいがってくださることを、親が聞いてその親が喜ばないはずはありません。そうしたときは、忠は孝ではございませんか。孝は忠ではございませんか。このことをよく理解なさって、不生のことわりをご納得されるがよろしいでしょう。

 親が自分を産んでくれたときは、この身をひいきする心は少しもないものでございますが、成人し、悪く育って、このひいきというものが出てきたのでございます。それが起こらない所が、すなわち不生でございませんか。その不生と申すものが仏心でございます。この道理について、皆さんの心に納得できないことがありますれば、何なりとお尋ねになられよ。それを尋ねる事に何のはばかりもいりません。このことは、当座の生活の事について尋ねるのとは違って、未来永劫のためでございますから、不審な点は、今聞かれた方がよいのでございます。皆さんにまた私がお目にかかることは定まったことではありませんから、このたび、何なりともご不審なことをお尋ねになって、とくとこの心の不生であることを納得なされば、皆さん一人一人の為になるのでございます。