塩山仮名法語(1)

*底本:古田紹欽(訳注)『日本の禅語録 第十一巻 抜隊」講談社、昭和五十四年〕

*この法語には、古田紹欽氏の現代語訳が同書に掲載されていますので、重ねて現代語訳を出すのは少々はばかられますが、同書は品切れで入手できず、WEB上には現代語訳は出ていないようですので、あえて拙訳を出します。これによって塩山禅師(1327年~1393年)を知った方は、図書館等で同書をお探しになり、古田氏の懇切な現代語訳をも参照されることをお勧めします。

*〔 〕底本編者による補足、( )は底本編者の挿入、[ ]はブログ主による補足を表す。

*便宜上、ひとまとまりごとに番号を付す。

*はブログ主による注釈。

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 一、輪廻*の苦しみを逃れようと思うのなら、じかに仏と成る道を知るべきである。仏と成る道とは、自分の心を悟ること、これである。自分の心というのは、父母もまだ生まれず、我が身もまだ無かったさきから今に至るまで移り変わることなく、一切衆生**の本性であるから、これを本来の面目(ほんらいのめんもく:本当の有り様)と言うのである。

*輪廻:生まれ変わり死に変わりを繰り返すこと。通常は六道輪廻(りくどうりんね)と言い、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六つの世界を経巡るとされる。

**一切衆生(いっさいしゅじょう):命あるものすべて。

 

、この心は元より清らかなものであり、この身が生まれる時も生まれるという相(姿)もなく、この身は滅するけれども死ぬという相(姿)もない。また男女の相にもなく、善悪という色もない。譬えも及ばないので、これを仏性*と言うのである。

*仏性(ぶっしょう):仏である本性のこと。

 

、しかもあらゆる念*がこの自性**の中から起こることは、大海から波が立つようなものである。鏡に姿が映るのに似ている。それだから、自分の心を悟ろうと思うならば、まず念が起こる源を知らねばならない。

*念:人の思い、思念。

**自性(じしょう):自分の本性のこと。ここでは仏性に同じ。

 

、ただ、寝ても覚めても、立ったり座ったりするにも、自分の心とは何であるかと深く疑って、悟りたいと深く望むのを修行とも工夫(くふう)*とも志とも道心(どうしん)とも名付けたのである。また、このように自分の心を疑っているのを、座禅とは言うのである。

*工夫(くふう):自心を悟ろうと探究すること。

 

、一日のうちに一千巻、一万巻のお経や呪文を読んで、千年、万年、修行に勤めるよりも、一念のうちに自分の心を見ることには及ばない。そのような有相の行*は、ただ、いったんは福徳を積む因縁となるけれども、その福が尽きてしまえば、三悪道**の苦しみを受ける。一念において工夫するのは、ついには悟りとなるので、成仏する因縁である。たとえ十悪・五逆***の罪を作ってしまった者でも、一念に翻って悟れば、そのまま仏である。

*有相の行(うそうのぎょう):お経を読んだり、呪文を唱えたりといった、姿形に表れた修行のこと。

**三悪道:地獄、餓鬼、畜生の道。

***十悪・五逆:殺生(ころし)、偸盗(ぬすみ)、邪淫(不正な性行為)、妄語(うそ)、綺語(かざった言葉)、悪口、両舌(二枚舌)、貪欲(むさぼり)、瞋恚(うらみつらみ)、邪見(よこしまな考え)を仏教では十の悪業とし、殺父(父ころし)、殺母(母殺し)、殺阿羅漢(悟りを開いた人殺し)、出仏心血(仏を傷つける)、破和合僧伽(僧侶のまとまりを壊す)を五つの重罪とした。

 

、だからといって、きっと悟るということを頼みにして、罪を作るようなことがあってはならない。自ら迷って悪の道に落ちる人を、仏も祖師方もお助けになれるはずもないのである。例えば、幼い子どもが父親のそばに寝ていて、夢の中で人から打たれたり、あるいは病気に犯されて苦しみを受ける時、お父さんお母さん私を助けて下さいと呼んでも夢を見る心の中へ行くことはできないので、父も母も助けることができないようなものである。たとえこの子に薬を与えようとしても、目を覚まさなければ受け取ることはできない。

 

、自分で目を覚ませば、夢の中の苦しみを逃れるのは、他人の力を借りるまでもない。自分の心がそのまま仏であると悟れば、たちまち輪廻を免れるということもまた、これと同じことである。

 

、もしも仏が救うことのできることであれば、いったいどんな衆生を一人でも地獄に落とすはずがあるというのか。あるはずはない。この道理が真実であることは、自分で悟らなければ知ることができない。

                               (つづく)