塩山仮名法語(6)

中村安芸守月窓聖光に示した教え

 

四十八、「応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)」(まさに住する所なくして其の心を生ずべし」*という一句について、どのように修行したらよいのかというお尋ね、承知しました。道を覚ることは、特別な注意はないのです。ただ直接に自分の本性を見て、他のみちに逸れなければ、心の華は開けるのです。それだから、経に、「とどまる所なければ、きっとその心を生じるであろう」と説くのです。仏や祖師方がお示しになった一千句、一万句の言葉は、ただこの一句です。その心というのは、一切の相(姿)を離れた本性のことです。本性はそのまま道であり、道はそのまま仏であり、仏はそのまま心です。この心は内側にもなく、外側にもなく、中間にもありません。有るというのでもなく、無いというのでもありません。また有るのではないというのではなく、無いのではないというのでもありません。心ではなく、仏ではなく、物ではありません。それゆえに住する(留まる)所のない心と言ったのです。

*応無所住而生其心:『金剛般若経』に出る言葉。中国六祖慧能禅師は、この言葉で悟ったと言われる。

 

四十九、この心はすなわち、目では色形を見るし、耳では声を聞く。ただこの主人を直接見究めなさい。

 

五十、古人*は言われた。「四大(物質界を形成する地・水・火・風の四元素)からなるこの物質的身体は、説法されたものを聴いて理解しない。体の中の内臓(脾・胃・肝・胆)は説法されたものを聴いて理解しない。虚空は説法されたものを聴いて理解しない。いったい何が説法されたものを聴いて理解するのか。このように直接目を向けなさい。

*古人:臨済禅師のこと。『臨済録』にある言葉。

 

五十一、見る所について、心がもし一つの相(姿)にとどまって、一つの趣向に執着し、道理を立て、意味を関わるようになれば、すでに真実から天地ほども隔たってしまう。

 

五十二、どのように注意をして、直接生き死にの世界を切断すればよいのか。

 

五十三、前進すれば理屈に迷い、後退すれば宗旨に背く。前進せず、後退もしなければ、心の働きを持ったまま死人のようになり、まったく意識が絶えてどうしようもなくなる参究を止む暇なく続けるなら、必ず悟りが開けて「応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん:まさに住する所なくして其の心を生ずべし)」となるだろう。

 

五十四、そうなれば、たちまち禅の一切の言葉や公案(こうあん)*あるいは百千の法門、無限の妙なる教えが、一時に明確になるだろう。龐居士(ほうこじ)**が馬祖禅師***に尋ねた。「万法とともたらざる、是何人ぞ(あらゆる現象に引きずられないものというのは一体、何ですか)」馬祖禅師は言った。「お前が一口に西江(せいこう)****の水を飲みつくしたら、そのときにお前に言おう。」居士はその言葉を聞いて直ちに大いなる悟りを開いた。見なさい。これは一体どういうことなのか。

公案:禅で参究のために与えられる問題のようなもの。

**龐居士:馬祖禅師の法を継いだ居士。居士は出家していない信者。

***馬祖禅師:馬祖道一(ばそどういつ、七〇九ー七八八年)。唐代の重要な禅僧。

****西江:中国南部の大河。

 

五十五、これは応無所住而生其心なのか、これは今仏法を聴いている者なのか、もしまだ分からないのであれば、たった今声を聞いているものは一体何者か。真剣に目を凝らしてみなさい。生死事大無常迅速(しょうじじだい、むじょうじんそく)、生き死にの事は重大事であり、無常の風は瞬く間に吹いてくる。わずかな時間を惜しまねばならない。時は人を待ってはくれないのである。

 

五十六、自分の心はもとより仏である。これを悟るのを成仏と言い、これに迷うのを衆生と言うのである。ただ、寝ても覚めても、普段何をするにつけても、自分の心はいったい何ものかと、自分で念の起こる源について見なさい。

 

五十七、そもそも、このように物を知ることができ、思うことができ、この身を動かし、働かし、進んだり退いたりする主体は、さて一体何者であろうかと、、ただこれを自ら悟ろうとこころざして、絶えず心に添わせて忘れることがなければ、たとえ今の一生で悟らなくとも、これを縁として、次の世では必ずや簡単に悟るであろうことは疑いがない。

 

五十八、座禅をしようと思う時は、一切の善悪を一つも思いわずらってはならない。又、念が起こるのをやめようとしてはいけない。ただ、まず直接、自分の心は一体なんであるかと疑いなさい。

 

五十九、このように深く疑っても知ることのできるすべがなく、どうしようもないまま、心の進むべき道が絶え果ててしまい、我が身の中に自分というべきものもなく、心と名付けるべき形もないと知る物は、さて何ものだろうかと、我に返ってよくよく見れば、無いと知る心もすっと無くなってしまい、何の道理もないこと、虚空のようであるけれども、虚空のようだと知る心が徹底して絶え果てたとき、自分の心の他に仏はなく、仏の他に心がないことを悟るのである。

 

六十、この時はじめて知りなさい。耳で聞くものがない時、本当の聴聞というものであり、目で見るものがない時、三世(過去・現在・未来)のさまざまな仏とお目にかかるのだということを。

 

六十一、ただし、このように書き付けた言葉そのままに理解しておいてはならない。ただ自分の心を悟りなさい。さあ見なさい、見なさい、自分の心は一体、何ものであるか。恐れ多いことだ。人々の本来の根源的な本性は、もともとそのまま仏であるといいながら、自分でこれを信じないで、心の外に仏を求め、仏法を求めるので、悟ることなくして善悪の業(自分のしてきた行為の結果)や因縁に引かれて、輪廻や生き死にを免れることができないのである。