塩山仮名法語(11)

井口禅門(いのぐちぜんもん)への返答

 

百十一 お手紙で詳しく承りましたところ、あなたはまだこの公案の的を射ていないようです。六祖慧能禅師がおっしゃいました。「幡が動くのではない。風が動くのではない。あなたがたの心が動くのである」と*。もしこのことを明らかに見ることができれば、天地と我と同根(根源は同じ)、万物と我と一体であって、塵ほどのわずかに異なるものもない。渓谷の音も、風の音も、すべて主人公の声である。松が青いのも雪が白いのもすべて主人公の色である。自分の手を上げ、足を動かし、物を見、声を聴くものとまったく別ものではない。もし借り物の知識を用いず、考えを巡らしたりせずに、直接このように悟ることができたなら、少しは自分で得るところのあった人と言える。そうは言っても、それはまだ本当の悟りというものではない。

慧能禅師が世に出るときの因縁。広州法性寺で僧たちが竿の幡(はた)が動くことについて議論をしているのに出会った時の禅師の言葉。『六祖檀経』に出る。

 

百十二 古人*は言っている。「自己の清浄法身(しょうじょうほっしん:きよらかな仏の本体)を見留めてはならない。」と。また言う。「四大(地水火風の四元素)からなる肉体が仏法を説いたり聴いたりして理解するわけではない。虚空が仏法を説いたり聴いたりして理解するわけでもない。いったい仏法を聴いているものはいかなるものか。」と。

*古人:ここでは臨済禅師のこと。

 

百十三 こう言われるのは、この身が声を聴くわけではなく、では何かこの声を聴くのかと言ったのです。このことについて、よくよく直に徹底して御覧になるべきなのです。この六祖の公案を見るのに、(あらゆるものを断ち切る)金剛王宝剣を手にしているようになさい。心に生じるものすべてを切り尽くしなさい。世法(せほう:世間的な事柄)が浮かんできたら世法を切り、仏法が浮かんで来たら仏法を切り、迷いが来たら迷いを切り、悟りをも切り、仏をも切り、魔をも切り、二十四時間、仏法を聴く者はいかなるものかと追求し続けなさい。一物も残らず切り尽くして、虚空をも切り破るとき、自己の心が破れれば、仏法を聴いているそのものが現れるはずである。けっしてけっして道の途中でとまることなく、死んで再び蘇ったかのようになるとき、はじめて大事を明らかにすることができるのです。こちらへ何度もお手紙をいただくことで、お心を煩わせているようなので、このように申し上げておきます。この手紙をご一読ののちは、火にくべてお焼きください。お返事まで。

 

別の一文

 

百十四 お手紙詳しく拝見しました。それにしてもここまで思い立たれたお志は近頃珍しいものと思い申し上げておりましたが、この悟りという一大事についてお忘れになってはいないことを承りました。特にお喜び申し上げた次第です。このお返事のなかで詳しく承っております。ただこの中で申し上げておりますように、自分で自分の本性を公案として御覧になるのがよいのです。

 

百十五 そもそもこのように声を聴き、このように物を言う主(ぬし)はいったい何者であるかと見るとき、さまざまな想念が起こって参りましても、それにはあれこれと構うことなく、ただこれは何者かと強く疑いますとき、想念も心もふと無くなって、空に曇りがない時のようになるのです。

 

百十六 心というものは、これほどまで形も無いものなのに、それでいて何者がこのように聴き、このように動いて働くのかと、いよいよ疑って、世間の万事を忘れ果てるほどに参究なされれば、必ず悟りが開けることは、眠っている者の眠りが醒めるようなものでございます。この時必ず、枯れ木に花が咲き、氷の中から炎が立ち上がることに疑いはありません。

 この時には、仏法も世法も、あらゆる善悪もみな昨日の夢になりまして、ただ本性の仏だけが現れるはずでございます。その時には、この一心が本性の仏であると、再び心に見留めてはなりません。見留めれば心が有るということになります。あなたのお志が貴重なことと思いますので、このように詳しく申し上げました。

 

百十七 また、チマキを五百把、茶を一斤いただきましたこと、たいへん嬉しく存じます。

 

また別の文

 

百十八 お手紙詳しく拝見いたしました。参究なさっているご様子を承りまして、たいへん有り難く存じます。お返事で詳しく申し上げてしまえば、きっと言葉に気を留めて理解なさり、納得されるならば、かえって妨げになってしまうはずです。そのように問い尋ねようと思う主(ぬし)を真直ぐに見極めて、御覧なさい。ただこの心は元来仏であると仏や祖師方もおっしゃっておられます。そうだと言っても夢や幻のようなものです。この身において何を心とか仏とか名付けることができましょうか。ただこの名付けられず、知ることのできない所について、大いに御自分で疑ってください。

 

百十九 そもそも、たった今、手を上げ、足を動かし、物を言い、声を聴く主は、いったい何者であるかとみる時、心の道は途絶え、力も手がかりも尽き果て、どうしようもなくなりながら、いよいよ疑って名を離れ、考えをやめて、万事を捨て尽くし、これを思うことがただこれだけである志が徹底して一つになれば、必ず悟ることがあるでしょう。

 

百二十 しばらく想念がおさまった時、空寂として何もない所だと見て、悟りだと思ってはなりません。

 この時に想念を起こすことなく、しかもさらに疑わねばならないのは、これほど心というほどの形もなくして、あらゆる物の音を何者が聴くのかと参究するなら、虚空が破れて父母未生(ぶもみしょう)の本来の面目*が現れるでしょう。

*父母未生の本来の面目:父母未生以前の本来の面目。自分の父も母も生まれる前の自分本来の姿。

 

百二十一 たとえば、ぐっすり寝入っている人が急に目を覚ます時、あらゆる夢がたちまち破れるようなものです。そのようである時に、急いで優れた師僧に会って、その点検を受けるがよろしい。

 

百二十二 もしこの一生で悟らないとしても、臨終の時もただ参究し続ける中で火が消えるようになって、心を他の事に向けたりしなければ、次の世には生まれながら悟るであろうと、古人たちの多くはそのようにおっしゃっています。

 

百二十三 お望みに従ってこのように申し上げることは、気が引けるところです。一度ご覧になった後は、すぐに火にくべてしまってください。二度とこれを御覧にならずに、ただこの声を聴く者に深く目を付けて、自らお悟りになれば、このような言葉はみな無駄ごとでございます。敬具。