大応仮名法語(三)

〇尋ねて言った。仏祖不伝の所(仏陀や祖師たちが伝えなかったところ)とはどのようなものか。

〇答えて言った。やって来て尋ねるならば、もう天と地が遥かに隔たってしまう。意図をもって求め、意識して求めるなら、棒を振りかざして月を打ち、靴を隔てて痒いところをかくのと変わらない。それはあなたの伝心のところではない。直に、過去の思い、未来の思いに関わらず、まっしぐらに矢が弦を離れて返る気配がないような様子であれば、口の利けない者が夢を見て他人に向かってそれを語れないといっても、心では明白な所があるようなものである。それがすなわち仏祖不伝の所である。

 

〇尋ねて言った。すでに一つとして授ける所はない、というようなことであれば、仏陀から二十八代の祖師(達磨大師)に至るまでの祖師方は、どうして相伝(そうでん:代々受け継ぐ)と言うのか。

〇答えて言った。相伝というのは、何かの法(真理)を相伝するというのではない。仏だとか真理だとかいう知見、有相(姿のあるもの)無相(姿のないもの)という知見、すべてを断ち切り尽くし、胸の中に一物もあることなくして、孤明歴々(こみょうれきれき:独りまったく明白にして)赤洒洒(しゃくしゃしゃ:隠すところがない)で、三世十方*を貫いているけれども、鳥の飛ぶ道がなく、羚羊が角を掛け**て跡を残さないのと同じである。これがすなわち大安楽のところである。ただこの安心、安楽のところを伝えて、そのほかに一つとして人に授ける真理というものはない。だから、仏道は無心にして人に合い、人は無心にして仏道に合う、というのである。世間の中のありとあらゆるものは、すべてこの仏道である。仏道と心と二つあるのではない。心即是道(しんそくぜどう:心がすなわち仏道)道即是心(どうそくぜしん:仏道がすなわち心)である。心と仏道と一体なのであるから、いったい誰が仏道の修行をしようというのか、修行をするとなれば二つに分かれることになる。「刀、刀を斬らず、眼、眼を見ず」(刀では刀を斬ることができず、眼で眼を見ることはできない)という喩えのとおりである。父母に産んでもらった口を開いて、心と説き、本性と説き、禅と説き、仏道と説くが、これらは皆、是非海(ぜひかい:良し悪しの海)***に落ちるものである。仏に逢っては仏を殺し、祖師に逢っては祖師を殺し、親族縁者に逢っては親族縁者を殺し****ほんの塵さえも真理というものを立てない。これが大いなる仏道に至る修行のあり方である。もし心の中で、「ここだ」と思い定める所があるなら、六十二見*****を出ることはない。古人が言っているように、真実本当の所に到達しようと思うのならば、直に目前のことを見て取りなさい。目前にあるのはいったい何か。目前はこれ真実、真実はこれ心である。心と真理とがすべて一体であるならば、どうして真理を求め尋ねるだろうか、求め尋ねれば機法(きほう:心の働きと真理)は別物である。心と真理とをともに忘却すれば、そのままただちに大いなる働きが姿を現し、他に道のりなどない所******である。

*三世十方(さんぜ、じっぽう):三世は、過去・現在・未来の全時間、十方は東西南北、東南・西南・東北・西北、上・下を合わせた全空間。

**羚羊掛角(れいようかいかく):羚羊(カモシカ)が眠るとき角を枝に掛けるがその跡を残さないことからできた言葉。

***是非海(ぜひかい):あらゆることに渡って是非善悪を言う人のあり方を海に喩えていったもの)。

****仏に逢っては仏を殺し・・・:臨済禅師の言葉。

*****六十二見:外道(げどう:仏教以外の教え)の教えを六十二にまとめたもの。

******大用現前不存軌則:『碧巌録』第三則に出る語。