大応仮名法語(九)

〇ここまでこまごまと書いて来たが、つまるところはただ、公案を一つ持って、どのように答えようかと思案されれば、答え方に思い至ることができるのである。そのようなことがある場合には、善知識(指導する師僧)の所へ行ってその様子を申し上げるのだ。師のところに行って何度も考えて、答えができるたびごとに述べるのである。一句を透ることができた時は、千句万句もすべて透る。その後は、生きるも死ぬも自在になり、極楽に生まれるのも、都卒*にゆくのも、また人間世界に来て衆生のために行うのも、自分の気持ち次第にするがよい。また一句を透ることができたとしても、これを判断して打ち出す善知識にはなり難いのである。最近、いろいろと聞き及ぶところでは、その教え示すところは様々であって、あるいは一切を忘れて一物(いちもつ)も無い所へ向かえと言い、あるいはどうしようもない所へ向かえと言い、あるいは憎愛のない所へ向かえと言い、あるいは考えるのは病であり、物事につけて煩いのない所こそ良いだと言い、あるいは物事は自ずからそのようなものであって原因もなく結果もないなどと申している、これらも皆、しかるべき人たちの申すことであるから、きっと一理はあることと思うけれども、本当に透過することができたのであれば、どうしてこのように様々にとり乱れることがあろうか。もとより仏法に二つはない。世間でこれこそ本当の指導者だという人に常に指導を受けて法をお聞きなさい。本当の指導者とは、長老や住職に限らず、世間を逃れて隠棲している人の中にもいるだろう。羅山禅師**白雲守端***などという人は、みな隠れ住んでいる人たちである。このようなことをよくお考えになって修行をされるがよい。

〇また言うには、本来この通りである。他に迷うということも悟るということもない。理由もなく自分は迷っていると思って外に仏を求めるように思う心が迷いである。外に別の真理はない。心と仏と衆生という三つに差別はない。祖師が言うには、「即心即仏(この心がすなわち仏である)」と。また心の外に仏はない。心を離れて仏を求めれば、地面を掘って天を求めるようなものと言える。仏祖の言葉をどうして疑ってよいはずがあろうか。ひたすらこのように信じるべきである。明けても暮れても立ち上がっても座っていても、このように振舞っている物は何物であるかとよく見れば、見るものもなく、見られるものも忘れ果てて、力尽き、心が疲れ果てたところを、いくらか力を得たと言うのである。ここに至って思いがけず、自分本来の不生不死、埋めても埋もれず、焼いても焼けず、喜びも憂いもないところを知るのである。これこそ真の仏、法身(ほっしん)の如来というものである。ここに至って地獄もなく極楽もなく、得ることもなく捨てることもなく、衆生もない。得ることもないのであるから、僧は僧の修行をし、俗は俗の修行をするべきである。そうは言っても行うところにさらに執着せず、捨てることもないゆえに、もとのようにすべて行うのがよい。喜びや憂いも人と同じようにあるけれども、心の内は次第に晴れやかでさっぱりとする。本心が何物にも執着しないところを知るからである。この時には、先に述べたように迷う事も悟る事もないであろう。祖師が言うには、善悪をも思わずここにひたすら向いなさい、と。もしまた、様々な念が起こるならば、これは何物かと見なさい、そうすれば本来の姿が見えてくるだろう。また、普通の人が思っている様子では、仏というのは光がさして、神通力(不思議な力)もあるに違いない、何事でもすべて知っているはずで、寒い熱いも本当の人と変わらないと思っている。仏というものには三身(さんしん、三種の身)がある。一つは法身、二つ目に報身(ほうしん)、三つ目に応身(おうしん)である。神通力や変化(へんげ:姿形を変えて現れること)のあるのは三番目の応身である。これは悟りを開いた後に人を導く時の一時的な方便である。これくらいのことは、魔物も外道(げどう:仏教以外の教え)も天狗も真似のできることである。二つ目の報身仏は知恵のある姿である。第一の法身と申し上げるものこそ本当の仏の御心であるのだ。これは先に申したように、仏にあっても衆生にあってもまったく変わることはなく、目にも見えず、耳にも聞こえず、考えも及ばないところである。法華経に言うには、この真理は思量分別(しりょうふんべつ:あれこれ考えたり理解したりすること)でよく把握できるところではない、と。金剛経に言うには、もし色をもって我(如来)を見、音声をもって我(如来)を求めれば、この人は間違った道を行っているのであり、如来を見ることはできない、と。これは肝心で大事な言葉である。諸仏の御心に少しも違ってはいない。

 

*都卒(とそつ):都卒天のこと。弥勒菩薩が居るという天界。

**羅山禅師:五代十国時代の羅山道閑禅師(907~979年)。

***白雲守端(はくうん しゅたん):宋代1025~1072年の禅僧。