永平仮名法語(道元禅師仮名法語)(一)

道元(どうげん:1200-1253)禅師の仮名法語。底本:『禅門法語集 中巻 復刻版」ペリカン社、平成8年補訂版発行〕

*〔 〕底本編者による補足、[ ]はブログ主による補足を表す。

*はブログ主による注釈。

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仮名法語   

                              永平 道元禅師

 

〇  向上

向上(こうじょう)と言うのは、仏[釈尊]や祖師がじかに仏法を説くのだが、この様子を語るのは特別のことはない。天はこれ天、地はこれ地、山はこれ山、水はこれ水と、本心を働かせることなく指し示すところであり、我ら衆生の凡夫[ぼんぷ、普通の人]の心である。その凡夫の心というのは、心はもともと空(くう)であって空ではなく、妙(みょう)であって妙ではない。邪正[誤りと正しさ]もなく迷悟[迷いと悟り]もなく、三世[過去・現在・未来]もなく十方[あらゆる方向]もなく、東西もなく南北もない。それゆえに仏がお説きになったように、迷うから三界[欲界、色界、無色界の全世界]は強固な城に思われるが、悟るならば十方は空であり、本来東西はなく、どこに南北があろうか、と。祖師が言うには、この心を有とも無とも言ってはいけない、一とも二とも言ってはいけない、一二、有無はいずれもその主(ぬし)がない。この心は法界[ほっかい、仏法そのもののである世界]の心であるから、衆生の心という心もなく、諸仏の心という心もない。譬えるならば大海のようなものである。浅い所の水、深い所の水といっても違いがないようなものである。衆生がこの心に迷うのを浅い所の水に譬え、諸仏がこの心をお悟りになるのを深い所の水に譬える、これは迷悟の区別である。そうは言っても、水はもともと一つである。それゆえ、悟りにも落ち着かず、迷いにも留まらず、ただ心の自在である人を、向上の一路を踏むことができた人と言うのである。臨在禅師は、僧が門に入るのを見てすぐさま喝を与えた。与えられた一喝も、まだこの心を明らかにしていないと言える。また徳山禅師*に僧が「仏法の大意とはどのようなものか」とと言うた時、徳山はすぐさま棒でたたいた。この一棒も、いまだ心法[この心を明らかにする教え]ではないと言える。なぜかと言えば、心として特別に示すべき心もなく、法[真理]としてまた説くべき法もない。それゆえ円覚経で、修多羅[しゅたら、スータラから。経のこと]の教えは月を指す指(ゆび)だとお説きになったのである。また円悟禅師**が言うには、言句(げんく、言葉)は門を叩く瓦だと。そうであるから、向上の一路は、千聖不伝(どんな聖人でも伝えることができない)と思われる。もし向上の一路を知りたいと思うなら、見るがよい、最も高い須弥山***は崩れて地にあり、波は水を離れてはない。

*徳山禅師:徳山宣鑑(とくざん せんがん)禅師。780~865年。

**円悟禅師:円悟克勤(えんご こくごん)禅師。1063年~1135年。

***須弥山(しゅみさん):古代インドの世界観において世界の中心にそびえる聖なる山。

 

〇  向下

向下(こうげ)というのは、あらゆる物事を受け取り保つこと*をいう言葉であり、世間のもろもろの塵と一つになる**心である。あらゆる物事を受け取り保つ言葉とは、あらゆる物事は一つの心である、一つの心はあらゆる物事である、山河大地はすなわちこれ私の心である、私の心はすなわちこれ山河大地である、また法界の身体は私の身体である、ということである。それゆえに肇法師***が言ったように、「天地と我と同根、万物一体」である。春に芽を出し夏に成長し、秋に紅葉して冬に枯れ落ちる、これを離れるので、知恵はあるけれども分別の心ではない。分別の心がなければ見聞覚知[けんもんかくち、見聞きし気づくこと]を嫌うことはなく、ただ分別の心を嫌うのである。分別の心とは、諸仏と衆生とを別々のものと思い、地獄と浄土とを別々のものと思い、心と法とを別々のものと思い、他人をないがしろにして自分を優先し、私は知っているがあなたは知らないと思う心である。そのほかにも限りなくあるが、これを過ぎたるものはない。この心がなければ、そのまま心はありありとして明らかでない所はなく、法として照らし出されない所もない。また霊妙でとどまる所もない。直接無心の地に至るであろう。このように言うことにまだ納得のいかないことがあるなら、見るがよい、「鶏寒くして木に登り、鴨寒くして水に入る」***。

*原文は「万象総持(ばんしょうそうじ)」:「総持」は元はサンスクリット語の「ダラニ」(陀羅尼は音を移したもの)。すべての物ごとをよく受け取って保持する力のこと。

**原文は「諸塵三昧(しょじんざんまい)」。

***肇法師:(じょうほうし、374年~414年)鳩摩羅什門下。僧肇(そうじょう)。

***「鶏寒くして木に登り、鴨寒くして水に入る」:「鶏寒上樹鴨寒下水」雲門下の

巴陵顥鑑(はりょうこうかん)禅師の語。『景徳伝灯録』に出る。寒さに対して鶏は樹上に上るが鴨は水に入る。差異がありながら、そのまま所を得る。