永平仮名法語(道元禅師仮名法語)(十)

〇 無相

 

無相(むそう、姿形がない)というのは、諸仏の心の姿、衆生の心の源である。あらゆる物事は、無相を根本としている。それゆえ達磨が言うには、菩提(ぼだい、悟りの知恵)は、無相を本性としている、と。衆生は有相(うそう、姿形のあること)に捉われて、二十五有(にじゅうごう)*の生死に迷って様々な苦しみをうけ、諸仏は、もろもろの姿形は無相であることを悟って、十方(じっぽう)**に遊んで様々な楽しみを受ける。もろもろの姿形がないから無相と言うのである。また、金剛経に言うには、我相(がそう、自分という姿形)、人相(にんそう、人という姿形)、衆生相(しゅじょうそう、さまざまな生き物と言う姿形)、寿者相(じゅしゃそう、善行により長寿の報いを受けた者という姿形)といった姿形があるのは、悟りの知恵ではない、という。六祖がこの四相を説明して言うには、「自分の心に良いと思うところがあって衆生(他人)を軽んじるのを我相と名付ける。自分は戒律を保っていることを頼みにして、戒律を破る者を軽んじるのを人相と名付ける。三途(さんず)地獄***の苦しみを嫌って天上に生まれようと願うのは、衆生相である。心に命が長らえることを思って悟りの知恵を修めようとするのは、寿者相である。心にこの四つの相があれば、仏はそのまま衆生となる。心にこの四つの相がなければ、衆生はそのまま仏である」と。黄檗禅師の言うには、「無相であるのは、法身の仏である。法身の姿は虚空の姿のようなものである。虚空も法身も実際の姿はない。仏も衆生も実際の姿はない。生死と涅槃も実際の姿はない。すべて一切の相を離れているのだから、そのまま仏である」と。また六祖が言うには、「何を無相と名付けるのか、それは姿形にありながら、姿形を離れるのを無相というのである。外には一切の姿形を離れ、内には様々な姿形に捉われないのを、無相と名付けるのだ」と。こうしてみればよく分かるのである、一切の姿形に執着せずに無相であるのは仏であり、姿形に執着して離れないのは衆生である、と。ただし無相だからといって因果を否定して心を動かして無相になろうとするのは、これまた外道(げどう、仏法とは異なる)の教えである。一切の姿形はたしかに有るといっても、一切の姿形に心が捉われることなく、一念も生じなければそれが無相である。ただ願わくば、仏道を学ぶ人が、法身仏になろうと思うなら、あらゆる物事において心でその姿形に捉われてはならない。姿形に捉われることがなければ、悟りの本体が動じることもなく、まったくこれ仏に他ならない。このことがまだ納得ゆかないならば、見るがよい、見るがよい、ともづなを解いて繋がれていない船が、風に吹くに任せて大海に走っていることを。

 

*二十五有:衆生が輪廻する世界を細かく二十五に分けたもの。

**十方:八方位に上下を加えたもの。あらゆる方向を言う。

***三途地獄:三途とは地獄・餓鬼・畜生の三悪道のこと。

 

〇 無念

 

無念というのは、仏や祖師が内証(ないしょう、みずからの内に証明すること)した心の本性(ほんしょう)であり、衆生が成仏する唯一の路である。仏や祖師は、一切の物事において一念も起こさずに無念であるので、生死において自由を得られているのである。衆生は、一切の物事において念を起こし、執着する念があるので、生死に流転して苦しみを得るのである。六祖が言うには、「衆生が仏に成ろうと思うならば、まず無念にならねばならない。無念であるがゆえに成仏するのである」と。また大慧禅師の言うには、「煩悩の心を念としたり、命の無いものを生としたりすれば、それは誤った見解であり外道の宗教である。無念を念とし、無性(本性がない)のを本性とすれば、それは虚無を唱える外道の宗教である。念であって念でなく、本性であって本性でないならば、それが仏道の肝心の本体である」と。そうは言っても、ひたすら無念になって木や石のようになれと言うのではなく、またひたすら念に執着して猿が枝から枝へ飛び移るようになれと言うのでもなく、念が起こっても念に飛び移って念に執着するなと言うのである。無念の所についても、心を動かして無念だとも思ってはならない、念が有る無しを離れて、一念も起こらないのを無念とするのである。施燈経(せとうきょう)*に言うには、「仏はすぐれて明らかにされた四種類のよき真理があるが、一つは戒律、一つは善、三つは般若(知恵)、四つは無独心(むどくしん)である。その中でも禅定は第一である。一切を認めるがゆえに一切を忘れるというのは、無念の意味である。」大智度論に言うには、「修行が成就して仏となるのは、かならず無念の定力(じょうりき)**による。それゆえ仏法にはあらゆる違いがあるとはいえ、必ず無念の定力を用いるのである」と。また瓔珞経(ようらくきょう)***に言うには、「無念であって、心の意識を離れているのを、法身の最終的な仏というのである」と。四十二章経に言うには、「悪人を百人養うことは、一人の善人を養うに及ばない。五戒を保つ人を一万人養うことは、一人の須陀洹(しゅだおん)****を養うに及ばない。須陀洹十万人を養うことは、一人の斯陀含(しだごん)を養うに及ばない。斯陀含一千万人を養うことは、一人の阿那含を養うには及ばない。阿那含百万人を養うことは、一人の阿羅漢を養うには及ばない。阿羅漢一億人を養うよりは、一人の辟支仏(びゃくしぶつ)*****を養うには及ばない。辟支仏十億人を養うよりも、一人の仏を養うには及ばない。三世(過去・現在・未来)の仏百億人を養うよりも、一人の無念無心無住無修無証******の者に供養するには及ばない」と。このように今述べられているところは無念のことであって、一念不生(いちねんふしょう)の人のことである。そうであるから、利長者が金剛経の三世不可得*******の心を悟り、無念を悟ったので、天人は食物を降り注いだのである。須菩提(しゅぼだい)********が無念に座していたので、帝釈天が来て花を散らして称賛したのである。仰山禅師*********が無念で座していたので、阿羅漢が現れて仏法を何度も説いたのである。そうであるから、無念の人を梵天帝釈天、四天王をはじめとして、十方の聖衆(しょうじゅ、聖者の集まり)に向かって供養をなさるのである。仏道を学ぶ人は、無念無心無住無修無証で一念も生じないのを、そのまま浄妙法身(清らかで妙なる仏の本体)の如来と名付ける。疑ってはならない。このことがまだ納得できないならば、見るがよい、水が清らかで波が無ければ、月輪が映ってあかあかと光り輝くことを。

 

*施燈経:施燈功徳経。仏前に灯明を供えることはこの経が元になっていると言われる。

**定力:心を乱されず統一を保つ力。

***瓔珞経:菩薩瓔珞本業経。

****須陀洹:部派仏教で修行者の段階を表す四果(しか)の最初のもの。聖者の境地に初めて入った者を指す。つづく斯陀含(しだごん)は、果天界と人間界とを一度だけ往復して悟りを得る、阿那含(あなごん)は、ふたたびこの世に還(かえ)らないで天界で悟りを得る者、阿羅漢(あらかん)は、この世で煩悩(ぼんのう)を滅尽し悟りを得る者をいう。

*****辟支仏:独りで悟り、その教えを他の人に伝えない人。独覚とも言う。

******無念無心無住無修無証:一念もなく何物にも執着せず修行も悟りの証しもない。

*******三世不可得:過去心不可得(過去の心は捉えられない)現在心不可得(現在のこころも捉えられない)未来心不可得(未来の心も捉えらえない)のこと。

********須菩提:釈迦十大弟子の一人。

*********仰山禅師:仰山慧寂禅師(804年~890年)。師の潙山霊祐とともに潙仰宗の開祖。