聖一国師(東福寺開山)仮名法語(五)

問い もし見性成仏の本質を明らかにすることなく、臨終に向かっている時には、最後にはどのような心構えでいればよいのか。

答え 一心が起こって生死がうまれる。無心のとき、生まれる身もなく、消滅する心もない。無念無心のとき、まったく生滅というものはない。この身体はただ草の葉にできうる露のようなもので、露にはもとより主(ぬし)というものはない。自分の身があると思う心を止めて、本来一物もないところに打ち向かって、生まれるとも思わず死ぬとも思わず、無心無念であれば、三世の諸仏の大いなる涅槃と同じである。善悪の姿がいろいろと現れて見えても、目にかけてはならない。髪の毛一筋ほどの心を起こせば、それで輪廻の種となるであろう。ただひたすら無心を修行して、行住坐臥(動いても留まっても座っても寝ても)忘れなければ、最後の心持ちといっても特別にあるわけではない。本当に無心の道に安住するときには、飛花落葉(ひからくよう)(1)が風に従い、霜や雪が朝日に溶けるようなものである。そのようなことに、何か心構えをする者があろうか。真実に無心を得るときには、三界(欲界・色界・無色界)六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の各道)、あるいは浄土も穢土(えど、汚れた世界)もまったくなく、仏、衆生、一物もない。この無心の道に安住して生き死にがやむ心を、仏が最後におっしゃったのは、「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽(しょぎょうむじょう、ぜしょうめっぽう、しょうめつめつい、じゃくめついらく)」(2)とお説きになった。諸行無常とは、一切の衆生がおこなう有為(うい)の法(3)である。これはすべて夢幻や鏡に映る像のようなものであり、また水に映る月のようなものである。是生滅法とは、一切衆生をはじめとして草木に至るまで、生じるものは必ず死ぬ。あるいはこの世界、山河大地もまたついには破滅して滅びるだろう。一切の真理も、打ち立てられたものなら、みな生滅の真理である。これはただ一念が去来し、変化するところから生じたり死んだりするのであり、すべて真実はない。生滅滅已というのは、一切衆生の本分は無相(姿形がない)であり、清浄であるので、本分の無相の源に至るときには、永劫の過去から未来へ続く生じたり滅したり、やって来ては去ってゆくということが、一時に消滅してしまって、心の朗らかであることは、まるで虚空のようである。寂滅為楽とは、仏も無心であり、衆生も無心であり、山河大地、森羅万象、すべて無心である。一切衆生がみな無心であるときは、地獄も無心である。極楽も無心である。喜びもなくまた憂いもない。このように道を信じて、一切の物事を見るなら、心には見るということがない。一切の物事を聞くなら、心に聞くということがない。また口に嘗め、鼻に嗅ぐ心も同じことである。あらゆる物事についてただ無心でいなさい。無心の心、これが三世の諸仏の本当の師なのである。これが第一の仏なのである。この無心の本当の仏と成ることを、諸仏の成等正覚(じょうとうしょうがく)(4)とは言うのである。このことを悟るのを、寂滅為楽と言うのである。このような真理を信じてこの身を捨てるのであるから、一念も真理を思ってはならない。あなかしこ、あなかしこ。

 

(1)飛花落葉:風に花が飛び、葉が落ちること。無常のたとえ。

(2)諸行無常・・・:『涅槃経』に出る無常偈と呼ばれる句。あらゆるものは無常である。これは生じ、また滅する真理である。生じ、また滅するということが無くなったとき、その寂滅が安楽である。」何かが生じたり滅したりということは、人が何かに執着する心、相(姿形)を認めて執着する心によって成立する。無心に安住するものにはそれがないので、何かが生じたり滅したりということ自体がなくなり、無始無終の仏心が現成する、そこが寂滅と言われる甘露である、ということ。

(3)有為の法:因縁によって生じる物事。無為に対して言う。

(4)成等正覚:菩薩が仏と同じ悟りの境地に至ること。

 

聖一国師が九條大臣に密かに開示した坐禅論、終わり。