聖一国師(東福寺開山)仮名法語(六=終わり)

 古人法語(1)

 

参禅の日々を重ねて成果を得ようと思うなら、千尺(2)の井戸の底に落ちたかのようにするがよい。朝から夕方になるまで、夕方から朝になるまで、千万という思案や分別を、ひたすらこの井戸を出ようとすることを求める心だけにして、ほかのことはまったく考えないのである。本当によくこのように工夫する(心を用い務める)るならば、あるいは三日、あるいは五日、あるいは七日で徹底しないとすれば、私は本日、大きな嘘を言う過ちを犯して長く抜舌地獄(3)に落ちるだろう。

 

(1)巻末についているこの法語については、先の「坐禅論」が九条道家に示されたのとは別に他の人に当てて書かれたものなのか、詳細は不明とされている(底本「解題」による)。

(2)尺:昔の長さの単位。30センチ前後。千尺では300mほど。ここではとても深いこと。

(3)抜舌地獄:言葉で悪を犯すものが落ちるという地獄。舌を抜かれるという。

 

古人は、この道に参じ、学ぶときの心構えについて、「工夫する(心を用い務める)」と言う。この言い方は、非常に適切なものである。ところが、修行者たちは皆、このことについて聞いたり見たりできない者であるかのようである。それというのは、一つの「禅」という字を説くのを聞いて、あるいは悟りは容易だと思って、日夜言葉や文字の中に向かってそれを尋ね求める者があり、あるいは悟りは困難だと言って頭を振って顧みず、長い間、無事甲(ぶじこう)(4)の中に置き捨てて、逆に気にしない者もいる。この二通りの者たちは皆、「工夫する(心を用い務める)」という道理があることを知らず、空しく一生を過ごし、甘んじて輪廻を受ける。「工夫する(心を用い務める)」という道理を深く尋ねてみれば、ただ「信」という一つの文字を出ることはない。「生死事大、無常迅速(生死の事は重大である。無常は迅速である)」という八字を深く信じて、二十四時間中、方便(5)がある場合でも無い場合でもよいが、念々に心を放たず、ひたすらに打ち込みなさい。ただ、このように心を放たず、ひたすらに打ち込み、務めるところを、すなわち「工夫する」というのである。初めから目を閉じ、わざと身構えて、喧噪を避け、静かな所を求めるといったことではない。ただこの道は、他人から受け取るものではないと深く知って信じていたならば、たとえ釈迦や達磨が目の前に現れて、禅の道や仏法を自分の胸のうちに注ぎ入れると言っても、本当に道を求める人ならば、吐き返しなさい。ただ、この心に放さない所を守って、ひたすら打ち込んで正しい悟りを求めるならば、そのまだ悟らない前のときでも、みだりに自分勝手な見解をもつことはないだろう。その工夫を行う志がそのようであるならば、どうして如来の禅、祖師の禅が自分の手の内に入らない心配などあろうか。

 

(4)無事甲:何事も無いというカブト。元は、大慧宗杲(だいえ そうこう、1089年~1163年、中国の宋代)の語録に出る。大慧禅師はいわゆる無字(むじ)の公案にちなんでこの語を出しているので、「むじこう」と読まれているが、臨在禅師には「無事(ぶじ)これ貴人」などの語もあり、ここでも意味上は「ぶじこう」と読んでもよいように思われる。

(5)方便(ほうべん):悟りに導く手段。ここでは公案などのことを言うか。

 

仏や祖師について学ぼうと思うなら、まずはっきりと心を決めて生死の大事を明らかにしようと思う正しい念願を立てなさい。この志がつねに眉目のあいだにあるならば、あらゆる縁や境遇が乱れ来たとしても、別に髪の毛一筋ほどの他の念を起こし、分別を生じてその志を妨げるようなことはない。もし生死のためにする正しい念願が切実でなければ、はっきりと決心して日々の生活の中で工夫を行うことはできないのである。もし強いて行ってもただ一時のことになってしまい、長く続くことはないだろう。たとえ聡明で利発であり、文字の上で理解することはあったとしても、ただ見聞した知恵を増やすだけで、実際に生死大事のことについては、何の用にも立てられないのである。これはただ根本の志が真実のものでないことから来ている。それゆえに道を学ぶ上で肝要なことが三つある。第一に生死という大事のためにするという心が切なるものでなければならない。第二に、世間の嘘や、得だの損だのという有り様をよく知って打破しなければならない。第三にゆるがない長く遠い決心をして、永久に退いてはいけない。この三つは、もし一つが欠ければ(6)退いてしまう。二つを欠くときは消え去ってしまう。三つ共に欠くときには、たとえ釈迦が一生で説いた経すべてに通じ、百家の書物を読んだとしても、ただ業識(ごっしき、無明による認識)を助け、高慢を助長して、少しも自身の補いになることはないのである。

 

(6)底本では「かぐ」となっているが「かく(欠く)」と解釈する。

 

仮名法語終わり。