ねられずば起きていよかし梓弓
あたらぬまでもはづれざりけり
(寝られないのであれば起きていればよい。考えが的にあたらなくとも、外れることもないというものだ。)
どうせ眠れないのであれば起きていて自分の生死の一大事を究めなさるがよい。たとえこの世で的に当たらず、悟ることがなくても、機縁によって未来には尊い悟りを得るのである。たとえ横になってでも、確かにありもしない迷いを思案するよりは、自分というものはどこから来て、また後はどこへ帰るのかと立っても座っても手放さず、思案なさるがよい。忽然と自然に悟りを得られる事、疑ってはいけません。無数の法門を唱えても、肝心のものを知らなければ何になるというのか。
芸能やよろずの口をたたくとも
わが主(ぬし)知れる人はまれなり
(いろいろと技芸や能力にたけてあらゆる事を語っていても
自分の主を知っている人はまれなのである。)
のうというのは、四書五経を暗記し、漢詩を作ったり和歌を詠んだりして、あらゆる技能を自分のものとするのだが、そうしたあらゆる能力のある人でも、自分の主を知らなければ、成仏することはあり得ないのである。むかし善生比丘(ぜんしょうびく)という人は、聖なる教えを自分のものにして読んでいたが、地獄に落ち、提婆達多(だいばだった)も仏に劣らないほどの良い僧であったけれども、無間地獄(むげんじごく)(1)に落ちたのである。十分に注意してはやく坐禅三昧によって主を知りなさい。
(1)無間地獄:最悪の地獄と言われる。
和歌
一 思い出のある人さえに捨つる世を
数ならぬ身の何を待つらん
(心に残ることのあるような人でさえ捨てるこの世なのに、取るに足りないこの身で何を期待しようというのか。)
一 朝顔をあだなるものと思いしに
花より先に落つる白露
(朝顔をたちまち凋むはかないものと思っていたが、花より先に落ちてしまう朝露であることよ。)
一 とにかくにたくみし桶のそこぬけて
水たまらねば月もやどらず
(いろいろと工夫した桶[自分]の底が抜けて、水もたまらないし月も宿らない。)
一 坐禅して死後のほとけを悟らずば
六道輪廻だれかのがれん
(坐禅をして、死後の仏を悟らなければ、誰が六道輪廻を免れるだろうか。)
一 肉身を帰す仏になすことは
ただ禅定の坐禅なりけり
(この肉身をそこに返す仏にするのは、ただ禅定の坐禅だけである。)
一 ほとけ祖師教律勤行をからずして
すぐに悟るを禅僧という
(釈尊や祖師方、教えや戒律や修行によらないで、たちまちに悟るのを禅僧という。)
一 利剣にてみなきりすつし見るときは
森羅万像ほとけなりけり
(鋭い剣ですべてを斬り尽くして見るときには、森羅万象はすべてほとけであるよ。)
一 おのづから求めず捨てずさしおかず
自由自在はかれが三昧
(自分から求めることもせず、捨てることもせず、放っておくこともせず、自由自在なのは、それの三昧境である。)
一 われという我を知らざる我なれば
我を我とも思はぬはわれ
(私という私を知らない私であるから、私を私とも思わない私である。)
一 露よりもあだなるものと身を知りて
いのちのうちにわが主を知れ
(露よりもはかないものとわが身を知って、寿命のあるうちに自分の主を知れ。)
この和歌の心はこうである。あるいは世の中の無常の有り様は稲妻や朝露よりもはかないものである。それゆえに一生の栄華は風が吹く前の雲のようなもの、百年の栄華は夢の中で得た宝のようなものである。後生の道理をいそいで心にかけて、自分の主をお知りになるがよい。