夢窓国師仮名法語(三)

   和歌

一 のちの世の遠きをねがう人はみな

              ちかきむねなる仏しらずや

(死んで後の遠い世を願う人たちはみな、すぐ近い自分の胸にある仏を知らないのだろうか。)

 

一 あさゆう(1)に有無ぜんあくにとまらずば

                 ひとを自在のほとけとはいう

(1)底本では「ふふゆふ」となっているが「あさゆふ」とみる。

(朝夕に有無や善悪に執着しないならば、その人を自由自在の仏と言うのである。)

 

一 円相のやぶれかがみの身となりて

               本のすがたはあらわれにけり

(丸い形も破れた鏡の身となって、本来の姿は現れたのである。)

 

一 さしおかず死するに眼(まなこ)をつけて見よ

                   よぶにこたうる主のすがたを

(捨ておかずに死ぬということをよく注視せよ。呼ぶと答える主のすがたに。)

 

一 きりはるるときは月日のあらわれて

               やまはもと山みずはもと水

(霧が晴れると月や太陽が現れるが、山はもともと山であり水はもともと水である。)

 

一 ゆられ行く船に入江のわたりして

               風にまかせる身こそやすけれ

(揺られている船に入って入江を渡るが、帆掛け船が風にまかせるようなこの身の安楽さよ。)

 

一 身がくれて(2)光まされる玉なれば

               死後のたからとなりにける哉

(2)底本では「見かくれて」としているが「身がくれて」とみる。

(自分の身が隠れてこそいっそう光が増す宝玉であるから、仏という宝石も死後の宝となるのである。)

 

一 えりきらう二つのこころある人は

               みななすことも地獄顛倒

(選り好みする二つに分ける心のある人は、なすことすべて真理とは逆の地獄となる。)

 

一 もし人の坐禅せずしてこの法(のり)に

              かなうは外道(げどう)なりけり

(もし人が坐禅をせずにこの真理に合致することがあったとしても、それは仏の教えではない。)

 

一 善悪のたたぬところを極むれば

               地ごく浄土というきわもなし

(善や悪やということが成り立たないところを究めれば、地獄や浄土といった境遇もない。)

 

一 一心の門ひらくれば法界の

             草木国土ほとけなるべし

(一心という真理の門が開ければ、この真理世界の草も木も国土もみな仏であるよ。)

 

一 万法は眼(まなこ)のまえにあらわれて

                 みな唯心(ゆいしん)(3)の仏なりけり

(3)唯心:世界はこころのあわられであるという華厳経に説かれる教え。

(あらゆる物事は目の前に現れるが、すべて唯心の仏であるよ。)

 

一 百年のうちはわずかにとけまして

               わが身の主をはやく知るべし

(百年という時は取るに足らず露のように溶けてしまうので、自分の身の主人をはやく知るがよい。)

 

この和歌の心はこうである。世間のありさまは本当に、一年一年や四季で移り変わり、昨日とも変わっているのであって、人を弔うが、あすは自分の身の上になるはずである。人の命には定めがなく朝に生まれた者が夕べには死ぬ。十二、十三、二十までに死ぬ人はあるけれども、八十まで長らえる人はまれである。

 

一 本覚の如来というもよそならず

              さとりきわむる人をこういえ

(本来の悟りの知恵をもつ如来というのも他ではない、悟りを究めた人をこう言うのである。)

 

一 おしえをば法(のり)の道ぞとふみおきて 

                  いそぎてまわれ死後のほとけへ

(さまざまな教えは仏法を進んでゆく道だと踏みゆくのはよいが、いそいで死後の仏へとまわれよ。)

 

一 きょうけには仏の道のものがたり

               まよいの人のみちしるべなり

(さまざまな教家には仏への道の物語があるが、それらはみな迷っている人の道しるべのようなものである。)

 

以上は、夢窓国師の母上けんしん様のお申し出により、国師が一心の端的をお示しになって、悟りを得られたという法語である。