夢窓国師仮名法語(六)

瑞泉院の一覧亭で、雪が降った日に、

 

   まつもまたかさなる山のいほりにて

                梢につづくにはのしらゆき

(松の木が重なるように生える山の庵で、その梢から庭までも白い雪が続いていることだよ。)

 

雪の中で、草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)の文を思い起しなさって、

 

   わきてこの花さく木をとうゑけるは

                雪見ぬときのこころなりけり

(選んでこの花の咲く木をと植えたのは、雪を見ないときの心であったよ。)

 

初雪の日に将軍が雪を踏み分けてお越しになったので、

 

   とふ人のなさけのふかきほどまでは

                 つもりもやらぬにはのしら雪

(訪ねてくる人の情けの深さほどは、積もってはいない庭の白雪だよ。)

 

   たはむほどしばしは枝につもりつつ

                 ふたたびにふるまつのした雪

(いっときは枝がたわむほど積もりながら、また松の下に降り落ちる雪よ。)

 

天龍寺の方丈の集瑞軒(書院の名)から、雪が降っていたとき、嵐の山をご覧になって、

 

  ゆきふりて花かと見ゆるあらしやま

               松とさくらぞさてかかはれる 

(雪が降って桜の花のように見える嵐山だが、松と桜がこんな仕方で関わるのは面白いことだ。)

 

どこであっても心にかなう山があったら隠れ家にしようとお思いになっていた頃、

 

   世をいとふわがあらましのゆく末に

                いかなる山のかねてまつらん

(世間を厭う私に予想される行く末として、どんな山が待っていてくれることだろうか。)

 

仏身は無為(1)であって諸趣(いろいろな迷いの境地)に落ちないという心を、

(1)無為(むい):因果、生滅を離れていること。有為の逆。

 

   わすれては世を捨てがほにおもふかな

                のがれずとても数ならぬ身を

(世間のことをすっかり忘れてしまい世を捨てたような顔でいろいろ思っていることだが、世間を逃れないとしても物の数ではないこの身なのだが。)

 

濃州(美濃の国)虎渓(こけい)という所にお住みになっていた頃(2)、仏道を志す人が訪ねてくるのをお嫌いになって、

(2)虎渓:虎渓山永保寺。岐阜県多治見市虎渓山町。

 

   世のうさにかへたる山のさびしさを

               とはぬぞ人のなさけなりける

(世間が疎ましいのでそれを山の寂しさに変えたのだから、訪れないのが人の情けというものだ。)

 

また、鎌倉山の人が住んで捨てた庵に、一夜お泊りになった時に、軒の松風が一晩中吹いていたので、

 

   我(わが)さきに住みけん人のさびしさを

                  身にききそふるのきの松かぜ

(私の先に住んでいただろう人の寂しさが、軒を吹く松風を聞いて今はわが身にやって来ていることだ。)

 

相模国そこくら(3)という温泉に下って行かれたときに、その山の奥の人里も続かない谷の底に、山賎(やまがつ)(4)の庵があったのをご覧になって、「同じくは世を捨ててこそ」と詠んだ昔の和歌を思いだして、改めて思うと、世を捨てた人はいかにも世を捨てたような顔をする汚れがあるが、この山賎はかえって仏法の道理にかなっている心地がして、お詠みになった和歌、

(3)底本注によると箱根の底倉である。

(4)山賎:山仕事をする身分の低い人。

 

   のなかをいとふとはなき住居にて(5)すごし

               なかなかすごきやまがつの庵(いほ)

(5)冒頭「よ」の欠落か。

(世の中を厭うというのではないこの住まいで、かえってすばらしい山賎の庵であるよ。)

 

相州(相模の国)三浦の横須賀という所、入江に臨んだ泊舟庵という所にお住みになっていた頃、中納言為相(ためすけ)卿がお訪ねになって来られたのを、舟で送りだされたとき、お詠みになった和歌。

 

   かりにすむいほりにたづねてとふ人を

                あるじがほにてまたおくりぬる

(仮に住んでいる庵に訪ねてきた人を、まるで主人のような顔でまた送ることだよ。)

 

また三浦の庵を捨てて、綱州(6)へいらしたとき、その庵の施主である三浦安芸の前司貞連(三浦貞連)のもとへ送られた和歌。

(6)綱州:底本では「本ノママ」と注記。不明。

 

   うかれいづる事をうらみとおもふなよ

                ありとてもまたありはてんかは

(浮かれたように出て行くことを恨みに思われるなよ。住んでいたとしてもこの世にずっと住み果てるわけでもないのだから。)

 

濃州清水という所に庵を結んでお住みになっていたのを、捨ててお出になるというので、

 

   いく度かかく住み捨てて出(い)でぬらん

                  さだめなき世にむすぶかり庵(いほ)

(いったい何度このように住み捨てて出て行くのだろうか。定めのないこの世に仮に結んだ庵を。)

 

右武衛将軍が西方精舎におこしになり、仏法の談義をされた後、人々が和歌を詠まれた折に、

 

   おのづからとひくる人のあるときも

                さびしさぞそふやまかげの庵(いほ)

(みずから訪ねてくる人があるときでも、寂しさが離れないこの山陰の庵であるよ。)

 

花室という尼寺の長老が、自分の見解(けんげ、仏法の会得)になぞらえて詠んで差し出された和歌。

 

   をちこちの海とやまとはへだつれど

                おなじ空なるつきをこそみれ

(あちこちの海や山は遠く隔たっているけれども、同じ空にある月を見ていることです。)

 

    返歌

   ところからかはる気色のあるものを

                おなじ空なるつきとみるかな

(所が変われば様子が変わって見えることもあるのに、同じ空にある月だと見ていることよ。)