夢窓国師二十三問答(一)

*夢窓国師(むそうこくし:1275-1351)=臨済宗天龍寺開山、夢窓疎石(むそうそせき)禅師の仮名法語。底本:『禅門法語集 上巻 復刻版」ペリカン社、平成8年補訂版発行〕

*〔 〕底本編者による補足、[ ]はブログ主による補足を表す。

( )付数字はブログ主による注釈。

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二十三問答             

                               夢窓国師

 

一 道心(仏道を求める心)を起こすべき事

 

 ある人が尋ねて言うには、道心を起こすとはどのようなことですか、と。答えて言う。道心に浅い深いの違いはさまざまにあるけれども、すぐにお分かりになるかと思うのは、世の中が無常であるという道理を知って、名誉や利益を捨てる心のことです。昨日以上の望みとか今日の命さえも頼りにはならず、入る息、出る息を待たず、老いた者か若い者かを定めず、生きていた者は今はなく、死んだ者はその数を増してゆく有様であって、今を盛りと咲く桜が散り、木の葉が落ちるに至るまで、はかないことは水の泡や幻と同じで、少し残った水の中に魚がいるようなもので、今日一日を過ぎれば、命もまたそれにしたがって縮まるのです。親子や夫婦でも一つの息が切れた後は、後を追ったり連れ立つということもありません。位の高いことも財産の多いことも用に立つことはなく、朝方には紅の顔色をほこっていても夕べには白骨となります。この世のさまざまな物事が思うようにならないことを、いよいよ仏の道に入っているのであると理解して、御法(みのり、仏法)を信じるのを、道心を起こすと言うのでございます。

 

二 心一つの向け方という事

 

 尋ねて言う。心一つの向け方によって、仏ともなり地獄にも落ちるというのは、どのような心のありさまで仏とはなるのでしょうか。答え。何事につけ悪いことをなさず、善いことをを行って仏とはなるのです。

 

三 善悪の限りがない事

 

 問う。どのような事を指して善いこととし、どのような事を指して悪いこととおっしゃるのでしょうか。答え。善いことも悪いことも際限がない。ただ善悪をなす源一つを明らかにしなさい。

 

四 善悪の源の事

 

 問う。その源とは何でしょうか。答え。源は心です。その源にいろいろありますが、まず二つです。一つには、白い黒いを知り、東西をわきまえ、あらゆる物を思いはかる心です。その心は、本当の心ではなく、仮にその身に宿っているのです。それなので、身に付いているがゆえに、身がなくなればその心もありません。その時々の時分に出てきて、また移り変わり、消え失せて、しばらくも留まることがありません。流れる水は続いて見えますが、前の水は流れ去って、あとから又続いているのと同じです。ともしびの炎も続いて見えますが、薪や油の力によって後から続いていて、前の炎は消えて移り変わるようなものです。二つ目の心は、自分だ人だの隔てもなく、一念を起こす、善いとも悪いとも思わないところの心です。この心は法界(ほっかい、全世界)にあまねく行き渡っていて、一人だけの持ち主というものはなく、出来することも消え失せることもなく、移り変わることがなくて、誰でも残らず持っているものなのです。これを仏心と言うのでございます。ですから、善いとも悪いとも思わず、何の心も何の念も為さない心の向け方によって、仏になると言うのです。この心は妙法蓮華経とも言い、一切の菩薩とも言い、一切の仏とも言うのです。この心の他に別の真理はないのです。この心は、身がなくなっても消えることはありません。身が生まれても生まれることはありません。ただ天空のようなものです。この心になって、良し悪しを思いはからず、念がないのを、善悪の源を明らかにすると言うのです。このような二つの心はまた、別物ではないのです。譬えて言えば、心は月のようなものです。念が起こってさまざまの思いがあるのは、指で目を押す時、月の傍らにもう一つの月があって、二つ見えるようなもので、その月といっても、別に月があるのではなく、目を押す人がそう見ているだけです。傍らの月を取り除いて、本当の月ばかり見なさいというのではなく、ただ目を押さなければ、傍らに月はないというようなものです。心をあるとかないとか思い、内だ外だと当てはめて思いはからなければ、心は二つあるはずはありません。善をなしても、その善にとらわれる心なく、またあらゆる念を起こして、その念に染まることがなければ、自然と、傍らの月というものはあるはずもないのです。