夢窓国師二十三問答(六)

十八 何事も思わず為すこともないのは悪い事

 

 問い。そうすると、何事も思わず為すこともない者を良いとおっしゃるのでしょうか。答え。信心がなく仏道を志す心もなくて愚かである人、そのように為すこともなく御法(みのり、仏法)を心にかけることもなく無為な人は、かならずこの世のことに執着する心が深くて、仏法を面倒に思うのでございます。人目には何をしているとも見えなくとも、道心のある人は、心に放っておくということは全くないのです。静かな所で膝を組み、心を静めて、何かに差し向け考えるということなく、念をなくしていることが肝要なのです。この世のことに引かれて暇のない状態であったとすれば、一日のうちで何度かはきっとこのようになさるのがよいのです。それでもなお心が取り紛れることがあるならば、、このように目に物を見、耳に聞き、惜しいとか欲しいとか憎いといった心がどこから起こるのかと突き詰めてお疑いになるのがよろしい。また、寝たり起きたり立ち止まったりする自分は何物か、主(ぬし)は誰かと突き詰めて疑問に思ってみるならば、このことをお忘れになることなく、立ったり座ったりするときも心構えをなさってください。気高く山に臥したり、または物を食べたりなさるときであっても怠ることなく、また経を読み、南無釈迦牟尼仏と南無妙法蓮華経とか唱えても、別の心をまじえず、知らず、思いはからず、唱えるのがよいのです。心を起こさず、どんな念もなければ、その妙法蓮華経はそのまま心の仏(仏心)でございます。疑ってはなりません。善い事に心をとどめて、為すことも無いのを良いと申しますでしょうか。ですから、煩悩をも嫌わず、菩提(悟りの知恵)をも願わず、何事をも思うまいとも思わず、漠然として分けもわからず、心ですがりつくこともないなら、どうなるのだろうかと疑わず、少しでもすがりついて求めるならば、その念に隔てられてしまいます。本当の心は念のない心の仏(仏心)でございます。

 

十九 祈祷のこと

 

 尋ねて言った。祈祷ということも世間のならわしですが、どのようにして神仏の御心にかなうのでしょうか。答えて言う。前世の報いは神も仏もこれを耐え忍んで破ることはなさらないという道理を知って、かなわないことを愚かにも祈ることなく、来世のことを祈るのを、神もお喜びになるのです。心さえ誠実で素直であれば、おのずから神も御心にかなうので、祈らなくても霊験はあります。神と仏とは水と波のようなもので、隔てはなく、一つの神があらゆる神でおられます。一切の神の本地(ほんじ:ほんたい)は、ただ一つなのです。衆生に縁を結ばそうとするがために、様々の姿かたちをお取りになるのです。ですから、鳥獣や龍亀(ろんぐい:亀の身体に龍の首を持つ聖獣)の名を写し書き、山河や石や木の姿を絵に描いても、神を尊敬することで、世界すべてにわたって漏れることのない道理は、以前にも申しました。衆生の心も仏の心も神の心も違いのあるはずはなく、見ることを離れ、しかも天地に現れており、物は言わないが、草木や風や雲と等しくていらっしゃるのです。衆生の心のほかに神もなく、神をまつるというのは心をまつるのです。心をおさめて心が大空の如くになり、執心や執着がなく、心念がなければ、自分の身がそのまま神なのです。心の神をまつりなさい。

 

二十 仏や菩薩の行のうち、どれが勝り、劣っているかという事

 

 尋ねて言った。仏の中ではどれが優れ、菩薩の中ではどれが優れ、行(ぎょう)の中ではどれが優れていると心得て信じればよいでしょうか。答えて言う。一切の仏は一つの仏であって、一つの仏が一切の仏です。過去にお出ましになった仏、現在いらっしゃる仏、未来に出現される仏、名を変え、姿を改めて、数々いらっしゃいます。その中でも近い世に出て仏法を説き、この娑婆世界(苦しみの世界)に縁が深いのは釈迦仏です。我々衆生の根本の師であり、根本の親です。真実の仏のことは、以前詳しく申し上げたように、衆生の心にあるのです。その仏は、色も形もなく、大きくもなく、小さい物でもない。過去・現在・未来もなく、虚空のように至らないところはなく、生き死にもなく、いやしくもない。これが根本の仏です。この仏さえ知っていれば、自分の心のうちにすべての仏が残りなくいらっしゃいます。菩薩というのも、文殊もんじゅ)、弥勒(みろく)、薬王(やくおう)、観音(かんのん)、地蔵(じぞう)、虚空蔵(こくうぞう)、普賢(ふげん)その他一切の菩薩はみな一心の名でございます。慈悲深くて、世に出て、衆生の心がそのまま仏である、菩薩であると知らしめて、六道(六種の輪廻の道)から出させるためなのです。ですから一つの菩薩であって、機会に従い、時に応じなさるので、いずれが劣り、いずれが勝るとも申すことはできません。悟る時は、衆生も菩薩も仏です。迷う時は、仏も菩薩も衆生です。本当は仏も衆生も、昨日見た夢のようなもの。このような道理を説いて表されるのを、一切の行と申すのです。その行のうち、三世(過去・現在・未来)のもろもろの仏が世に出られる本意、一切衆生が仏となる道は、法華経であるというので、経王と申し上げる。この経の肝心なところは、「妙法」ということであって、この「妙法」と申すのも、心のことでございます。思いはかることなく、言葉にも言うことができず、心でわきまえることのできる方法もない心の名を妙とつけられたのです。法とは念のことであって、念と心は違いがなく、一切の仏も心です。一切の菩薩も心です、一切の経も心です。塔の中に釈迦と多宝如来がいらして法華経をお説きになったのは、我々衆生は皆、世界の中の塔なのです。その中に心と念とがあるのを二人の仏(釈迦と多宝)に表現なさり、真実でない心身を夢まぼろしと知って、心に浮かぶことがすべて無くなるならば、酒に酔った人の酔いがさめて、元の心になるようなものです。念が次々起こるのは酔っているからであり、念がなければ元の酔っていない時のようです。そういうわけで仏が法華経をお説きになるのを聞いて龍女が髪すじを一つ引き切るほどの短い時間で仏となったというのも、初めて仏になったのではなく、元の仏が心にあることを表現したので、本当には男女の姿もあるとは思ってはなりません。