澤水禅師仮名法語(二)

二 どのような人も心地の修行をしなければならないことを示す事

 

 ある人が来て尋ねて言うには、仏法の信心のことですが、私は元より武家の家なので、仏法を信じることはふさわしくないはずで、仏法の信心とか坐禅の探求とかは、ただ出家した僧侶だけのことで、在家の俗人が行うというのは理解できないのですが、と。師が言う。それは、仏法という二字の意味を、まだ優れた師から聞かれていないゆえの誤りです。仏法という二字の意味でさえ、容易には知られないものなのです。一切のお経や注釈、諸子百家をことごとく暗記している大学者も知ることは難しい。元来仏法は、分別や学問的理解がよく及ぶところではないからです。ここを教外(きょうげ:教えのほか)の玄旨(げんし:深遠で見えにくい真理)と言うのです。円覚経に言うには、善知識(ぜんちしき:人を導く優れた先達のこと)を求めなさい、善友(ぜんゆう:優れた道の友)を尋ねなさいとあります。学者を尋ねなさいとはお説きになってはいません。たとえ書がうまく、様々なお経をひろく参照し、詩や文章を作ったとしても、知識とは名付けられません。知識というのは、一字一句を学ばなくても、本当に仏陀や祖師方のように一心(いっしん:仏心のこと)を明らかにした人を知識と言うのです。このようなことも、聞いたことがなければ思い違いが多いものです。そうして仏法というのは、身分のある人ない人や男女を問わず、草木や石瓦にいたるまで、それぞれに備わっている仏法であって、出家だけが信じるべきものではありません。たった今、手を動かし足を働かせ、目に色を見、耳に声を聞く、このように私の庵室に来られたり出て行ったりするのも、いったい何の道理でしょうか。これはみな人々に備わっている仏法の霊妙な働きなのです。仏法というのは、人々の一心の名前なのです。一心の名前であるということを知らずに、自分は出家した僧侶ではないから仏法を信じることはできないと言い、あるいは悪口を言ったり憎んだりすれば、それはそのまま自分の一心を嫌い、憎むことに他なりません。これはまったく愚かなことではないですか。もし儒教で仏の悪口を言う人がいるなら、儒教の極意をまだ知らない人です。神道で仏の悪口を言う人は、神道の極意をまだ味わっていない人です。仏教において儒教神道をそしる人がいれば、それは仏法を夢にも知らない仏法者です。仏門のうちで、あれこれの宗論(しゅうろん:仏教各宗の間での論争)を掲げて議論するだけでは足らず、本当に恥ずべきことです。このような次第で、仏法は武家においては武道の極意であり、歌道(かどう:和歌の道)においては歌道の根幹です。そのほかの様々な道や無数の芸でも、その究極に至れば、すべてこの一心におさまるのです。そうして坐禅探求は、しっかりと座って、耳に音を聞いているその主(ぬし)を探求する人は、聞く主を探求し(1)、その他、昔の公案(2)のどれであっても、ただ一つの公案を決めて、道を歩いているときも探求し、寝ても覚めても深く疑いを起こして探求しなさい。探求とか疑団(ぎだん:疑いの塊)というのは、知ることのできない所を深く考えることです。深く考えるところを工夫(くふう:探求すること)とも、坐禅とも疑団とも、観法とも、観念とも、禅定とも思惟とも三昧(さんまい)とも大信心とも、大菩提心ともいうのです。そのほかこの探求を言う別の言い方は数えてあげきれません。坐禅のことは、座っているだけを坐禅とは言いません。行住坐臥いつでも深く公案を疑うのを、真実の坐禅と言うのです。どれほど長く座って横にならず、端正に座っていたとしても、深く疑う心がなければ、坐ではなく、禅ではなく、黙照(もくしょう)(3)の邪禅です。六祖大師(4)いわく、道は心によって悟る、どうして坐にあるだろうか、と。これによって知らねばなりません。坐禅というのは、ただ深く疑わせて自性(じしょう:自己の本性)を悟らせるだけの方便であることを。悟りということは、一心を明らかにすることです。明らかにするというのは、自分の心が明らかになるということです。それゆえに、一心あるものは、一心の修行をしないわけにいきません。武家は武の道で探求し、百姓は耕しながら探求し、身分のある人もない人も男も女も、その仕事をしながら行うべきであるのが仏法の信心なのです。それだから、信心というのはまことの心と書くのです。まことの心になるのが悪いという人は、どんな宗派、どんな道、どんな芸のうちでも一人もいないでしょう。一心を明らかにせず、心が暗く邪で善いという人は、どんな宗派、どんな道、どんな芸のうちでも一人もいないでしょう。これで知らねばなりません。仏法の信心というのは、世間一切の人がすべて行わないわけにいかないものであることを。仏法とは一心の名前です。信心とは自分の一心を信じることです。坐禅の探求は、特別変わったことのように人はみな思うものですが、ただ一心を明らかに磨くための修行です。この探求、信心は、手足を使うこともなく、道具を求めることもなく、ただ意識の中で行う信心ですから、仏法の信心は、数多い中でも第一におこないやすい信心なのです。もし実際に探求し、大いなる疑いが破れ、大悟が開かれるときには、抜澤法語にあるように、一文字も見ずに七千巻以上のお経をすべて読み尽くすことになります。七千巻以上のお経は、ただ少しを説き分けられただけです。儒教の一切の書物や、神道、歌道の書物、あらゆる書籍の本質をことごとく見尽くすはずです。私がこのように言うからといって、少しでも疑いのある人は、実際に大いなる疑いを起こし、即今に自性を見て取って知るがよい。古人が言うように、終日食べても一粒の米を食べず、終日歩いてもほんの少しの土地も踏まないと。本当にこのようなところに至るならば、たとえ百万騎の敵陣にひとりで駆け入ったとしても、前後左右に人ありとも思わないでしょう。何と痛快なことではありませんか。

 

(1)聞く主:臨済禅師が「即今聴法底の人を識取せよ(たった今話を聞いている者が誰かみてとれ)」と言ったことを指す。

(2)公案坐禅探求の手掛かりとする古人の言葉や逸話。

(3)黙照:ただ座っているだけの禅を批判して言う語。

(4)六祖大師:中国の初祖達磨大師から数えて六番目の慧能禅師のこと。