澤水禅師仮名法語(十四)

二十一 文字のこと、山に住むことの可否について示すこと

 

 あるとき僧がやってきて、意見を述べて言う。私はもともと仏道修行の志がありましたが、不幸にも私の師匠ははやくに亡くなってしまいました。それでその志を遂げることができず、ただいまは住職の身なので、文字書籍なども取り扱わないと寺の役職は務まらず、山に住みたいという気持ちはあるのですが、その時々の問題でかなわず、とかく日頃文字や語句を扱っていることは、仏道修行の障害にならないでしょうか。師が言うには、この一心仏性は、文字や語句などに惑わされ、縛られるようなものではない。文字や語句は、ずっと後の人が分別や才覚で作り出したものである。この人々の一心は、人の作り出したものではなく、天地が未だ分かれない以前から、みずからまったく明らかに、今に至るまでかわる様子もなく、十方世界に満ち満ちている。日頃、深く探究して一心を明らかにし、天地と自分とが一体のところに至るのを、仏となり祖師となる田地とする、釈尊や様々な祖師方が本来お説きになるのは、皆このようなことである。寺の役職を一生懸命務めている時でも深く探究すなさい。ともすれば文字や語句をすっかり忘れるほど探究なさい。山に住むことは結局無益である。この一心は、場所により、環境によって変わるというものではなく、どれほど山中の静かな場所に住むといっても、元の散乱した心を伴って行くのだから、静かな所でいよいよ散乱する。六祖大師がおっしゃるには、「道は心によって悟る、どうして坐にあるだろうか」と。この一心は座ることによるのでもなく、住む所によるのでもなく、どこに居ても、ただ真剣に探究をなさい。場所により、環境によって悟るのではなく、ただ探究によるのである。

 

二十二 戒律修行について示すこと

 

一人の男がやってきて、尋ねて言う。和尚の慈悲深い教示をいただいてから、怠らず信心しておりますが、この頃思いますのは、せめて五戒(一)でも保持するのでなければ、結局探究も無益になってしまわないか、またもし五戒を保つときには、世間の交際に差し支えが出るのではないか、と思うのですが、このことはどうすればよいのでしょうか。師が答えて言う。この探究、修行というものは、仏道の本筋であり、成仏の早道であって、まったく狭いことではなく、老僧(わし)が日頃言っているように、聞いている者は何者であるかと、絶え間なく道を歩いているときでも探究し、家にいるときも働いているときも、寝ても醒めても、深く探究をなさい。読んだり書いたり計算をしたりしているときは探究は難しい。それらの用事が終わったときには、すぐにまた元のように探究をなさい。日々、そのようにするときには、五戒や十戒は物の数ではなく、平日が定共戒(じょうぐかい、(二))であり、萬法戒(まんぽうかい、(三))を保つことにあたるのである。戒というのは、すなわち心戒(心の戒め)である。大唐(中国)徑山寺(きんざんじ)の額に書かれているが、百千もの仏像を建立するよりも一句に自然本来の姿を悟りなさい。無量の戒律修行を保つよりも、心の一戒を保ちなさい、と。もしまた老僧(わし)の示すように探究をせずに、萬法戒を保てるというなら、このような道理はないであろう。男はまた尋ねて言った。しばしば、世間を渡ることについて、分別を用いることがあるが、探究の支障にならないでしょうか、と。師が言うには、公用であれ私的な用事であれ、自分は渡世のことには分別を用いて、一生懸命方々にきちんと取り計らい、さまざまな事を普通の人と少しも変わらないように心得て、少しも人をあなどらず、もっぱら両親を大切にし、主人がいる人は主君のことを自分の身のことを取りはからうようにして、地位の高い人は幾重にも敬い、下の者はあわれみをかけて、そのようにして日頃は無益な分別や見解を打ち捨て、この探究と信心に取り換えて、いよいよ深く探究をなさい、と。男は喜んで帰った。

 

(一)五戒:戒は人の守るべき決まり。五戒はそのもっとも基本的なもので、不殺生(殺さない)、不偸盗(ぬすまない)、不邪淫(不道徳な性交をしない)、不妄語(嘘をつなかい)、不飲酒(酒をのまない)の五つ。

(二)定共戒:天台大師智顗が『魔訶止観』で説いた十種戒の一つで、禅定の修行により自然と戒律が守られることを言う。

(三)萬法戒:円頓戒(えんどんかい)とも。完全な修行者が保つ戒のこと。

澤水禅師仮名法語(十三)

十九 思慮分別や妄想を取り除くことについて

 

 一人の男が来訪して訪ねて言うには、前日より和尚の親切なお示しをたまわり、探究をしていますが、分別や妄想がいよいよ盛んになっているようです。この分別や妄想が尽きないと、一心を悟ることができないのでしょう。さらにお言葉をお与えください、と。師がおっしゃるには、元来この探究は、妄想や分別を払い尽くすための修行でもないし、気持ちを静めるための修行でもなく、ただ想念が起ころうが気が静まろうが構わず、ただ深く探究して、一心を悟るための修行である。分別を払い除き、気を静めることは小乗あるいは外道(げどう(一))や仙人などの修行である。それぞれの違いをよくよくわきまえねばならない。釈尊は、お経の中でこれらのことを譬えをもってお説きになっている。その譬えはこうである。山深い所に一つの岩窟があり、人跡未踏のところで、この岩窟はたいへん暗かった。二人の男がいてこの場所に至った。一人の男は、箒で岩窟の中の暗いものを払いのけようとして、力を尽くしたが暗いものはいっこうに取り除けず、いよいよ力を入れて日々払ったがまったく無くせない。もう一人の方の男は、火を灯して岩窟の中に入ったところ、先の暗いものはたちまちに消え失せて、明るいこと昼のようであった。火を灯して入れば、暗いものは、無くなるという間もなく、たちまち消え失せてしまった。人々が一心を悟るのもまたこのようなものである。一心を悟るときは、妄想分別がさっと消えることは、岩窟に火を灯して入れば暗いものがたちまち尽き果てるようなものである。釈尊は、火を灯して入るところを一心を悟ったところに譬え、箒で払うのを妄想分別を嫌って取り除くことに譬えられたのである。人の心は今も昔も同じである。火を灯して入るのが肝要である。暗いのを払い除くのは愚人である。

 

(一)外道:仏教以外の教えを指して言う語。

 

二十 近くにお仕えする僧に示す事

 

 師のそば近くにお仕えする僧が、しばらくあちこちを巡り歩いて、他のある寺の長老と面会した。長老が尋ねて言うには、澤水老師は、日頃どのように皆に教えているのか、と。僧が答えて言うには、老師は、常日頃万事を投げ捨て、さまざまま関係を忘れて大いなる疑いを起こし、仏や祖師方のように直に自性を悟らねばならないと教えています、と。長老が言うには、澤水老師が教えていることは大きな誤りである、と。僧が言う。高徳な先人たちもみなこのように教えています。澤水老師の誤りはどこにあるのでしょうか。長老が言う。君は見たことがないのですか、六祖大師(一)が言うには「本来無一物、どこに塵やほこりがつくというのか」と。本来無一物のところに、しいて疑いを起こしたり探究したりして、いったい何を悟ろうというのか。もし実際に悟るべきものがあるならば、六祖大師はどうして本来無一物といったのか。このことで知らねばならない。澤水老師は人を欺き迷わせているのだということを。僧は憤慨して言葉を尽くしたがうまく行かず、十数日の後に庵に帰って来て、すぐに師にその事を詳しく語った。師は叱って言う。お前は日頃、信念を欠いているのではないか。これしきのことで他の長老に屈し侮られるとは。どうして壇経(二)にある慧能大師の言葉で直接彼に逐一述べて、空見(くうけん(三))を抱く者を正しい見解に導かないのか。僧が言う。檀経の中で、無一物ということを打ち破るような言葉もまたあるでしょうか、と。師が言う。明白にある。お前は幼い頃から眼では見て、口では唱えるとはいっても、このような過ちをするのは信が足りないからである。お前は見ていないのか、六祖大師が皆に示して言うには、「我に一物があって、頭なく尾なく、名もなく、字もなし。皆はこれを知っているか」と(四)。僧は驚いて罪を悔いた。師が言うには、これを無一物と言うか、有一物と言うか、もし本当に無一物ならば、六祖大師はどうして「我に一物がある」などと言うのか。このことで知らねばならない。文に書かれてある通りに意味を理解すれば、実に三世(過去・現在・未来)の仏たちに敵対することになるだということを。僧はこのときから深く探究するようになった。

 

(一)六祖大師:中国禅宗六番目の祖師である慧能禅師のこと。

(二)檀経:『六祖壇経』のこと。慧能禅師の教え等を記載したもの。

(三)空見:空や無という語を、いっさい何もないと理解する見解。有と無の二元を越えるのではなく、無に執着する見解。

(四)「我に一物あって・・・」:『六祖壇経』にはおよそ十種の異本(内容の異なる版)があると言われ、時代的に後になるほど内容が付加されている。この語は、もっとも普及した明蔵本(明版大蔵経に収録)の「頓漸第八」中に以下のように出ている。「一日、師は衆(しゅ)に告げて曰(い)う。「吾に一物有り、頭(ず)無く尾(び)無く、名無く、背(はい)無く面無し。諸人は還って識るや。」(『禅家語録Ⅰ』筑摩書房、昭和47年、150頁)。

澤水禅師仮名法語(十二)

十八 抜隊法語の最初の行について示す事

 

 師がある日おっしゃるには、抜隊法語(一)の最初の行にあるが、輪廻の苦しみを免れようと思うなら、直接、成仏の道を知らねばならない。成仏の道とは、自分の心を悟るのがそれである、と。この一行は、成仏の近道であり、如来が四十九年説法された要であり、最上乗(二)の教えを直に説いたものである。三世(過去・現在・未来)の諸仏が姿を現すのも、このためである。無辺衆生の願欲(三)もまたこのためである。輪廻というのは譬えて言う言葉であり、車輪がまわることを言う。何が輪廻の苦しみかと言えば、世間の身分のある者ない者、年寄や若い人、男・女のすべての人々が、日頃一日中、この心ひとつが善いことにつけ、悪いことにつけ、車の輪がまわるように、巡り苦しむことである。身分のよい人は、よくありながら、この心がめぐり苦しみ、身分の悪い人は、わるくありながらめぐり苦しみ、老人は年をとりながらめぐり苦しみ、若い人は若いながらめぐり苦しみ、女の人は女人の道についてこの心がめぐり苦しみ、商人は売買についてめぐり苦しみ、農家は耕作についてめぐり苦しみ、地位の高い人は、地位がたかくありながらこの心がめぐり苦しみ、しもじもの者はしもじもでありながらめぐり苦しむのである。ある事が終われば、別の事がやってくる。喜びが去れば悲しみがやって来て、一年ないし一月のうちといえども一日も安穏ということもなく、この心ひとつが四方八方へくるりくるりと車の輪のまわるように万事についてめぐり苦しむのである。このめぐり苦しむ心を指して、法華経に、「三界は安きことなし、なお火の宅の如し」とお説きになる。このめぐり苦しむ心をそのまま来世に持ってゆく時は、そのまま悪道や地獄に転じて変わり、今の百倍の苦しみとなる。外から得た地獄ではない、人々が自ら作った地獄なのである。すべて今生と来世の苦しみをまとめて輪廻の苦しみと言っているのである。この輪廻の苦しみを免れて、大安楽のところに至ろうと思うならば、直接に成仏の道を知らねばならない、というのである。直接に、というのは、死んだ後のことではなく、ただ今生きているあいだのことである。成仏の道というのは、仏になる道ということである。世間の大半の人は、今生で後世というものをよく願う時には、死んだ後に、どこということもなく仏というものになるように思って、しかも確かに成るとか成らないとかの道理も知らず、非常に愚かである。本当に成仏を遂げるというのは、ただいま直接に一心を悟って、不生不滅の全体によく至ったところを言うのである。このようによく至った人を仏とも大菩薩とも名付ける。仏道の本来の真理、極意はみなこのようなものであって、むしろいかにも遠いことではない。自分の心を悟るというのは、自分の一心を悟るということである。悟るということは格別のことではなく、ただ一心を明らかにするということである。悟りを明らかにするというのは、元来同じことを言っている。世間の人は悟りというと、仏や菩薩の再来のようなことばかりを思って、普通の人は非常になり難いように思うのは、大きな誤りである。明らかにすると言えば、誰でもなりやすいように思って、私はこのように明らかにしました、あの人は明らめのよい人だなどと、普段の言い方で言っている。元来悟りとは、明らかにすることを言うのであり、随分と探究し、信心して、自分の一心を明らかにしたところを悟りと言うのである。この一心を悟る探究や信心は、末世(まっせ、(四))の迷っている凡夫(ぼんぷ、暗愚な者)の行うべき信心や修行である。仏や菩薩は悟りによって仏や菩薩の名を得られた。仏や菩薩の再来といったことばかりを悟りと言うのは、はなはだ誤りである。それだから様々なお経の中で、末世のために説くとおっしゃっているのである。よくよくこの道理をわきまえて、常日頃油断なく心地(しんじ(五))の修行をして、すみやかに成仏を得なさい。たった今にも臨終に及べば、その時に苦しみにどう対処すると言うのか。喉が渇いてから井戸を掘るようなことをしてはならない。

 

(一)抜隊法語:抜隊得勝(ばっすい とくしょう)禅師(1327年~1387年)は臨済宗向嶽寺派の開祖。その法語は、このブログでも現代語訳している(塩山仮名法語)ので参照されたい。澤水禅師は、抜隊禅師の法語の通りに修行をして悟りを開いたと言われている。

(二)最上乗:仏教を小乗、大乗、最上乗と区別し、もっとも肝要な教えを指したもの。

(三)無辺衆生の願欲:いわゆる四弘誓願(しぐせいがん)に「衆生無辺誓願度(数限りない生きとし生けるものを誓って救済しよう)」とある菩薩の誓いのこと。

(四)末世:末法の世。釈尊が無くなって時間が経ち、仏法が衰えると考えられた時代のこと。

(五)心地:仏心を、あらゆるものがそこから生まれ、そこにある地盤として言う語。

澤水禅師仮名法語(十一)

十五 大疑の探究を示す事

 

 師がある時、皆に示して言うには、[公案などの]疑問を突き詰める探究は、百万騎の大敵をただ一人で持ちこたえるかのようにしなさい。「聞く主」を疑う者は、聞いているその主はいったい何者かと、大いなる疑念の塊を起こして深く探究し、趙州禅師の「無」を探究するのでも、またそのように深く疑っている、その中でいろいろな分別や妄想が起こるならば、これは妄想の大敵に、味方の探究という城郭を奪い取られるのだと心得て、いよいよ深く疑いなさい。大いなる疑いの一念を宝剣として、妄想の大敵が少しでも出て来たならば、直ちに「聞く主は何ものであるか」と切り捨てなさい。このように行住坐臥に修行するならば、太平の日が必ずやってくる。老僧(わし)がこのように千変万化に言葉を連ねるといっても、これはただ人をして深く心性を悟らせようとするためだけの言葉である。記憶しておいてはなりません。

 

十六 浄心、妄心を示す事

 

 師がある日示して言うには、皆に備わっている二種の心がある。探究修行をする人は、必ず聞かなくてはならない。人々に二種の心があることを、善智識(先達)からよくよく聞かないと、ややもすれば探究に行き悩んでしまって、生死の大事を見届けることができないものである。それゆえに、如来を始めとして、千里(一)の道を遠いとは思わず善智識を訪ねよとお説きになっているのである。百里、二百里でも仏法のために足を運ぶことは、本当に深い心がけからでなければ出来ないことで、いわんや千里も遠くはないとすることはそうであり、本当に深い意味があるのである。二種の心というのは、いわゆる浄心と妄心とである。妄心というのは、分別妄想の心念である。浄心というのは、分別妄想の起源であり、これがすなわち浄心の仏性である。浄心と妄心は、元来同一であって、しかも二つである。譬えるなら、灯と光のようなものである。灯の本体があるから自然と光がある。浄心である仏性の本体があるゆえの、分別妄想の妄心である。浄心は本体、妄心は用(ゆう、働き)である。しばしば日常では、人は妄想分別の心をとらえて、これが自分の本当の一心であると思っている。ここから探究をする人は、ややもすればこのような悪念妄念の多いあさましい一心では仏や菩薩などのように悟ることはできまいと思う。これによって探究する気力を失ってしまい、自分は凡夫であると言って、惜しいことに途中で一大事をやめてしまう。あるいは、分別妄心をとらえて、これが自分の本心であると思うがゆえに、人が十人いれば一心も十通りあると思い、百人いれば百通りあるように思うことは、大いなる誤りである。浄心である仏性は、天地もいまだ開けない以前から今に至るまで移り変わる様子もなく、昔の釈尊やさまざまな仏でも、今の凡夫衆生でも、草木や鳥獣でも、濃い薄いの違いもなく、ずっと貫き通している。般若心経に、生ぜず滅せず(不生不滅)、増さず減らず(不増不減)とお説きになるのは、この浄心である仏性のことである。探究し修行するのは、妄心の分別の心でもっぱら探究し疑念の塊となり、浄心である仏性を明らかにして悟ることである。よくよく心得なさい。

 

(一)里(り):江戸時代の距離の単位で、1里は約4キロほど。

 

十七 悟りに古今の違いがないことを示す事

 

 ある僧がやって来て訪ねて言うには、たとえ今日、十分に悟り終えたとしても、釈尊の見解には遥かに及ばないだろう、なぜなら、釈尊は八千度もあの世とこの世を往き来してさまざまな修行法を行じ尽くして、結果として円満な悟りを得たのだからである。師が答えて言うには、この事[悟り]は、頭で理解したり心情で推測したり、様々なお経や議論でもって推しはかることがまったくできない所なのである。あなたは、実際に深い疑いを起こし、実際に参究し、実際に悟って、はっきりと自ら知らねばならない。たとえ老僧(わし)の弁舌が急流のように、悟りには古今で一点の違いもないことを論じたとしても、ますますあなたの疑心は多くなるだろう。臨済禅師が仰っているではないか。「山僧が見處に約せば、釈迦と別ならず(わしの考えを端的に言うなら釈迦と異なるものではない)」と。あなたは臨済禅師の流れを汲む者ではないのか。禅師は嘘を仰っているのか。祖師の門流に恥をさらしてはなりません、と師は三四度詰問した。僧はただ黙って座っているだけであった。師が言うには、これらの祖師の言葉が、百回も千回も目に触れるとはいっても自分で受け取れないのは、信念が十分及ばないためである。それゆえ、如来はお経の中で、末世の衆生が間違うことを恐れて、仏法に古今の二つがあるわけではなく、悟りに仏と衆生の隔たりはないことを譬えをもってお説きになったのである。その譬えによれば、まず一本のロウソクに火をともし、後からロウソク十本、二十本でその火を移し、このように受け継いで百本、二百本、あるいは二千本、あるいは一万本と、そのように初めは一本のロウソクの火を分けて移してゆくが、終わりの一万本の火になっても、初めの一本の火と毛頭、濃い薄いの違いなく、初めの一本の火は非常に熱く、終わりの一万本の火は少し熱いといった違いがないことをもって、自性を悟ることもまたこのようなものであると、釈尊がお説きになる大慈悲心というものではないか。これで知らねばならない。本当に悟るときは、釈尊の悟りと今とまったく違いはないということを。すべて諸々のお経は経義(けいぎ)と言って、言葉の意味をもって述べられる。お経の中にはいろいろな理解できないことも多いとはいえ、みな一心である仏性のことだけを、あちらになぞらえ、こちらになぞらえして、お説きになるのである。お経を見る目がなければ、戸惑うことも多いであろう。それゆえに、文の通りに意味を理解すれば三世(過去・現在・未来)のさまざまな仏の教えも無駄になってしまうとお𠮟りになるのである。如来が八千度あの世とこの世を往き来したというのは、ただ大きな数字をあげられているのである。どうしてただの八千度だけに限られようか。あるいは世の中には観音菩薩の再来であるとか、文殊菩薩の化身であるとか言われることがある。天地の一切の人、一切の物で、再来でないものは一つもない。老僧(わし)がこのように言っても、いよいよ猜疑心を増すだけであろう。実際に本当に悟りを開き、見性して、自ら知らねばならない。元来、大道は修行の力をたよりにするものではない。

 

 

澤水禅師仮名法語(十)

十四 和光行脚(一)の時に学士に逢ったことを示す事

 

 師がある日、大衆に語って言うには、むかし老僧(わし)が和光行脚の時、越後の国[今の新潟県]に言った。ある領主の家中に一千石(二)を持っていた侍があり、若年から学問を好み、文章の才能が非常に優れ、近隣の寺の和尚や長老たちといえども、匹敵する者がないほどであった。それで、儒教四書五経朱子による注釈(三)を元にして、仏法を排除し、ないがしろにして、僧侶を下男であるかのように見下していた。その者の親の一人が、後日の果報を恐れて老僧(わし)から意見をするように求めた。老僧(わし)は直ちにその者に対面して、次のように言った。あなたは仏法を排除し、憎まれているということを聞いたが、仏法の本体、仏法の根源をよくよく見定めて、本当に悪であるということを知り尽くした上で、そのように仏法を非難し、憎まれるのか。仏法だけではなく、世間の一切の事でも、よくその根源を尽くさなければ、確かに善であるとか、確かに悪であるとか判断し難いものであるが、あなたはどうなのか、と。その士が言うには、どうも大変厳しく難しいご質問です。これほど詳細な質問は初めて受けました。ただ仏法は、地獄があると説き、鬼がいると説いて、すべて方便と作り話で、元来は何もないものだと思い、それで仏法を非難したのです。老僧(わし)は言った。さてもまあ、学者には似合わないことです。ただこれだけのことを難しい質問などと言い、あるいは仏法は方便と作り話だけであって、元来何もないものと思われていることは恥ずかしいことです。仏法とは何物を名付けて仏法と言っているのかをお知りにならず、かえって仏法を非難し、憎まれることは、誤りと言うべきか、愚かと言うべきか、言語道断のことです。何物を名付けて地獄と言い、何物を名付けて鬼と言い、何物を名付けて仏法と言うのかという事をお知りにならないのであれば、何物を名付けて儒と言い、何を明徳(めいとく(四))と呼ぶかということも、いまだご存じではないでしょう。そもそも仏法とか仏道とか呼んで、名前が世間に流布し、後世にまで響き渡っていることは、仏法に確かに本体があるからです。本体が確かにあるから、仏法と名前を付けたのです。ただ仏法だけではなく、世間一切の物でも、本体がない物にはその名前を付けがたいものです。書籍は確かに本体があるので、書籍という名前を付けており、硯(すずり)は確かに本体があるので硯という名前を付けている。鎧(よろい)と名付け、甲(かぶと)と名付けることも、またそのようなことであって、一切の木や草や動物たちに至るまで、確かにそれぞれ本体があるから、それぞれその名前をもっているのです。風というものがあり、目にも見えず、手に取ることもできないけれども、枯れ木を吹き倒し、人家をくつがえして、確かに音という相を備えている。それによって風という名を付けている。影[姿]というものがあり、鏡にうつる影、人の影、それ以外のすべての影は、手に取ることもできず、ないと言ってもよさそうであるけれども、確かに色(しき(五))という相を備えている。だから影という名を付けている。世間の一切のもので、音の相もなく、色の相もなく、行の相もなく、すべての形態を欠くものには、その名はつけがたいものです。ただ何もない所は、空というほかは名付けられません。仏法も、もし何もないのであれば、ただ空と言うべきでしょう。ところが昔から仏法、仏道と呼んで国家の施策に用い、人々の議論の口に上がるのだから、どうして仏法に本体がないことがありましょうか。士は、頭を下げて言った。私ははなはだ道に迷っております。願わくば、仏法の本当の教えを伺いたい、慈悲をもって詳しくお示し下さい、と。老僧(わし)は言った。そもそも仏道というのは、別のことではありません。ただ、今、手を動かし、口を開くこと、これはいったい何ですか。これは誰でもに備わっている仏法の妙用(みょうゆう(六))なのです。この一心の名を仏法と名付け、仏道と名付けているのです。それを仏道は元来何もない事だと言うのでしょうか。もし元来何もないことならば、たった今、手を動かし、足を動かす者、それはいったい何者でしょうか。仏法とは、自分の一心の名だということを知らずに、かえって仏法を非難して憎むのは、直接自分の一心を非難し、憎むことに他ならない。これは大変愚かなことではないですか。まったくの無知ではないですか。あなたが学んでいる書籍は、いったい何の書籍ですか。天地のあいだにあるあらゆる書籍は、あるいは儒教の書か、神道の書か、仏法の書か、道教の書か、和歌の書か、兵法の書か、医学の書か、いずれもみな身と心との二つを説いています。けっきょくこれは何を研究しているのですか。身と心とを離れて、そのほかに書籍があると言うのであれば、それは邪書であり、外道(げどう(七))の書です。士は言った。私は罪多くして、今日初めてこのような霊妙な道理を伺いました。たった今からこれまでの考えを翻して、願わくば、師の教えをたまわりたい、と言って何度も礼拝をした。老僧(わし)は、この士の家に三十数日滞在したが、この士は、その後、立派な修行者となった。

 

(一)和光行脚(わこうあんぎゃ):和光は自分の光を和らげ、人々に交わること。和光同塵とも。行脚は諸国を巡ること。

(二)一千石(いっせんごく):領地の価値を石で表す石高制(こくだかせい)は、明治になって廃止されるまで続いた。一石は大人一人が一年間で消費する米の量を表すとされる。一千石は家臣1,000人を養える土地を意味する。

(三)四書五経朱子四書五経儒教聖典朱子南宋時代の儒学者である朱熹(しゅき)で、その教えは朱子学として日本には鎌倉時代には伝わったが、江戸時代になると官学(政府の公式な学問)となった。

(四)明徳:みょうとくとも読む。四書の一つ『大学』冒頭に「大学の道は明徳を明らめるにあり」とある。

(五)色:色(しき)は五蘊(ごうん:人や世界を構成する語要素)の一つで、物質的要素。他は受(感覚)・想(想念)・行(意思)・識(認識)という心の要素。

(六)妙用:霊妙で優れた働き。

(七)外道:もとはインドで仏教以外の教えを外道(げどう)と言った。ここでは間違った教えというほどの意味か。

澤水禅師仮名法語(九)

十三 悟りの上にさらに大事なことがあることを示す事

 

 一人の僧がやって来て、師に考えを述べて言うには、私はすでに個事(こじ(一))を究明して、求めることもなく捨てることもなく、無限の未来までただ一日と見て取って、茶にあえば茶を飲み、飯にあえば飯を食べ、自己の優れた働きにおいて自在を得て、安穏に至っていることは口では言い難い。和尚、聖胎長養(せいたいちょうよう(二))の探究についてお示しください。師が言うには、今どきの仏法が廃れた様子は、中国も他国も同様であるが、そのなかでここまでの力量、老僧(わし)は大変感心した。そのうえにまたまた一大事があり、いよいよ磨きをかけ、徹底的に修練なさい。仏法は大海のようなもの、どんどんと入って行けばどんどん深くなる。私は悟った、納得したと思うその念慮が、米一粒を百に分けたその一つあるだけでも未だ真実の悟りではない。昔の人が簡単に人を許さなかったのはそのためである。もしも真実に悟ったときには、私は悟った、見届けたと思う心念は底を払って一点もないものである。ましてや仏法に関することをしているときは仏法を理解している様子ではあっても、ややもすれば人前に見せれないような見苦しい念慮が浮かび起こるのを、心に問われれば何と答えるか。僧が言うには、私の悟りはすでにはっきりとしています。夢幻や空華(くうげ(三))を打ち破る必要がどこにありましょうか。師が言うには、あなたが本当にそうだと言うのであれば、古人の言葉を見てみなさい。ある僧が尋ねて言った。祖意(祖師の意図するところ)と教意(様々な教えの意図するところ)は同じなのか別なのか、と。ある禅師が答えて言うには、「金鳥東上人皆貴。玉兎西沈仏祖迷。(太陽が東に昇って人はみな貴い。月が西に沈んで仏や祖師は迷う。」と。これはどういうことか。僧は何か動作をしてみせようとする。師が言うには、動作をせず、喝(かつ(四))を使うこともなく、すぐに言ってみよ、すぐに言ってみよ。僧はぐずぐずとまごついた。師が言うには、ぐずぐずすれば棒で六十打つ。すぐに言ってみよ。すぐに言ってみよ。僧は和尚に礼拝した。師が言うには、もしあなたが先に言ったようであれば、この程度の祖師の言葉がどうして難しいだろうか。もし真実に悟ったときには目の前の茶碗を見て何も考えずに茶碗と言うようなもので、扇子を見て扇子と言うように、一切の仏の言葉や祖師の言葉はいっぺんにはっきりとする。あなたは未だ悟っていないのに悟ったと思うことは大きな誤りである。かえって長養の探究について尋ねているが、本当に悟りが完了しているなら、長養の探究をどうして人に尋ね求めるだろうか。自ら知っていることである。これらはみな誤りである。今日から引き下がって、昔の考えを捨て、大疑団(だいぎだん(五))を起こし、深く探究しなさい。たとえ全てが整っているようであってもそれはみな心の知るところであって、真実の悟りではない。真実の悟りは迷いと悟りの二つを無限に離れ、生じる滅する、苦しみ楽しみの二つをさらに無限に離れている。釈迦牟尼世尊が円覚経でお説きになっているが、その心は、たとえ最終的に悟りきり、如来の清浄な涅槃を見届けたとしても、それはみなおのれの執着した姿に過ぎない云々と。このように如来の微細な真実の言葉は、ただただ人に真正の見解を得させたいための大いなる慈悲である。あるいはまた菩薩に十地の階級(六)があり、等覚・妙覚の二つの悟りを越えて仏地(ほとけの境地)に至り、さらにまた仏地をもはるかに乗り越え、限りないところに至ることをお説きになるのも、ただ悟りにことごとく深浅、高下があるからである。臨済和尚の語録の中にも、ことごとく修行しつくすことを述べておられるのをやはりご覧になるがよい。老僧(わし)は幼い頃から禅定三昧でことごとく修行しつくし、その後、諸方を訪ねまわってあらゆる高僧と会い、辛苦を嘗め尽くして今日このようになったのである。言うまでもなく老い衰えた今、さらに後日お会いすることも期待できず、たとえ中身のないまま出てくる者も、実あって出てくる者も、老僧(わし)はただ真実をもって言葉を発するのみ。諸方面に道を学ぶ多くの修行者たちは、昔も今も小さな了解をもってよしとし、古人の残した公案(こうあん(七))をいくらか見るだけで、自分は大悟したと思う。あるいは空寂なところをそれと認めて悟りだと思い、みな小さな見解に腰をかけて動かず、それで事足りたという思いをなして探究をやめてしまう。それだから、器量の大きい人は天下に稀である。昔の人が言うには、大唐国(中国)の中に禅師がいないことを知っているか、と。禅がないとは言わない。ただ師がいないのだ、と。あるいは次のようにも言う。千里を走る名馬は世間に多いとはいっても、名馬を育てるほどの伯楽(はくらく)がいないのを嘆くと。老僧(わし)はむかし十二歳の頃、学問の友であった子が、同い年で驚風(きょうふう(八))の病で一夜のうちに死んでしまった。私はこれを見てから生死が無常であることを感じて寝食が落ち着かず、六日も七日も一室に閉じこもり、そのとき自分で思ったことは、仏道に成仏ということがあるという、まさにこのことを学ばねばならない、と。そのころ羽州高寺(うしゅうたかでら(九))に格外和尚がおられたので、そこに行って剃髪した。その後、ほかの僧から抜隊禅師の法語をもらって、その法語のとおり少しも違わないように探究した。抜隊法語に言うには、ただ何度も悟りをひらくその悟りを打ち捨てて、根に帰り、元に帰って参究をすべきである云々、と。そのとき自分で思ったことは、何度であっても悟り及んだところを打ち捨てて深く参究をするならば、後には必ず大悟徹底のところに至るはずだ、と。このいうところを篤く信じて、それからいよいよ参究に入った。その後、何度ということなく悟るところがあったけれども、ついに参究を緩めることなく、あるいは山に住み、あるいは店に住み、歳月や季節の流れも忘れて座った。その後、越後の国、蒲原(かんばら)郡で亀庵和尚に会ったが、和尚は一度会ってことごとく印可付法(いんかふほう(十))した。このように印可付法にあずかったとはいえ、なおさらに長く仏法を養い、打ち込んで修行をしたが、荒れ狂う馬に鞭を打つようであり、氷が水から生じてそれを越えるかのような思いであった。世尊は、一大事因縁(いちだいじいんねん)とお説きになり、無上の大道とお説きになった。毛ひとすじほども容易なことだと思ってはならない。もしこの一心仏性にここまでが悟りであり、これより他に悟りはないというのであれば、無上の大道とは名付けないだろう。無上とは上がないという意味である。世間の諸道、諸芸のうち、これに並ぶものはなく、これを超えるものはなく、到達するところもまた窮まりがないので、無上の大道と名付けたのである。公案はどれであっても、ただ一つの公案をとり定めて、深く疑いなさい。真実に一つの公案を悟って明らかにすれば、一千七百という公案が一時に見極められるだろう。「一句了然として百億を超ゆ(十一)」と言う。公案の事は、一つの公案を参究してまた別のものに移り、「聞く主」をやめて趙州の「無」に移ったりするときは、心が二方面に分かれてしまい、深い疑いが起こらないものであるから、ただ初めから後々まで一つの公案を深く疑いなさい。愚かな人は笑うであろが、知恵のある人はよく分かっている。仏道の導師となることは、いいかげんなことではない。少しの差があれば天地の隔たりがある(十二)。暗愚な凡夫を導いて成仏の実地に至らせることは、ほんの少しの差でもあるときは、一人の盲人が大勢の盲人を率いて火の燃え盛る穴に入るようなもの。師は針のようだと言うが、針に少しの曲がりがあれば、あとについて行く糸も曲がるようなものである。そもそも仏道の師というのは、自分が生まれる前、自分の本体はどこに、どのようにしてあったのか、死んだ後、自分のこの本体はどこにどのようにしてあるのか、釈尊がこの世に出られた時は、自分の本体はどこにあったのか、釈尊は今、どこにおいでなのか、そのほか過去七仏を始め、達磨大師および臨済禅師そのほかの祖師方や菩薩、あるいは孔子、あるいは天照大神、あるいは文武無双の賢人たち、そのほか父母兄弟、自分や他人の親族友人まで、生まれる前死んだ後、どこにどのようになって落ち居るのかと、手の中のものを見るかのようにはっきりと見通さなければ、本当の仏道の師ではない。もしこのようでなければ、生死に自在を得た大解脱の人とは言わない。このように、老僧(わし)の幼年時代の初心のことまでお話するのも、ただ人に真実の修行をしてほしいためである。あなたも綿密の上にも綿密に参究をなされよ。

 

(一)個事(こじ):このこと、の意。もっとも身近で端的な真実。己事と書く場合も多い。この場合は己の真実といった意味が前面に出るか。

(二)聖胎長養(せいたいちょうよう):悟りを開いた後に、正念を存続して法を養うこと。

(三)空華(くうげ):目の悪い人が空中に花を見るように、実体のないものを実体があるものとみることを譬えて言う。

(四)喝(かつ):大声をあげること。臨済禅師が仏法を示す手段として用いてから臨済宗で一般的になった。

(五)大疑団(だいぎだん):深い疑いの心。

(六)階級:菩薩の階級は各経で説かれるが、ここでは『菩薩瓔珞本業経』などに説かれるもので、十信・十住・十行・十回向・十地・等覚・妙覚を言う。

(七)公案:禅僧等の言葉や逸話を参究の手がかりとするもの。

(八)驚風:漢方医療で、ひきつけを起こす小児の病の総称。

(九)羽州高寺:羽州は旧出羽国の別称、現在の山形県秋田県の一部。

(十)印可付法:師が修行者に修行が成就したことを認め、仏法を伝えて、さらに広めることを委嘱すること。

(十一)一句了然として百億を超ゆ:六祖慧能禅師の法を継ぐ永嘉禅師の『証道歌』にある言葉。

(十二)少しの・・・:「毫厘(ごうり)も差あれば天地懸隔」は中国三祖僧璨禅師『信心銘』にある言葉。

澤水禅師仮名法語(八)

十 悟りに賢愚の違いはないことを示す事。

 

 一人の男がやってきて尋ねて言うには、自性(じしょう、自分の本性)を明らかにするという事は、賢い人であれば、教えを待たずに明らかにできるでしょう。私らのような愚かな者は、たいへん難しいのではないですか。師が言われるには、自心を悟ることは、賢いことに依ってではなく、また愚かなことに依ってでもない。学があることに依ってでもなく、学がないことによってでもない。ただ信じることが深いならば、賢愚ともに悟ることは速いのである。むかし、諸葛孔明は、その才能が三国(インド、中国、日本)にとどろき、その名は世代を超えて伝えられたとはいえ、ただたやすく軍を出し、謀略をもって人を亡き者にすることだけを知っていたのであり、この一心に不生不滅の大事があることを知らず、いまだ賢者ということはできない。このことで知ることができるだろう。賢い人とはいっても、知らないことは成就しない(一)ものであることを。そのほか、外国の歴代王朝のさまざまな人士は、いずれも聡明で世にまれな才能をもっていたといっても、自己の明徳(めいとく)を明らかにして(二)儒教の術をもっぱらとする人はまれである。これはただ、儒教の優れた師に逢っていないからなのである。

 

(一)知らないことは・・・:原文は「知らざることはなかりたきことを」となっているが、「なかりたき」は「なりかたき」の誤植とみる。

(二)明徳を明らかにして:儒教の『大学』冒頭に出る「大学の道は明徳を明らかにするにあり。」から。

 

十一 尋ねて来た男に示す事。

 

 一人の男がやってきて師に考えを示して言うには、今の人生で嘘も言わず、殺生をせず、無法なことをせず、盗む心もなければ、後の世を願ったり、また信心や探究をしたりするにも及ばないのであろうか。師が言われるには、世間で悪いことをしない人はあっても、悪業を免れた人は非常に少ない。それだから言えることがある。悟りのまえの善悪は善悪ともに善であり、迷いのまえの善悪は善悪ともに悪である、と。あなたが言うような見方は、細かい違いや深浅はあるが、無事甲裡(ぶじこうり(一))の見解というものに属していて、これまた一つの大病であって、道の達人に尋ねないことからくる誤りである。昔、子路がまだ孔子と会わなかったとき、生まれつき人情に厚く、郷里ではとても優れていた。ある人が子路に言うには、師について学んだらどうか、と。子路が言うには、自分はどうして師について学ぶ必要があるだろうか。道理に反することはなく、慈愛の心がないわけではない。ある人がこのことを孔子に告げた。孔子が言うには、子路のような者は、たとえるなら山中の真っすぐな竹のようなものだ。これはただ山中の美しい竹であるだけで、他人の役に立つことはない。もしこの竹を使って矢師に矢を作らせれば、筈(はず、弦にかませる部分)を付け、矢羽根をこしらえて、空を駆け抜ける能力を持ち、国家の役に立つであろう。子路のような者はこれに似ている、と。子路はこの言葉を聞き、驚いて孔子について学ぶことになった聞く。老僧(わし)は詳しいことは忘れてしまったが、今は大略を語るまでである。子路でさえなおこのようなのである。聖人孔子の言葉は仰ぎみなければならない。子路のように直ちに志を改め、まことの道に入らねばならないのである。

 

(一)無事甲裡(ぶじこうり):無事甲裏とも書く。何事もないという甲羅に閉じこもる弊害を言う。

 

十二 疑団(ぎだん(一))を工夫(探究)することを示すこと。

 

 ある人が来て工夫(探究)ということを尋ねた。師が示して言うには、工夫(探究)は声を聞いている主(ぬし)は何かと疑いなさい。これは昔、観音菩薩がなさった聴法底(ちょうぼうてい)の信心である。首楞厳経(しゅりょうごんきょう)に出ている。たった今、あらゆる声(音)を聞いているのは、たしかに聞いている主(ぬし)があるからである。耳で声を聞くとはいっても、耳の穴が聞く主ではなく、耳はただ声を聞く道具であるだけで、耳のほかに声を聞く主が確かにあるのである。もし耳の穴が声を聞くのであれば、死人も声を聞くはずだが、死人には耳はあっても、声を聞くことはできない。このことで、耳はただ声を聞く道具であって、耳のほかに聞く主があることを知らねばならない。日頃、声が聞こえるときも聞こえないときも、聞く主は何ものであるかと繰り返し振り返って深く疑いなさい。口で唱えるということではない。さまざまな分別や妄想が起こっても、少しもお構いなく、ただ深く疑いなさい。一身の力を尽くし、先のことをあてにせず、悟ろうとも思わず、悟るまいとも思わず、小さい子どもの心持ちのように、いよいよ深く疑いなさい。またさまざまな妄想が少しでも生じるときは、これは工夫の疑いが弱いからであると心得て、いよいよ深く疑いなさい。どれほど深く疑っても、聞く主は知ることができないものである。知ることができない所について、この時、いよいよ深く押し極めなさい。抜隊(ばっすい)禅師の法語に言うには、思案がまったく絶え果ててしまい、どうにもしようがない所、これはよい工夫なのであると云々。前後左右をかえりみず、一心不乱になり、そこにわが身のあることを知らず、完全な死人のようになって、深く疑いなさい。だんだんに深く工夫をして、茫然となることがある。この時にまた、聞く主は何者かと大いなる疑いを起こし、全身に汗が流れ、まったくの死人のようにいよいよ深く疑いなさい。のちのちには、まったくの死人だということも知らず、大いなる疑いを工夫するということもわからず、全身が大疑団となっているうちに、大いなる夢が覚めるように、死に果てたものが急に生き返るように、忽然として大悟という所に超えて出る。このように大いなる疑いを起こして工夫をするならば、道を悟り、見性(けんしょう、自らの本性見ること)するのに、どうして時刻を数え、歳月を積む必要があろうか。眠りながらの工夫、なぐさみがてらの工夫をし、分別や頭の理解で見性を求めれば、あたかも木に登って魚を得ようとするようなものである。ほんの少しでも自分の情や思念を加えて見性を求めれば、東に行かねばならない者が西に行くようなものである。工夫に大いなる疑いが無ければ、坐禅して百年、千年を経ても悟りおわる日はないだろう。しかしもし先に言ったように大いなる疑いの念を起こして工夫を行うなら、一夜でも悟り、一時や半時でも悟るだろう。昔の人は十歳で悟った人もあり、十三歳十四歳あるいは十五歳十六歳の女子ですら悟った例は少なくはない。まして血気盛んで勇壮な人はなおさらである。諸方に道を学びにゆく人たちが、純粋、誠実に仏道を学んでいるといえども、しばしば竜頭蛇尾となってしまうのは、この工夫にも、どれほど工夫をすれば悟るという限定があることを聞かないからである。この工夫にも確かに限定があるのである。工夫の限定というのは、大いなる疑いの一念を、底に徹するほど工夫したときには、百人は百人ともに大いなる悟りをひらき、千人は千人ともに大いなる悟りをひらくということである。師は払子(ほっす(二))を立てて言うには「分かるか?」。元来大道は工夫や修行の力を借りるものではない。もしまだ分からないのであれば、下がって大いなる工夫をしなさい。

 

(一)疑団:容易に解決できない疑い、凝り固まった疑念のこと。大疑団ともいう。

(二)払子:動物の毛や麻・綿などを束ねて柄を付けた法具で僧侶がもつ。もともと誇りや虫などを払う道具だったという。

 

 

澤水禅師仮名法語(七)

九 誰でもに三つの大事があることを示す事。

 

 師がある日、示して言うには、人々に備わっている三つの大事(大切な事)がある。いわゆる生の大事と死の大事と、一大事因縁の大事である。この三つの大事は、人々が知らずにいることはできないものである。どれほど賢くて道理に達し、利発な人でも、見たり聞いたりしないことには、成りがたいものである。みなさん眠りをさけて、心を静めて確かにお聞きなさい。生の大事というのは、生は生まれると読む、誰でも今日このように生れ出たといっても、生まれる前のことは知恵分別をもっても知りがたく、学問による理解や才覚でもはっきりとは分からない。自分のこの本体が出生する以前は、どこにあって、どのような形であったやら、釈尊がこの世に出られた時には、どこにいたのやら、その前の七仏(一)の時にはどこにいたのやら、さてさて何を手掛かりにしてしればよいのかすべもなく、学問でも思索でも及び難いところである。これを生の大事と言う。次の死の大事とは、誰でもこのように生れ出て、百年千年生きるつもりでいても、この身が仮のものであることは、夢のごとく、空花(くうげ(二))に似ていて、裕福かどうかを選ばす、老いているか若いかを選ばず、今日はこの世にあるといっても明日はなく、旅人が進んでは休み、休んでは進むようなもので、少しもとどまることはない。昔、名をはせた大将たちは、各所に城を築いて万物が栄えた。赤い楼閣や青い御殿に立派さ美しさを極め、勇ましく強い兵士が優れた馬を連ねて銀の鞍を輝かし、広く学問を修めた秀才たちが栄誉を争い、名誉を求める。しかし、今は赤い楼閣や青い御殿もなく、勇ましく強い兵士も今は白骨となり、白骨もついには土となってしまう。この世界が仮のものであることは、あらゆる物事、すべての人々にとってこのようなものである。金剛経に言うように、一切の有為(うい)の法(三)は夢のごとく、幻のごとく、水の泡や影のごとく、露のごとく、また雷のごとし。まさにこのように世間を観なさいとさまざまにお説きになるので、人々はこの世が仮のものであることを譬えようもなく、昔の人も蝸牛の角の上でいったい何を争い、何を論じるのかと言った。蝸牛とはかたつむりのことである。人々がこの世界に住んでいるのは、かたつむりが少し角を出した所に住んでいるようなものだと譬えたのである。このように仮の所に少しの間に居住していながら、いったい何を争い、何を論じるというのか、というのである。そうしてまた、このように仮のものであって、天地のあいだに誰一人として死なない者はいない。死んで後、どこにどのようになって落ち行くのか、このことは学問でも分別や才覚でも及び難いところである。これを死の大事と言う。次に一大事因縁の大事とは、今述べたようにこの身は仮のもので、幻のごとく夢のごとく、誰でも白骨となり、白骨もついには土となって消えてしまうとみる中で、一つの頼りになることがある。誰でもに備わって、万劫億劫(四)を経ても生滅とは関係なく、火に入っても焼けず、水に入っても溺れず、減りもせず増しもしない、一心仏性の一大事は、身分の高い低い、男女の違いに関係なく、草木や瓦、石ころに到るまで、あらゆるところに通貫している。この誰でもに備わる一心仏性は、いまだ天地も開けない以前から今に至るまで、移り変わる様子もなく、未来永劫、天地の外まで通貫して、明々歴然として昼夜の区別もなく、十方大千世界(五)に堂々としている。この一心仏性は、昔の釈尊達磨大師にも、今の凡夫衆生(六)にも、濃い薄いの違いなく等しく備わっている。昔の仏性は、そのまま今の仏性である。今の誰でもの一心は、そのまま昔の釈尊達磨大師に備わっている一心である。「法に二法なく、仏に二仏なし(真理に二つはなく、仏に二つはない)」というのは、この意味である。これを一大事因縁の大事と言うのである。誰でものこの一心には本来名前がないのであるが、しいて名を付けて、衆生に説いて聞かせる時、一大事因縁と名付け、心法と名付け、仏と名付け、禅と名付け、真如法界と名付け、円覚(えんがく)と名付けて円覚経を説き、妙法と名付けて法華経をお説きになった。そのほか、この一心の別の名は無数にあって数えきれない。儒教では明徳(めいとく)と名付け、あるいは天理、あるいは至善、あるいは天命と名付けている。神道では神と名付け、霊(みたま)と名付け、心と名付けている。そのほか、書物により場所によって名前の違いはあっても、ただ一つのものである。世間ではしばしば文字が変わり名目が変わり、読み方が変わればそのもの自体もまた変わるように思っているのは、大きな間違いである。常日頃工夫(くふう:探究)してよくこの一心を明らかにして、天地と自分が一体のところに到達するのを成仏と名付け、出世間の(俗世を離れた)聖人と言い、大菩薩と言い、極楽往生と言い、娑婆即寂光土と言い、智識と言い、如来と言い、道人と言い、法界三昧と言うのである。そのほか、悟りの名前も数え上げるいとまがなく、老僧(わし)はただおよそのところを挙げるだけである。如来と言い、菩薩というのは梵語(七)である。特別に思ってはならない。だた悟り終わった人の名前である。どの宗、どの道でも、この一心を根本の極意として、種々まちまちの教えがある。それらはただこの一心を明らかにするための階段である。昔の人が言うように、書籍に記すこともただ道に入らせようとするためである。文字などに書くのもただ道に入らせようとするためである、と。名号や題目を唱え、お経を唱えたり写経したりする方便は、この一心仏性の道理を優れた師から聞く縁もなく、たまたま耳にすることができたとしても、よく理解することのできない人のために設けたのであり、有難い因縁である。そのようにまず名号や写経などの方便で次第に善い成果に近づき、心もやわらいで、因縁や時節の到来によって直接示される本来の真理に到達すれば、諸仏の大誓願にそむかない人となる。もしまた真偽や邪正を知らずに用いるなら、諸仏の大悲から漏れる人となってしまう。仏道の本来の真理は、じかに一心を明らかにして、生きながら成仏を遂げることである。天台宗に止観ということがあり、真言宗に阿字観ということがあり、浄土に一法句あるいは己心の弥陀(こしんのみだ(八))、唯心の浄土ということがある。法華経に禅定のことが詳しく書かれているし、儒教にも静坐の工夫があり、神道にも静心(しずこころ)ということがあり、そのほか、医道や算術、歌道、剣術に到るまで、すべて根元の探究というものを備えている。書により宗によって、その名前はそれぞれ変わるといっても、ただ自性(自分の本性)を明らかにする修行の名前なのである。文字や名目にとらわれて、本分を失ってはならない。

 

(一)七仏:過去七仏釈尊を含め、過去に七人の仏が世に現れたとされる。

(二)空花:病んだ目で虚空を見て花があるように見ること。

(三)有為の法:因縁によって作られたもの、の意。

(四)劫(ごう):古代インドの時間の単位で一番大きいもの。

(五)十方大千世界(じっぽう、だいせんせかい):十方は八方位に上下を加えたもので全方位を表す。大千世界(ないし沙界(しゃかい))は、古代仏教の世界観で無数の世界。

(六)凡夫衆生(ぼんぷしゅじょう):凡夫は悟りの知恵の劣った者。衆生はいきるものすべて。

(七)梵語(ぼんご):古代インドの文語でサンスクリット語のこと。

(八)己心の弥陀(こしんのみだ):自分の心という阿弥陀

澤水禅師仮名法語(六)

八 日蓮宗の信士(しんじ(1))に示すこと

 

 一人の信士がやってきて、師に心情を呈して言うには、私の先祖は代々日蓮宗で、私の宗の道者(どうじゃ(2))から妙観(みょうかん(3))のことを聞き、よくよく心に念じてみたが、いまだに何の効果もなく、かえって思うには、題目を唱えることに利益があるだろうと。お慈悲により詳しくお示し願いたい。師が言われるには、そもそも日蓮宗というのは、もともと天台宗から分かれて、法華経一部を依拠すべきお経とする最も大乗の宗門である。法華経の教えのように信心するならば、釈尊の本懐にかない、大乗の優れた経典の最も肝要なところに到達する。妙法蓮華経というのは、別のことではなく、人々の一心の名前である。本来この一心には、名もなく字もなく、過去の久遠の昔より変化する様子もなく、明々歴々として、時代や仏と衆生の区別もないといっても、凡夫(ぼんぷ)はそれを知らずに自分を見失い、外に仏を求め法(真理)を求めるので、釈尊はしいてこの一心に「妙法」と名を付け、「蓮華」と名指して法華経をお説きになったのである。また、しいて「阿弥陀」と名付け、阿弥陀経をお説きになった。名や字にとらわれてそれを真実だとしてはいけない、ただその本体を知るべきである。その本体はまったく他から得るものではなく、遠いところにあるものでもなく、ただいま手を動かし、足を動かす体、これは何者であるか。これはそのまま人々に備わっている妙法であり蓮華であり、一乗の法(4)である。このほかに仏を求め、仏法を修行する人を、釈尊は、迷っている凡夫とおしかりになり、あるいは長者の窮子(ぐうじ(5))に譬えられた。法華経の教えのように、よくよく信心をするなら、人々は妙法の全体に至るのである。妙法の全体に確かに至るならば、禅宗の全体に至り、浄土宗の極意に至り、天台や真言やそのほか諸道の全体に一時に至ることは、自分の手のひらを指すより容易である。提婆品(だいばぼん)に、八歳の龍女が深く禅定に入って諸法を解脱した云々とあるのは、どんな道理なのか。深く禅定に入って諸法を解脱するというのは、深く妙観を行って一心を悟ったということである。禅定といい、妙観といい、坐禅といい、観法といい、すべて等しく探究の名である。深く禅定に入って自心に到達しなければ、この意味も理解できないものである。八歳の龍女すら悟ったのである。いわんや人においておや。さまざまなお経、さまざまな宗派と数々分かれて多いとはいっても、その根源を尋ねるときは、この一心よりほかに法もなく、仏もない。それゆえ法華経の中に、「十方浄土中。唯有一乗法。無二亦無三。」とお説きになる。十方浄土中というのは、細かに説明すれば長くなってしまうので、今略して言おう。十方浄土中というのは、天竺(インド)、大唐(中国)は言うに及ばず、果てしない無数の島々、天の外地の外までも一まとめにして言う言葉である。唯有一乗法とは、ただ一乗の法のみありということである。無二亦無三とは、二もなく又三もないということである。このように、この世界全体は広いといっても、法というものは、ただ一つあってほかに二三はないということである。法というのは、これすなわち心法である。心法というのは、人々の一心の真実である。この心法は、昔の釈尊にも今の凡夫にも、等しく備わっていて差別はない。この心法の一というものが、過去七仏(6)にも、達磨大師にも、日蓮上人にも、法然上人にも、禅宗にも、真言にも、草木や馬牛に至るまで、すべてにおし渡っているのである。このことによって悟るのであるから、衆生すなわち仏なりというのである。よくこの道理をわきまえて、深く信心しなさい。儒教でも、天地の間に色や形のある物には、性というものが一々備わっていることを説いている。医学の道でも、「三才は蓋し一気なり(天地人というのは一気のことである)」と言っている。これで知りなさい。聖人賢人や仏祖いずれもその根源を同じくし、ほかの事ではないということを。信心探究のことについて、妙観ももともと同じ一つのものだとはいえ、大いなる疑いの起こしようや、そのほか細かい修練の方法などは、抜隊法語にことごとく叙述なさっているから、詳しくはそれを御覧なさい。

 信士がまた尋ねて言うには上代(昔)の人は素質が優れていて、一心を悟りやすく、今のような末世の凡夫では難しいとうかがいますが、このことはいかがでしょうか、と。師がおっしゃるには、この一心を悟る探究、修行は、ただ末世の凡夫、迷っている凡夫だけが行うべき探究、修行なのである。さまざまなお経は、凡夫のため、末世のためだけにお説きになっているのである。この道理は、釈尊が直接、お経の中にお説きになっている。さまざまなお経は仏のためにお説きになっているのではない。仏はすでに悟って成仏しているので、信心や探究をしてどうしようか。もし末世の凡夫は悟ることが難しいというのであれば、法華経をはじめさまざまなお経はすべて偽りであろう。さまざまなお経が偽りでないのであれば、それは一切のお経をことごとく打ち壊すことになる。そのように仏法をそしる罪ははかり知れないものである。上代といえども、火は熱く、末世といえども水は冷たく、昔といえども天は高く、末世といえども太陽や月は地には落ちない。これらで知るべきである。昔も末世も差別がないことを。ただ、大乗の教えのように、善き指導者の教えに少しもそむくことなく、深く探究をするならば、百人は百人ともに悟ることは速いのである。直接この一心を指して、仏とも仏法とも言うのである。どこに難しいことがあろうか。法華経に言うには、「彼の久遠を観ずるに、猶今日の如し(7)」と。また、このことで知るべきである。昔と末世の区別はないことを。上代とか末世とかいうのは、お釈迦さまが世を去られてから近いか遠いかで、仮に上代末世と言ったのであるが、この一心仏性においては、正法像法だの末世だのということは毛頭ないのである。それゆえに古人が言うには、「悟っていない人に知られているお経の文句は一句もあるはずがない」と。よくよく思ってみよ。

 

(1)信士:日蓮宗法号(仏教信徒の尊称)の一つ。女性は信女(しんにょ)。

(2)道者:仏道を収めた人。

(3)妙観:ここでは妙法蓮華経の「妙」字に意識を集中する修行法を言うか。詳細は不明。

(4)一乗の法:乗は乗り物を意味する。一乗は衆生を悟りに導くための唯一の道のこと。特に法華経を指すことがある。

(5)長者の窮子:法華経、信解品(しんげぼん)に説かれる長者窮子のたとえ。幼いころに家を出て今は困窮している子を長者の父が見つけ、次第に家になじませて最後は実子であることを告げるまでに至る。仏が衆生を導く慈悲をたとえたもの。

(6)過去七仏(かこしちぶつ):釈尊以前に世に現れたとされる七人の仏のこと。

(7)彼の久遠を観ずるに、猶今日の如し:化城喩品に出る。「無限の過去に成仏したというかの大通智勝仏がそれほど遠い過去に成仏したことは、あたかも今日のようである。」

 

澤水禅師仮名法語(五)

六 平常三昧(1)を示すこと

 

 ある僧が、訪問してきて尋ねて言うには、「和尚さん、常日頃、晴天白日のようですか、どうですか」と。師が言われるには、「維摩経にあるように、真実はたとえることができない云々と。この仏性は、白日のようだ、晴天のようだと、本当にたとえることはできないのである。」この僧はまた尋ねた「和尚は、常日頃、工夫(探究)をされていますか、それともされずにおられますか。」師がおっしゃるには、「悟り終わってすっかり明らかなときは、今は探究をするときであるとか、今はしないときであるとかの差別はない。平日三昧であって、甚深微妙(じんじんみみょう)(2)である。」僧がまた尋ねた。「和尚さんは、平日、眠るときと、眠らないときと一味(いちみ、違いがない)ですか。」師がおっしゃるには、「眠っているのと目覚めているのと違いはない。ほかの人の目には、私が今眠っていると見えていても、眠るというのは元来眠るのではない。ほかの人の目には、私が今動いて働いていると見えていても、動くというのは元来動くのではない。このようなところに至っては、非常に深い眠りのうちに目覚めた動きの全体があり、目覚めた動きのなかに非常に深い眠りの全体がある。甚深であること、このようである。あなたも、動き回らずにしっかりと探究をなされよ。御覧なさい、道元禅師の法語にもあるではないか、皮肉骨髄、人のすべては結局死なないことを知るだろうと。往々にして、みなこの自性には生滅(生まれたり消滅したり)がないといっても、この身には生滅があるように思っているが大変な誤りである。元来、この身にも髪の毛一筋ほども生滅の姿はなく、動静の姿もない。幸いなことに、あなたは道元禅師の流れを汲む方ではないですか、猛烈に修行に邁進しなさい。」

 

(1)三昧(さんまい、ざんまい):サンスクリット語のサマーディを音訳したもの。精神が乱れず、統一された状態を指す。三摩地などとも訳される。

(2)甚深微妙:はなはだ深く、見極めがたく素晴らしい様子。

 

七 人として道というものが無くてはならないことを示すこと

 

 師はある日、みんなに示して次のようにおっしゃった。春も過ぎ、夏も終わり、秋も半ばになって、今日は八月十二日となった。このように春夏秋冬、時々刻々に時が移って、光陰(時)は一瞬も人を待たず、けっして油断があってはならないことである。元来、光陰(時)と人の身とは一味一体のもので、春夏秋冬だけが移り行くものではない。人々の命もまた一日一日と移ってゆき、一日過ぎれば一生の寿命が一日分減少し、一月過ぎれば一生の寿命の一月分減少する。それゆえに梵網経に言うには、人の命が無常であることは、山の水が透き通っているよりも明らかである。今日はあるといっても明日はまたこれを保つことが難しい云々と。こういったことを百回も千回も耳で聞いて口では言っても、本当に自分の身の上のこととは思わず、あるいは本の中のことのように思い、あるいは昔のことのように思い、あるいは他人のことのように思っている。みなさんも常日頃ご覧になるでしょう。雨の日風の日をえらばず、寒い日熱い日を選ばず、年取った者も若者も、身分のある者もない者も入り混じって、焼き場の煙が絶える間もなく、寺々の墓地に埋めた土の乾く間もない。このように誰もが無常であって、一人として残るものはない。それだから、昔から儒教はずっと人道を教え、仏道があって解脱を導き、神道があってさまざまな道を尽くすようにさせ、さまざまな道が起こって来たことは、まったく無意味なことではない。どこからでもその道に入って、その祖師や師匠の教えに従って、少しでも自分の分別を交えることなく、ぜひとも道の修行をすべきである。人として道というものが無くてはならない。ただ毎日、食べて世渡りだけに深く心を配り、一生を朽ち果てることは、惜しむべきことである。虫のたぐい、鳥のたぐいも、日々、西に飛び、東にかけることは、結局何のためであるか。ただ食べ物を求め、妻子を求め、住居を求める心があるだけである。鳥のたぐい、虫のたぐいでも、その日を過ごすことについては、すでに自在に行っている。人間がどうしてそのまねをしてよいというのか。たまたま人間として世に生まれ、慈悲の心や善悪をわきまえるようになったのであるから、もっぱら心地(しんじ)の修行をして、安穏な解脱を得ることこそ、人に生まれたかいがあるというもので、これに越した喜びはないのである。心地の修行というのは、常日頃、坐禅探究をして、真実に自分の心というものを明らかにして成仏を得ることをいうのである。大乗仏教の説に至っては、死後の成仏のことは一句もまったくお説きにはなっておられない。この身が丈夫で、気持ちよく食事ができている間に、深く信心し、修行して、生きながら成仏をとげることだけをお説きになっている。これはそのまま仏法の真実の説であり、成仏の近道であって、少しも方便を用いず、私が常日頃言っていることは、大乗のうちでのさらに大乗、最上乗の本来の仏法なのである。直接釈尊にお会いして、成仏する本来の仏法を尋ねたとしても、釈尊といえども、このほかに一句もお説きになることはないだろう。仏法だけではなく、儒教にも静坐の探究ということがある。神道にも静心(しずこころ)ということがある。また安座探究があり、そのほかにも医道や軍術に至るまで、いずれも一心をもって極致として、それぞれに探究があり、ただその書物により、場所によってその名前が変わるといっても、まったく別のことではない。それだから孔子も智行の二つを説き、智があっても行がないときは鳥の片方の羽がないようなものだと。また孔子が十哲(優れた十人の弟子)を評価して、彼は礼の道にかなってはいるがまだ義を尽くしてはいない、と。このように自分の門下を責められたことは、結局どういうことなのか。あるいは、神道の書物の肝要な言葉に言うところでは、一心の定まる筋道が明らかになれば、それで天命にかなうと。また言うには、人は天の下の神である。あるいはまた天地の神と同根なりと。天地の神と同根であるから、万物の霊と同体である。あるいは六根清浄の道理、つまり眼根清浄、耳根清浄、鼻根清浄、舌根清浄、身根清浄、意根清浄というのは、これまたどういうことなのか。実際にそのようなところに至ろうと思うならば、ぜひともつねに心地の探究をせねばならない。もしよく右のごとく六根清浄であることを得るなら、神道の者は天照大神の本来のお気持ちにかない、儒教の者は孔子の本懐に合致し、仏者は釈尊の直指(じきし、直接お示しになったこと)に達するだろう。探究や信心のことを、それぞれの職業や世渡りのことをやめて、格別にせよと言っているのではなく、渡世の中から信心をして、信心の中から渡世を営むのである。人の社会では鳥や家畜のように裸でいるわけにもいかず、各自にふさわしい着物や、各自にふさわしい住居や、各自にふさわしい費用もなければならないだろう。このように、内外において不足や行き過ぎがないようにして心地の探究をするならば、まことに人に生まれたかいがあって、神仏や聖賢の教えに背かない人といえる。

 

 

 

澤水禅師仮名法語(四)

四 お経の中の優れた言葉を示すこと

 

 師はある夕方、集まった人たちに示して言った。如来がお経の中でおっしゃっているが、世界というのは、世界ではなく、これを世界と名付ける(1)と云々。師はまた感嘆して言うには、この意味は非常に深く、言葉に言い表せないものである。知る人がいないのは惜しい事だ。禅者のみなさん、怠りなく大いに探究しなさい。真実に自分の本性を明らかにしたときには、これらの優れた言葉は手のひらの内を見るかのように明らかに分かるのです。世界というのは、世界ではなく、これを世界と名付けると、これははなはだ深いのです。臨済禅師が言うには、「私の見るところでは、釈迦と別物ではない」と。真実に悟るときは、如来とほんの少しの差異もない。生死事大、無常迅速(生死のことは重大であり、無常は迅速にくる)です。綿密の上にも綿密に探究しなさい。

 

(1)金剛般若経を指すと思われる。

 

五 学びに来た人に示す事

 

 一人の僧がやって来て、教えを求めた。師は示して言った。そもそも出家というのは、元来重い役人である。そういうわけは、出家という二字の意味が、三毒(1)や無明(むみょう(2))の家を出離することを言うのである。無明の家を出離して、仏や祖師の知恵の命脈をつなぎ、一切の衆生を導いて成仏の現場へ至らしめる役人なのである。そうであるから、はじめから父母に仕えることなく、報酬を求めることなく、田畑を耕作することなく、売り買いに心をとめず、ただ頭陀(ずだ(3))の境地で、心地(しんじ(4))の修行に専念するのが出家なのである。若い頃か年をとってからかは区別なく、頭髪をそり落とすやいなや、心の中の計り知れない貪りの心、憎しみや愛、怨恨など、俗人のときの心をすべてそり落として、もっぱら探究の心となり、各地を巡って修行し、優れた指導者たちを訪ねて仏法を問い尋ね、自分の一心を仏や祖師のように究明して、仏や祖師に代わって一切の衆生を救うための大いなる役人なのである。それゆえに、釈尊はお経の中で説いておられる。本当に一心を明らかにしないうちは、寺をも住まいをも定めず、水の上の浮草のように、良い指導者や良い法友を求めよ、もし良い指導者にあったときは、その教えに毛頭そむくことなく、自分の心を先にすることなく、純一に修行せよ、と。釈尊のこのような後の人のための大慈悲の心は、粉骨砕身しても報いるに足りないものである。その他、達磨大師、六祖大師、臨済禅師など、すべて同じである。その流れを汲みながら、暖かな着物を着て、飽きるまで食べ、心地を究明する志がないのはどうしたことか。釈尊は、一心を悟らない僧を、蝙蝠(へんぷく)僧(5)あるいは法賊(仏法泥棒)とお𠮟りになられる。本当に恥ずかしいことではないか。在家の信者といえども、自心を明らかにした人を有髪の僧(髪をそっていない僧)とお褒めになる。女人といえども、悟った人を変成男子(へんじょうなんし)(6)お説きになり、男子といえども、悟らない人を女人とお説きになる。そうであるのに、仏法の衣を身につけ、仏種(ぶっしゅ)(7)と自称して世間中の信仰や布施を受けて、心地の修行はまったくすることがなく、それだけではなく心の中は大きな寺院の住職になることを求め、世間の評判や栄達を求めて空しく月日を送るのは、まさに法賊ではないのか。問答をして意見を交わしたり、さっと詩や文句を言える働きは、臨済禅師や徳山禅師をあざむくほどすばらしくても、かえってその心のうちを探ってみれば、色欲に溺れ、金銀を求め、美食を貪り、病苦に悩まされ、生を愛し死をいとう。これを出家といってよいものか、これを禅宗と名付けてよいものか。禅とは一心、仏性の名である。もっぱら心地が明瞭であることをもって禅宗と言うのである。昔、禅と律(戒律を中心にする立場)が区別されずにあったときに、百丈禅師(8)が禅と律が混ざり合い、後々禅と教(経典の研究を中心とする立場)や律に落ち込んでしまうことをおそれて、禅という一つの宗派を格別にお立てになったのは、本当に深い意味のあることである。探究は、どの公案であっても、ただ一つの公案を決めて、深く疑いなさい。大いなる疑いのもとに大いなる悟りがある。毛筋一筋ほども自分の分別を加えるならば、坐禅をして百年経過したとしても埒があくことはない。指導者の指示にそむかず、各自が探究するなら、百人、千人といえども悟らない人はいない。もし本当に大いなる悟りを開いた人ならば、直接般若の大いなる知恵に至るのであり、今日いったいどこに欠けることがあって、しいて書物の中に学ぼうというのか。老僧(わたくし)は、幼い頃から禅定三昧であり、まったく一字一句も学んでいない。そうとはいっても今日、どれほどの雄弁で博学の人が来て朝から晩まで前後左右から難問や難しい文句を問い詰めてきても、老僧は何とも思わないが、これはまたどういう力であるか。老僧は、世間のことは幼い頃から学んではいないが、仏道のことであれば、どれほど高いところ、どれほど深いところであっても問い尋ねてきなさい。どうして僅かでも惜しむことがあろうか。これはまた老僧の手柄ではない。元来出家は、仏や祖師に代わって法柄(ほうえ(9))をとり、仏や祖師の教えのように、後から進む者を救済する導師なのである。誰であれ出家は、そのようでなければならない。老僧はこのように衰えており、明日の命もおぼつかない。ただ真実の心からこのように言うのである。勇猛に全霊で取り組みなさい。

 

(1)三毒三毒煩悩のこと、貪瞋痴(とん、じん、ち)で、むさぼる心、怒り、愚かさの三つの根本的な煩悩。

(2)無明(むみょう):人間が真理に暗いこと。

(3)頭陀(ずだ):サンスクリット語の音写。衣食住に対する煩悩を払って仏道を一心に求めること。

(4)心地(しんじ):心を万物をささえる大地のような存在とする比喩的表現。田地(でんち)などもある。

(5)蝙蝠僧(へんぷくそう):戒律を破る僧侶を蝙蝠(こうもり)に譬えた語。蝙蝠が鳥に似て、鳥でないことから。

(6)変成男子(へんじょうなんし):各種の経典中に、女人は成仏しがたいことが説かれるが、男子に生まれ変わって成仏できるという教え。

(7)仏種:いずれは仏となる前の姿を種に譬えたもの。ここでは人を仏に導く教えや人をさすか。

(8)百丈禅師:百丈懐海(ひゃくじょうえかい、749~814年)禅師。唐代の禅僧。馬祖禅師の法を嗣ぐ。禅寺の生活規律である百丈清規(ひゃくじょうしんぎ)を定める。「一日為さざれば一日食らわず」の語で知られる。

(9)法柄:指導でもちいる竹箆(しっぺい)や払子(ほっす)などの道具をさすか。

澤水禅師仮名法語(三)

三 修験者に示す事

 

 あるとき、修験者が会いに来て尋ねて言った。私は、真言宗の法印(ほういん:最上位の僧)から阿字観(1)の指導を受け、祈念するとき、一心に阿字を念じれば、不動と一体となり、非常な利益があることを伺いました。本当でしょうか、と。師がおっしゃるには、本当です。修験者の家は、元来、もっぱら心地の修行で一派をなしたのであり、非常によい定めです。役小角(えんのおづぬ)居士(2)は、この探求、信心をもっぱら行い、今に至ってその名は日本中に広く知られています。いずれも、その元祖の定め置かれたことは浮薄なことではありません。昨今、ただ祈祷することをその根本と思っているのは間違いです。不動という二字の意味を話しましょう。不動というのは、元来、人々の自らの一心の別名なのです。不動明王を本尊とし、手本として、役の優婆塞(うばそく)(3)の教えのように心地の修行をして、不動と自分とが一体になるための修験者なのです。不動というのは動かないと書きます。何が動かないのか、人々のこの一心が、世間の一切のこだわりに遭遇して少しも動かないことです。貧苦にあっても少しも動かず、富貴にあってもこの一心は少しも動かず、悲しみにあっても少しも動かず、歓びにあっても少しも動かず、色欲にあっても少しも動かず、金銀財宝を見てもこの一心は少しも動かず、大変な病苦にあっても少しも動かず、臨終のときも大安穏にして少しも動かず、このようなところによく到達するのを、そのまま不動明王と言うのです。このようなよく到達した人を成仏と名付け、大善知識(だいぜんちしき)と名付け、如来といい、安養世界(あんようせかい)(4)に生きるともいうのです。このようによく到達した人を儒教では聖人とも君子とも天命に達したとも言います。大乗仏教の説では、直接この一心を明らかにして成仏せよとお説きになります。死後の成仏ということは、まったく一句もお説きにはなりません。役小角居士は徳力のある方であって、その教えはすべて大乗です。あるいは大峰ということがあります。山の名前とばかり理解していてはいけません。『臨終心鑑抄』(5)には、「一乗菩提のおほみねに入りて、まさに大事因縁を知るべし云々」(唯一の真実である仏心の大峰に入って、まさに釈尊が世に出られた深い願を知りなさい等々)とあります。直接、人々の一心を指して「一乗菩提のおほみね」と言っているのです。目に見える姿のある大峰山ということに留まっていてはいけません。そのようにして阿字を探求するなら、阿の一字を大いに疑いなさい。歩く時も疑い、座っていても疑い、寝ても覚めても、平素、深く疑いなさい。探求が突然に破れれば、不動と自分とが二つでないことを知るはずです。このとき初めて、何を名付けて金剛界胎蔵界(こんごうかい、たいぞうかい)(6)と言うのかを知るでしょう。またはやりこの探求や用心のことについては、抜隊法語をご覧なさい。

 

(1)阿字観(あじかん):真言宗で行う修行法で、一切の事物の本源を現わす阿の字に意識を集中させて、一体となること。

(2)役小角:七世紀頃の修験道の開祖とされるが、鬼を使った等の伝承があるがその生涯は未詳。ここでは居士(こじ)すなわち在家の仏教信者と呼ばれている。

(3)優婆塞:在家の男性仏教信者のこと。女性は優婆夷(うばい)。

(4)安養世界:極楽浄土の別名。

(5)『臨終心鑑抄』:類似の題目をもつ著述はいくつかあるが、不詳。

(6)金剛界胎蔵界密教の説く、仏の二種の世界。

澤水禅師仮名法語(二)

二 どのような人も心地の修行をしなければならないことを示す事

 

 ある人が来て尋ねて言うには、仏法の信心のことですが、私は元より武家の家なので、仏法を信じることはふさわしくないはずで、仏法の信心とか坐禅の探求とかは、ただ出家した僧侶だけのことで、在家の俗人が行うというのは理解できないのですが、と。師が言う。それは、仏法という二字の意味を、まだ優れた師から聞かれていないゆえの誤りです。仏法という二字の意味でさえ、容易には知られないものなのです。一切のお経や注釈、諸子百家をことごとく暗記している大学者も知ることは難しい。元来仏法は、分別や学問的理解がよく及ぶところではないからです。ここを教外(きょうげ:教えのほか)の玄旨(げんし:深遠で見えにくい真理)と言うのです。円覚経に言うには、善知識(ぜんちしき:人を導く優れた先達のこと)を求めなさい、善友(ぜんゆう:優れた道の友)を尋ねなさいとあります。学者を尋ねなさいとはお説きになってはいません。たとえ書がうまく、様々なお経をひろく参照し、詩や文章を作ったとしても、知識とは名付けられません。知識というのは、一字一句を学ばなくても、本当に仏陀や祖師方のように一心(いっしん:仏心のこと)を明らかにした人を知識と言うのです。このようなことも、聞いたことがなければ思い違いが多いものです。そうして仏法というのは、身分のある人ない人や男女を問わず、草木や石瓦にいたるまで、それぞれに備わっている仏法であって、出家だけが信じるべきものではありません。たった今、手を動かし足を働かせ、目に色を見、耳に声を聞く、このように私の庵室に来られたり出て行ったりするのも、いったい何の道理でしょうか。これはみな人々に備わっている仏法の霊妙な働きなのです。仏法というのは、人々の一心の名前なのです。一心の名前であるということを知らずに、自分は出家した僧侶ではないから仏法を信じることはできないと言い、あるいは悪口を言ったり憎んだりすれば、それはそのまま自分の一心を嫌い、憎むことに他なりません。これはまったく愚かなことではないですか。もし儒教で仏の悪口を言う人がいるなら、儒教の極意をまだ知らない人です。神道で仏の悪口を言う人は、神道の極意をまだ味わっていない人です。仏教において儒教神道をそしる人がいれば、それは仏法を夢にも知らない仏法者です。仏門のうちで、あれこれの宗論(しゅうろん:仏教各宗の間での論争)を掲げて議論するだけでは足らず、本当に恥ずべきことです。このような次第で、仏法は武家においては武道の極意であり、歌道(かどう:和歌の道)においては歌道の根幹です。そのほかの様々な道や無数の芸でも、その究極に至れば、すべてこの一心におさまるのです。そうして坐禅探求は、しっかりと座って、耳に音を聞いているその主(ぬし)を探求する人は、聞く主を探求し(1)、その他、昔の公案(2)のどれであっても、ただ一つの公案を決めて、道を歩いているときも探求し、寝ても覚めても深く疑いを起こして探求しなさい。探求とか疑団(ぎだん:疑いの塊)というのは、知ることのできない所を深く考えることです。深く考えるところを工夫(くふう:探求すること)とも、坐禅とも疑団とも、観法とも、観念とも、禅定とも思惟とも三昧(さんまい)とも大信心とも、大菩提心ともいうのです。そのほかこの探求を言う別の言い方は数えてあげきれません。坐禅のことは、座っているだけを坐禅とは言いません。行住坐臥いつでも深く公案を疑うのを、真実の坐禅と言うのです。どれほど長く座って横にならず、端正に座っていたとしても、深く疑う心がなければ、坐ではなく、禅ではなく、黙照(もくしょう)(3)の邪禅です。六祖大師(4)いわく、道は心によって悟る、どうして坐にあるだろうか、と。これによって知らねばなりません。坐禅というのは、ただ深く疑わせて自性(じしょう:自己の本性)を悟らせるだけの方便であることを。悟りということは、一心を明らかにすることです。明らかにするというのは、自分の心が明らかになるということです。それゆえに、一心あるものは、一心の修行をしないわけにいきません。武家は武の道で探求し、百姓は耕しながら探求し、身分のある人もない人も男も女も、その仕事をしながら行うべきであるのが仏法の信心なのです。それだから、信心というのはまことの心と書くのです。まことの心になるのが悪いという人は、どんな宗派、どんな道、どんな芸のうちでも一人もいないでしょう。一心を明らかにせず、心が暗く邪で善いという人は、どんな宗派、どんな道、どんな芸のうちでも一人もいないでしょう。これで知らねばなりません。仏法の信心というのは、世間一切の人がすべて行わないわけにいかないものであることを。仏法とは一心の名前です。信心とは自分の一心を信じることです。坐禅の探求は、特別変わったことのように人はみな思うものですが、ただ一心を明らかに磨くための修行です。この探求、信心は、手足を使うこともなく、道具を求めることもなく、ただ意識の中で行う信心ですから、仏法の信心は、数多い中でも第一におこないやすい信心なのです。もし実際に探求し、大いなる疑いが破れ、大悟が開かれるときには、抜澤法語にあるように、一文字も見ずに七千巻以上のお経をすべて読み尽くすことになります。七千巻以上のお経は、ただ少しを説き分けられただけです。儒教の一切の書物や、神道、歌道の書物、あらゆる書籍の本質をことごとく見尽くすはずです。私がこのように言うからといって、少しでも疑いのある人は、実際に大いなる疑いを起こし、即今に自性を見て取って知るがよい。古人が言うように、終日食べても一粒の米を食べず、終日歩いてもほんの少しの土地も踏まないと。本当にこのようなところに至るならば、たとえ百万騎の敵陣にひとりで駆け入ったとしても、前後左右に人ありとも思わないでしょう。何と痛快なことではありませんか。

 

(1)聞く主:臨済禅師が「即今聴法底の人を識取せよ(たった今話を聞いている者が誰かみてとれ)」と言ったことを指す。

(2)公案坐禅探求の手掛かりとする古人の言葉や逸話。

(3)黙照:ただ座っているだけの禅を批判して言う語。

(4)六祖大師:中国の初祖達磨大師から数えて六番目の慧能禅師のこと。

澤水禅師仮名法語(一)

*澤水禅師(たくすいんぜんじ:?-1740?)=臨済宗、澤水長茂(たくすいちょうも)禅師の仮名法語。底本:『禅門法語集 下巻 復刻版」ペリカン社、平成8年補訂版発行〕

*〔 〕底本編者による補足、[ ]はブログ主による補足を表す。

( )付数字はブログ主による注釈。

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仮名法語

 

一 白骨無常を示す事

 

 師はある日、四衆(ししゅう:出家した男女、在家の男女をまとめて言う)に示して言われた。皆さん、この世が仮のものであること、この身が仮のものであることは、夢のようなものであり、水の泡や影のようなものです。出家した僧侶は、夢の中でしばらくのあいだ寺を持ち、在家の人は夢の中でしばらく妻子を持ち、夢の中で様々な苦難を受け、夢の中でしばらくいろいろな歓楽を楽しんでいるようなもの。この世が仮のものであることは、たとえようもなく、言葉でも言い難いことです。この道理をよくよく承知しないうちは、どれほど素質の優れた人でも、仮であることを真実には思い知らないものです。ただ何百年も生き続けるかのように思っています。これによっていろいろな謀(はかりごと)をし、数々の悪心や悪念を増長させます。それは結局、この身が仮のものであることを思わないからなのです。昔も今も、人はみな口では夢の世界だの一生はあっという間だのと言いますが、この身が本当に仮のものであり、賢い人もそうでない人も、貧しい人も裕福な人も、身分の高い人も低い人も、老人も若者も、お互いについには白骨となることを確かにわきまえず、日ごろ慣れ親しんだ道に迷うというのは、この事なのです。ただ毎日の暮らしにだけ深く執着して、この身の仮であることは、一生のうち一日でも一時でも真剣に考えたこともなく、解脱(げだつ:生き死にを超えること)の道があることも知らず、神道の極意はどのようなことか、儒教の極意はどのようなことか、仏法の極意はどのようなことかというようなこともわきまえず、ただ明けても暮れても目の前の事だけを気にかけて、ついには一生の罪業(ざいごう:罪となる行い)を身にまとって、地獄行きの報いを受けることは、世の人みなおしなべてそのようです。この世が仮のものであることは、父母、先生、年長の者といえども一たび時が来れば白骨となり、夫婦の間柄もついには白骨となり、兄弟や友人、親族家族もすべて同様です。早い遅いの別はあっても、一人も残るものはありません。他のことでは当たりはずれがあるでしょうが、白骨となることは一人もはずれはありません。しかも年をとるまで丈夫だという保証もなく、二十歳で死ぬ人もあれば、三十歳で死ぬ人もあり、あるいは三つ四つで死ぬ場合もあり、腹の中でも死ぬ。たとえ七十歳八十歳、あるいは百年二百年、千年二千年長生きしたとしても、ついにはまた白骨となってしまう。この身が仮のものであることは、すべての人にとってこのようなものです。如来がお経の中で老少不定(ろうしょうふてい:年寄が先、若者が後とは決まっていないこと)とお説きになったのは、このことです。金銀や衣服に栄華を極め、一生をかけて蓄え、求めた器物や財宝を孫にゆずり子にゆずるとはいっても、その孫もその子もついには白骨となり、親に先立つ者もあり、子におくれる者もあり、少しの後まで生き永らえたといってもついにはまた一面の白骨となってしまう。このようにこの世が仮のものであることは、今初めてそうある事ではなく、昔から世の常なのである。このような道理は、大涅槃経をはじめ、如来はことごとく説き尽くしておられる。私が個人的に言うことではないのです。たった今にも臨終にいたったとき、いったい何を頼りにすべきか、薬の力も及ばず、仏や神のお力もかなわず、妻子や親族もその苦しみを代わって引き受けることはできず、金銀財宝もこのときにいたっては役に立たず、ただ以前から心にかけていた信心ただ一つが、このときに役に立つのです。常日頃、ただこの身が仮のものであることをよくよくお思いなさい。夜が明け、日が暮れるにつけても、この世は仮の宿だと思い、時を知らせる鐘を聞くにつけても、この世は仮の宿だと思い、老人も若者も互いに死んでいなくなってしまうのを見るにつけても、わが身を思いなさい。今日は人を弔い、明日は人から弔われるのだとよくよく思いなさい。常日頃このようであるなら、無暗に苦しむ心も自然と薄くなり、悪心や悪念も次第にとりのぞかれ、信心の志が日々に深くなるものです。常日頃この身が仮のものであることを思うときは、親不孝の者も自然に孝行の志が起こり、主人に忠実でない者も自然に忠節があるようになるのは、この身も仮、親の身も仮、主君に仕えることも、主従は互いに仮の身だと常々理解しているからです。少しでもこの身が仮のものであることを忘れ、人は皆白骨であることを思わないときは、ただ何万年も生き永らえるもののように心得て、わずかのことに腹をたて、いつまでもいるはずのない親にあたり、自分を忘れて主人に不忠となる。親の顔を見るのもただこれ僅かのあいだ、主君に仕えることもただこれ僅かのあいだ、夫婦の交わりもただこれ僅かのあいだ、兄弟や友人の交わりもただこれ僅かのあいだと、このようにつねづね思うときは、一切が自然と仲睦まじくなるものです。このようにつねづね思うときは、目上を敬う心が自然と出て、目下を憐れむ志が自然に起こるものです。この身が仮のものであるという道理をよくよく納得できたときには、どれほど厳しい奉公や役目も少しも苦にならず、どれほど貧しい世渡りも少しも苦にならないものです。そうして、このように志をもつなかから、心地(しんじ:心の本性を地に譬える)を探求し信心するなら、本当に人間として世に生まれたかいがあって、ほかに残るところもないような事なのです。信心というのは、抜隊(ばっすい)禅師の法語(1)のように探求し信心することです。これは本当に仏法を信心するさまざまな手がかりの中の極意であって、如来が四十九年説法なさった要なのです。また仏法だけではなく、さまざまな道の根本であり奥義なのです。抜隊禅師の法語をよくよくご覧になることです。

 

(1)抜隊禅師の法語:このブログでも現代語訳している(塩山仮名法語)ので参照されたい。澤水禅師は、抜隊禅師の法語の通りに修行をして悟りを開いたと言われている。

 

 

 

月庵禅師仮名法語(十八=終わり)

〇 在家の人に示す

 

 一切の道理は、自分というものがあるときに起こるので、自分を忘れるならば、いったいどんな道理がありましょうか。ただこれ、物事の成り行きに任せ、機縁に従うまでのことです。これは凡人の在り方でも聖人の在り方でもありません。また肯定するのでも否定するのでもありません。自然のままで自由な受け止めであって、どうして善悪を選ぶことがあるでしょうか。それだから「智者は物に任せ、おのれに任さず。愚人はおのれに任せ、物に任さず」とかまた「逆行順行、天も計る事なし(逆らって進んだり、そのまま進んだり、天さえも伺い知ることはない(1)」と言われるのです。もしこのところの道理を信じるなら、見聞きすることはその跡をとどめず、現われたり去ったり、生じたり滅したりすることも結局捉えることはできません。信ずる心が薄いので人に惑わされ、周りの状況に翻弄されて、主となることができません。ややもすれば、数えきれないほどあれこれ思案を起こします。これは実に、愚かに迷った者の虚妄の見解です。支持すべき主張ではありません。きっと身命を惜しまず、全力で取り組みなさい。忽然として大笑いすることがあれば、天地がひっくり返るでしょう。疑ってはなりません。

 

(1)逆行順行・・・:永嘉大師『証道歌』に出る言葉。

 

〇 宰相中将殿の問いに答える

 

 問い。散り散りに乱れ飛ぶような想念が起こる時には、どのように応対すればよいでしょうか。答え。散り散りに乱れ飛ぶ想念というのは、起こる物も、起こす者もありません。ただ眼の病にかかっている人が、空中に花があるように見るようなものです。この花は眼から出たわけでもなく、空中から生じたわけでもなく、ただ眼に病があるから、みだりに空中に花の姿を見るのです。乱れ飛ぶ想念もまたそのようなものです。それゆえに、これを妄見(もうけん、虚妄の見解)といい、あるいは妄想といいます。眼病がなければ妄見はなく、思慮分別がなければ妄想は起こりません。ただ一切の迷って逆転した見解は、虚妄の心が思慮分別することから来ます。虚妄の心が起こらなければ、一切の心境はすべて正真の大道です。このところで即座に徹底しつくせば、あれこれの必要はありません。もしまたそうでなければ、ただ散り散りに乱れ飛ぶ想念のところについて、まっすぐにこれを窮めてみなさい。必ず透脱(とうだつ、束縛を脱すること)する時が来るでしょう。

 

仮名法語 終わり