題しらず
このほどは思ひおりつるぬのひきを
けふたちそめて見にきつるかな
(今回は、前から思いをはせていた布引の滝に、旅立って今日見に来たことだよ。)
きる傘もおへるたきぎもうづもれて
ゆきこそくだれ谷のほそみち
(身に着けている傘も背負っている薪も雪にうずもれて、雪とともに下ってゆく谷の細道であるよ。)
世をそむく後はなかめぬことならば
月にしばしや身ををしままし
(俗世を捨てて出家した後は眺めないというのならば、いま少しのあいだ月を見ることのできる身を惜しめばよいだろうか。)
佛国禅師(1)御詠
(1)底本の頭注では「名は顕日、高峯と号す、後嵯峨天皇の皇子なり。正和中寂す。」とある。
題しらず
この法のうへみぬわしのやまざくら
花をおしへのほかにつたへて
(この真理のさらに上は見ることがない霊鷲山に咲く山桜。花を教えの外に伝えて。[釈尊が霊鷲山で行った拈華微笑によって摩訶迦葉尊者が法を受け継いだことを言ったものであろう。])
いくらか見解(けんげ、仏法の理解)のある僧に読んで与えられたもの、
折りえてもこころゆるすな山さくら
さそふ嵐にちりもこそすれ
(山桜を追って確かに手にしたと思っても油断してはならない。嵐に吹かれて散ってしまうこともあるのだから。)
那須の山中に庵を結んで住まれていた頃、
月はさしくゐなはたたくまきの戸を
あるじかほにもあくるやま風
(月の光が差し込み、水鶏の鳴き声がまるで戸をたたくようだが、主でもあるかのような顔で戸を開ける山風よ。)
ある人が親の百カ日の仏事お呼び申し上げて、お経の講釈があったときに、軒端の梅に鶯がさえずっていたので、思わずお詠みになったもの、
なきひとのひかずもけふはもも千鳥
なくはなみだのはなのした露
(亡くなった人の日数も今日で百日というその百千鳥(いろいろな鳥)が鳴いているのは、桜から涙が滴るように露が落ちていることだ。)
那須の庵で月をご覧になって、
しげりあふみねの椎柴ふきわけて
かぜのいれたる窓のつきかげ
(茂っている峯の椎の木々を風が吹き分けて、窓に月の姿が入っていることだ。)
題しらず
いづる嶺入るやまのはのとをければ
露にやどかるむさし野のつき
(月が出る峯や沈む山の端も遠いので、すぐ近くにある露に姿を映して宿を借りている武蔵野の月よ。)
夜のほどは霜によはりてきりぎりす
日影にとくるつゆになくなり
(夜のうちは霜で弱っているこおろぎが、日が差して露になるころ鳴いているよ。)
本来成仏ということを、
雲晴れてのちのひかりとおもふなよ
もとより空にありあけの月
(雲が晴れてから後の光だと思ってはなるまいよ。ありあけという名の通り、もとから空にある月なのだから。)
ご入滅が近づいて、月をご覧になって、
月ならばをしまれてましやまのはに
かたぶきかかる老のわが身を
(月であったなら惜しまれていたことだろうよ。山の端に傾きかかる月のような老いたわが身であることよ。)
月光、雪に似たりということを、
月かげは木のもとごとにむらきえて
ふむにあとなき庭のしらゆき
(月の光は、木の元ごとに斑に消えて、踏むと跡がない庭の白雪のようだ。)
題しらず
いづくよりつもりし雪ぞひさかたの
くもにあまれるふじのしば山
(いったいどこから積もった雪なのか。雲を超え出る富士の雑木林に。)
鳥に寄せる恋という題に、
わが恋はかりはのきしのくさかくれ
あらはれてなく時しなければ
(私の恋は、狩場の雉が草に隠れているようなものだ。姿を現してそれと声を出す時もないのだから。)
那須の山中に庵を結んで、お住みになっているとき、
われだにもせはしとおもふ柴の庵に
なかはさしいる嶺のしらくも
(自分だけでも狭いと思うこの粗末な庵に、峯をはう白雲がなかば差し入ってくることだ。)
建長寺の長老に、西勝園寺の禅門(北条貞時)から招かれたが、お断りになって、
かくていまおもひ入江の身をつくし
世にさしいでて何にかはせん
(このようにして今、思いつめて山に入っているこの身の、入江の澪標(みおつくし)のように身を尽くして世間に出ていったいどうしようというのでしょうか。)
あまりに頻繁に招かれなさったので、住まわれて後にお読みになったもの、
そま山を出でずばいかでまきはしら
ひとをわたせる橋とならまし
(立派な材木も切り出す山を出なければ、どうして人を渡す橋となれるだろうか。)
題しらず
かりそめの夢をまこととおもひつつ
かしこかほなる人ぞはかなき
(かりそめの夢を本当のことと思い、賢そうな顔をしている人はとても情けないものであるよ。)
よしあしのこころもなくて見る時は
この身はもとの姿なりけり
(良し悪しの心を持たずに見る時は、この身はもとの姿であることだ。)
廣天巌[不詳]が仏法の理解を得られたとき、お詠みなって与えられた、
のごころのまだやはらがぬ牛を得て
うちたゆむなよまきのふるふち
(野にいる頃の心がまだ和らがない牛を得て、打つことを怠ってはならないぞ、牧場の古い鞭(むち)よ。[仏道に初めて入って仏法のありかを見定めても、まだ俗心が残るものであるから、自らを鞭うつ修行を怠ってはならないぞ])