拾遺
一
あるとき念仏や誦経をする信者が師のお示しを聞いて座禅探究の修行に進んだのであるが、この信者がやってきて、師に申し上げたことには、先日より和尚の有難いお示しに従って探究をしておりますが、ややもすれば以前の念仏や誦経に立ち戻ってしまって純一でなく、どれが本当の信心であるのか疑心が非常に多いのです。願わくば、重ねてお示しいただけないでしょうか、と。師がおっしゃるには、そもそも道理がはっきりとしない場合には、二つの物事を見比べてみて、こちらは道理の重いこと、こちらは道理の軽いことだとして、何事も道理の軽いことを捨てて重い方に従い、厚い方をとって薄い方を捨てるのだ。このようにしなければ、何事によらず物事に明るい人とはなり得ない。釈尊はお経の中でたとえ話をしておられるので、今あなたのためにお話ししましょう。しっかりとお聞きなさい。まず二人の兄弟がいて、あるときこの二人が深い山中に入っていくらか苦労して薪(たきぎ)を切り、二人がそれぞれ切った薪を背負って来たが、山を少し下ったところで、道のそばに銅がたくさんあり、弟の方はこれをみて、先の薪を打ち捨て、銅を背負って行ったが、兄はこのように苦労をして刈った薪をいまさら打ち捨てるのは残念だというので、後から戻って来て銅を採ろうといってついに銅を採らずに、先の薪を背負って帰った。また道を八九町(1)ほど下ってみると、道に銀がたくさんある。弟はこれを見ると、前と同様に銅を打ち捨て、力にまかせて銀子を背負って行ったが、兄はまたこのように苦労して採った薪を捨てるのは残念なことだとして薪を背負って銀子を採らなかった。また道を一里(2)ほど過ぎてみると、道端に黄金がたくさんある。弟はこれを見て、すぐに先の銀子を捨てて、背中が裂けるかというほど黄金を背負って帰った。兄はまた同じことを言って薪を背負い、黄金を採らずに家に帰った。兄があとで先の銅銀子黄金のあった場所へ行ってみると、あとかたもなくなっていて、結局手に何ももたず帰ったということだ。釈尊のこのような大きな慈悲の願いに、後の人はどのように報いたらよいのか。人々は今日たまたま大乗という本来の仏法を耳にするとはいっても、智識(ちしき、優れた指導者)が示すように修行しなければ、先の銅銀子黄金を採り得ず、ただいたずらに薪を背負うだけの人に似ている。道理の軽重において、先の銅銀子黄金を採ることができた弟のようにすべきである。樊噲(はんかい(3))も、「大行(たいこう)は細瑾(さいきん)を顧みず(大事業を行う人は些細なことにこだわらない)」と言っている。世間的な大事業を成し遂げようとする人ですらなおこの通りである。いわんや今日の暗愚な凡夫が生きながら成仏を得ようというのだから、どうして大事業でないことがあろうか。ところが人が誹謗することだとか、この障害があるとか、遠慮があるとかいったことにからめ取られて、千万劫でも会えるかどうかという計り知れない大宝を失うことは、愚かだと言ってもとても言い切れるものでない。
(1)町(ちょう):昔の距離の単位。一町は約110メートル。八九町は一キロ前後か。
(2)里(り):昔の距離の単位。約4キロほど。
(3)樊噲:中国秦末から前漢初期にかけての将軍、政治家。
二
師が常にお示しになったことだが、如来は『遺教経』でお説きになっているが、きみたち修行僧は、勤めて精進すれば、何事も成就できないことはない。だからきみたちは本当に一生懸命精進しなければならない。進むときは、たとえば少しの水が常に流れてよく石に穴をあけるようなものである。あるいは修行者の心がしばしば行き悩んでしまうのは、たとえば火を起こそうと思ってまだ熱くならないのに手を休めれば、火を起こそうとしても難しいのと同じである。これを精進と名付けるのである。またおっしゃるには、木の中から火を起こそうと望む人は、火が出るのを最終的な狙いとしてそこまで怠らず木を揉むときは、火は必ず出るものである。もし途中で怠ってしまうと、どうして火を得ることができようか。探究や疑いを起こすこともまた、これと同じことである。このことをよくよく思わねばならない。
三
師が常に示しておっしゃるには、みなさん、常に飲食の節度を失ってはいけません。身体を保育し、生命を安全に保つことは、ひとえに飲食の二つによっています。いつも食べすぎてはいけません。よくその良し悪しを見分けて食べねばなりません。さしあたってはその毒が目に見えず、感じられないとしても、しまいには病気の原因になり、あるいは頓死、不慮の死といったわざわいを招くことがあります。常に味の良いものでも粗食でもたくさん食べてはいけません。食は飢えをとめるためのもの、衣は寒さを防ぐためのものです。それゆえに如来は、お経の中で、お前たち修行僧は、もろもろの飲食をうけるとき、まさに薬をいただくようにしなさい、良いものでも悪いものでも増減があってはならない、わずかに身をささえることができて、それで飢えや渇きを除きなさい、また、常に慚愧しなければなならない。古人も白法というものを用いてこの上もない仏道を成就している、と。白法とは慚愧のことです。自分は幸いに無上の仏道を耳にしているとはいえ、いまだ成就せず、この身が仮であることは実に空花(くうげ(1))のようなもの。この身はいずれ白骨となってしまう、このような不信心の状態ではいったいどうなるのだろうかと、自ら戒め、自ら鞭打って、ただ常に聞く主(ぬし)の知り得ない所を深く疑いなさい。抜隊和尚がおっしゃっているように、深く疑えというのも、悟らせるためである、大いなる疑いで探究するほかは、一切の事、一切の行為、すべてことごとく枝葉である。このように常に慚愧して、今日も明日も日々に進み、夜ごとに怠らなければ、本当に至道無難(しどうぶなん(2))となろう。
(1)空花:存在しないのに空中にみえる花。
(2)至道無難:中国三祖の僧璨(そうさん)禅師の『信心銘』冒頭にある言葉。「至道無難 唯嫌揀択(ゆいけんけんじゃく)」(道に至るのは困難ではない。ただ選り好みを嫌う)是非善悪の分別のとらわれを除けば道はおのずとそこにあるということ。日本の至道無難(しいどうむなん)禅師はこの語により成道したと言われる。