夢窓国師仮名法語(九)

題しらず

 

   このほどは思ひおりつるぬのひきを

                けふたちそめて見にきつるかな

(今回は、前から思いをはせていた布引の滝に、旅立って今日見に来たことだよ。)

 

   きる傘もおへるたきぎもうづもれて

                ゆきこそくだれ谷のほそみち

(身に着けている傘も背負っている薪も雪にうずもれて、雪とともに下ってゆく谷の細道であるよ。)

 

   世をそむく後はなかめぬことならば

                 月にしばしや身ををしままし

(俗世を捨てて出家した後は眺めないというのならば、いま少しのあいだ月を見ることのできる身を惜しめばよいだろうか。)

 

  佛国禅師(1)御詠

 

(1)底本の頭注では「名は顕日、高峯と号す、後嵯峨天皇の皇子なり。正和中寂す。」とある。

 

題しらず

 

   この法のうへみぬわしのやまざくら

                花をおしへのほかにつたへて

(この真理のさらに上は見ることがない霊鷲山に咲く山桜。花を教えの外に伝えて。[釈尊霊鷲山で行った拈華微笑によって摩訶迦葉尊者が法を受け継いだことを言ったものであろう。])

 

いくらか見解(けんげ、仏法の理解)のある僧に読んで与えられたもの、

 

   折りえてもこころゆるすな山さくら

                さそふ嵐にちりもこそすれ

(山桜を追って確かに手にしたと思っても油断してはならない。嵐に吹かれて散ってしまうこともあるのだから。)

 

那須の山中に庵を結んで住まれていた頃、

 

   月はさしくゐなはたたくまきの戸を

                あるじかほにもあくるやま風

(月の光が差し込み、水鶏の鳴き声がまるで戸をたたくようだが、主でもあるかのような顔で戸を開ける山風よ。)

 

ある人が親の百カ日の仏事お呼び申し上げて、お経の講釈があったときに、軒端の梅に鶯がさえずっていたので、思わずお詠みになったもの、

 

   なきひとのひかずもけふはもも千鳥

                なくはなみだのはなのした露

(亡くなった人の日数も今日で百日というその百千鳥(いろいろな鳥)が鳴いているのは、桜から涙が滴るように露が落ちていることだ。)

 

那須の庵で月をご覧になって、

 

   しげりあふみねの椎柴ふきわけて

               かぜのいれたる窓のつきかげ

(茂っている峯の椎の木々を風が吹き分けて、窓に月の姿が入っていることだ。)

 

題しらず

 

   いづる嶺入るやまのはのとをければ

                露にやどかるむさし野のつき

(月が出る峯や沈む山の端も遠いので、すぐ近くにある露に姿を映して宿を借りている武蔵野の月よ。)

 

   夜のほどは霜によはりてきりぎりす

                日影にとくるつゆになくなり

(夜のうちは霜で弱っているこおろぎが、日が差して露になるころ鳴いているよ。)

 

本来成仏ということを、

 

   雲晴れてのちのひかりとおもふなよ

                もとより空にありあけの月

(雲が晴れてから後の光だと思ってはなるまいよ。ありあけという名の通り、もとから空にある月なのだから。)

 

ご入滅が近づいて、月をご覧になって、

 

   月ならばをしまれてましやまのはに

                かたぶきかかる老のわが身を

(月であったなら惜しまれていたことだろうよ。山の端に傾きかかる月のような老いたわが身であることよ。)

 

月光、雪に似たりということを、

 

   月かげは木のもとごとにむらきえて

                ふむにあとなき庭のしらゆき

(月の光は、木の元ごとに斑に消えて、踏むと跡がない庭の白雪のようだ。)

 

題しらず

 

   いづくよりつもりし雪ぞひさかたの

                くもにあまれるふじのしば山 

(いったいどこから積もった雪なのか。雲を超え出る富士の雑木林に。)

 

 鳥に寄せる恋という題に、

 

   わが恋はかりはのきしのくさかくれ

                あらはれてなく時しなければ

(私の恋は、狩場の雉が草に隠れているようなものだ。姿を現してそれと声を出す時もないのだから。)

 

那須の山中に庵を結んで、お住みになっているとき、

 

   われだにもせはしとおもふ柴の庵に

                 なかはさしいる嶺のしらくも

(自分だけでも狭いと思うこの粗末な庵に、峯をはう白雲がなかば差し入ってくることだ。)

 

建長寺の長老に、西勝園寺の禅門(北条貞時)から招かれたが、お断りになって、

 

   かくていまおもひ入江の身をつくし

                世にさしいでて何にかはせん

(このようにして今、思いつめて山に入っているこの身の、入江の澪標(みおつくし)のように身を尽くして世間に出ていったいどうしようというのでしょうか。)

 

あまりに頻繁に招かれなさったので、住まわれて後にお読みになったもの、

 

   そま山を出でずばいかでまきはしら

                ひとをわたせる橋とならまし

(立派な材木も切り出す山を出なければ、どうして人を渡す橋となれるだろうか。)

 

題しらず

 

   かりそめの夢をまこととおもひつつ

                かしこかほなる人ぞはかなき

(かりそめの夢を本当のことと思い、賢そうな顔をしている人はとても情けないものであるよ。)

 

   よしあしのこころもなくて見る時は

                この身はもとの姿なりけり

(良し悪しの心を持たずに見る時は、この身はもとの姿であることだ。)

 

廣天巌[不詳]が仏法の理解を得られたとき、お詠みなって与えられた、

 

   のごころのまだやはらがぬ牛を得て

                うちたゆむなよまきのふるふち

(野にいる頃の心がまだ和らがない牛を得て、打つことを怠ってはならないぞ、牧場の古い鞭(むち)よ。[仏道に初めて入って仏法のありかを見定めても、まだ俗心が残るものであるから、自らを鞭うつ修行を怠ってはならないぞ])

 

夢窓国師仮名法語(八)

有馬の温泉につかられたとき、その山のふもとにお堂があったが、古くなって破損していて雨漏りもしているのをご覧になって、

 

   寺ふりてあめのもりやとなりにけり

                ほとけの仇をいさやふせがん

(寺が古くなって雨漏りがするようになってしまった。仏に害をなすものをさあふぜごう。)

 

土岐伯耆の前司(土岐の前伯耆守)入道存教(土岐頼貞、法名は存孝か)が詠んで贈られた十五首の中に、

 

   をりにふれ時にしたがふことはりを

                そむかぬ道やまことなるらん

(折にふれ、時に従うその道理に、そむかぬ道が本当であるのだろうか。)

 

      返事

 

   ことわりをそむきそむかぬふた道は

                いづれもおなじ迷ひなりけり

(道理に背いたり背かなかったりという二つの道は、いずれも同じ迷いであることです。)

 

   夢の世とおもふもいまのまよひかな

                本(もと)のうつつもなしと聞くには

(夢のようなこの世と思うのも今の迷いであるよ。元になっている現実もないと聞くからには。)

 

   夢のなかにゆめとおもふもゆめなれば

                 ゆめをまよひといふも夢なり

(夢の中でこれは夢だと思うのも夢なのであるから、夢を迷いだと言うのも夢であるよ。)

 

   はなのいろ月のひかりをあはれとも

                 みる心にはいたつきもなし

(花の色や月の光を美しいと感動して見る心は、病み衰えるということもないことだよ。)

 

   さかぬ花いでぬ月ぞと見るときは

                 こころにかかる春あきもなし

(さかない桜、出ない月と見るときは、春だの秋だのという季節も心にはかからない。)

 

   いづくより生まれくるともなきものを

                 かへるべき身となに嘆くらん

(どこから生まれてきたということもないものを、帰って行かねばならない身だと何を嘆いているのか。)

 

   こし方もゆくすゑもなきなかぞらに

                 うかれても又さてやはつべき

(どこから来たともどこへ行くともない中空に月が浮かんでもまたこのように消え果てゆくことだ。人の身も同じこと。)

 

   まぼろしにしばし形をうくならば

                何とさだめてとがといふべき

(幻として少しの間すがた形を受けているものであるから、いったい何を罪とがと定めて言うというのか。)

 

   まぼろしにしばし形をうけけると

                思ふもげにはとがとしらずや

(幻として少しの間だけすがた形を受けたのだと思うのも、本当のところ過ちだと知らないのだろうか。)

 

   いとはじなもとより空にすむつきは

                しばしへだてて雲かかるとも

(はじめから空に澄んでいる月は、しばらくの間、さえぎって雲がかかってもそれをいとわないだろうよ。)

 

   雲よりもたかきところに出でて見よ

                 しばしも月にへだてありとや

(雲よりも高いところに出てみるがいい。少しの間でも月がさえぎられるということがあるだろうか、ありはしないのである。)

 

   いまここにむかふ山路のほかならで

                 たづぬる方をまよひとやせん

(今ここに向かっている山路のほかでもなく、求め尋ねるのを迷いというべきあdろうか。)

 

   目にかけてむかふ山路のおくにこそ

                 ひとにしられぬ里はありけれ

(目指して向かってゆく山路の奥にこそ、人に知られぬ里はあるのだ。)

 

   こころをも身をもたのまず今はただ

                 あるにまかせて世をや送らん

(心も身も頼りにせず、今はただあるにまかせて世を送ろう。)

 

   なにとなくあるにまかせてすむ人も

                 さすが浮世はわすれざりけり

(何とはなくあるにまかせて住んでいる人も、さすがに浮世は忘れてはいないことだ。)

 

   聞くは耳見るはまなこのものならば

                 こころは何のぬしとなるらん

(聞くことのぬしは耳、見ることのぬしは眼であるなら、心は何のぬしとなっているのだろうか。)

 

   はるそとでもえしも草のいろなれば

                 かれ葉の秋もなにかいとはん

(春に外で萌出るのも草の色であるが、枯れ葉となった秋もどうして嫌うことがあろうか。)

 

   思ひなすこころよりこそかはりけれ

                 おなじ草はのはるあきのいろ

(そう思いなす心によって変わるのであるよ。同じ草の葉の春秋の色は。)

 

   よしあしのふたつの道はたえはてぬ

                 こころとてげに姿なければ

(善悪という二つの道は絶え果ててしまったよ。心といって現実に姿のないものであるから。)

 

   なく鴫(しぎ)のさむき夜すがらかづくらん

                   こほりの下のこころしらばや

(鳴いている鴫がこの寒い一晩中水に潜っているのだろうよ。氷の下の気持ちが知りたいものだ。)

 

   住みはてんやまの奥までともなへと[*底本「ど」とするが「と」と読]

                 月にぞかねてちぎりおきけん

(住み果てるだろうこの山の奥までも伴えと、月にかつて約束していただろうか。)

 

   世をすてんのちとは月にちぎるなよ

                あはぬことばの末もはづかし

(世を捨てた後に、とは月と約束するなよ。つじつまが合わない言葉も恥ずかしいことだ。)

 

   かかる身をむなしき物と聞くにこそ

                 世のうきときは思ひなぐさめ

(このような身をむなしいものだと聞くことでこそ、世のつらいときは慰めれるものだ。)

 

   世のうさになぐさむといふ言の葉に

                 身を忘れざるほどぞしらるる

(世のつらさに慰められるという言葉をきくと、身を忘れていないことが知られるというものだ。)

 

   あはれはや柴のいほりのおくやまに

                 ありとも知らぬ世をすぐさばや

(ああはやく柴の庵を結んだこの奥山で、あるとも知らないこの世を過ごしたいものだ。)

 

   身をかくす庵をよそにたづねつる

               こころのおくに山はありけり

(身を隠す庵をほかの場所に探しても、心の奥にその山はあるのだ。)

 

夢窓国師仮名法語(七)

綱州の退耕庵(1)に住まわれていたころ、ある人が来てこの住居の珍しいことに心がとまったことを和歌に詠んだが、その返歌に、

(1)千葉県いすみ市にあったらしい庵。そこからすると綱州は上総国をさすか。

 

   めづらしくすみなす山のいほりにも

                こころとむれば浮世とぞなる

(見慣れない様子で住んでいるこの山の庵にも、心を留めてしまえば世間となってしまう。)

 

足を上げ下げするのも、これすべて道場であるという心を、

 

   〔風雅入〕(2)

   ふる郷(さと)とさだむるかたのなきときは

                    いづくにゆくも家路なりけり

(2)底本の書入れ。『風雅和歌集』に入っているとの意。

 

(ここが故郷だと定める場所がないときは、どこに進むのも家路であるよ。)

 

題しらず

 

   世にすむと思ふこころをすてぬれば

                山ならねども身はかくれける

(世間に住んでいると思う心を捨ててしまえば、山でなくとも身は隠れてしまうものだ。)

 

   さとりとてつねにはかはる思ひこそ

                迷ひのなかのまよひなりけり

(悟りだといって常日頃とは違う心持ちをするなら、それこそ迷いの中の迷いであることだ。)

 

   惜めどもつゐにはてあるあだし身を

                かねて捨(すて)てぞかしこかりける

(いくら惜しんでもついには限りのある虚しい身なのだから、前もって捨ててしまうのが賢いというものだ。)

 

   我のみとかしこがほなるはかなさよ

                はかなかりせば賢からまし

(自分だけはと賢こげな顔をするはかなさよ。はかないのであれば賢くもないであろうよ。)

 

   捨つるとて人をうらむる世はあらじ

                何にさはりてうきをわぶらん

(捨てるからといって、その人を恨む世というものはない。どんなさしさわりがあってつらい浮世だと嘆いているのか。)

 

   ふくたびにはやめづらしき心地して

                ききふるされぬのきの松かぜ

(吹くたびに早くも珍しい気持ちがして、聞き古すということのない軒の松風だよ。)

 

甲州甲斐国、今の山梨県)の笛吹川(ふえふきがわ)の上流にお住みになっていたころ、

 

   ながれては里へもいづるやまかはに

                世をいとふ身の影はうつさじ

(流れてゆくと里へも出るこの山川に、世間を厭うわが身の姿すらうつすまい。)

 

世尊不説の説、迦葉不聞の聞(3)という心を、

(3)拈華微笑(ねんげみしょう)を言ったものであろう。釈尊が弟子たちを前に蓮華の花を無言で示したとき、迦葉尊者だけが理解して微笑んだというもの。

 

   さまざまにとけどもとかぬ言の葉を

               きかずして聞く人ぞすくなき

(世尊は真理をさまざまな言葉で説いておられるが、言葉で説けない法を聞かずに聞く人は少ないのだ。)

 

成仏なしという心を、

 

   結びしにとくるすがたはかはれども むすぶ

               こほりのほかの水はあらめや

(固まったものが溶ければ姿は変わるけれども、氷とは別の水があるわけではないだろうよ。)

 

 

無輪廻中妄見輪廻(輪廻なき中に誤って輪廻を見ること)という心を、

 

    やまをこえ海をわたるとたどりつる

                夢路はねやのうちにありける

(山を越えたり海を渡ったりして辿る夢路も、醒めてみれば寝屋の中だけであるよ。)

 

弾正親王西芳寺にいらして、仏法の談義をしたあとで和歌をお詠みになったおりに、

 

   さすがまた人のかずなる身となりて

                おひにはもれぬ年ぞつもれる

(さすがに人の数となるような立派な身の上になっても、老いというものかれは漏れないで年は積もってゆくものだよ。)

 

   思ひなすこころからなる身のうさを

                世のとがとのみ歎(かこ)ちけるかな

(あれこれ思い込む心から出てくる身のつらさを、世間の過ちだとばかり嘆いていることだよ。)

 

釈教(仏教)、

 

   しるべとて深きしほりをたのむこそ

                まことの道のさはりなりけり

(道しるべだといって山深いところの枝を折った目印をあてにするようなことこそ、真実の仏道の妨げであることだ。)

 

無常の和歌を勧めたときに。

 

   あだながらこころに残るおもかげぞ 

                烟りとならぬすがたなりける

(はかないとはいえ心に残っている面影が、焼かれて烟とはならない姿であることよ。)

 

後醍醐院の御世に、金剛山というところで合戦があり、公家や武家の人々がたくさん命を落としたということをお聞きになった頃、お読みになったもの。

 

   いたづらに名にかへてだに捨る身を

                法のためにはなどをしむらん

(名誉と引きかえにさえ虚しく捨てる身を、仏法のためにどうして惜しむことがあろうか。)

 

俳諧

 

   いもの葉におくしら露のたまらぬは

                これや随喜のなみだなるらん

(いもの葉におく白露がとどまらず流れるのは、随喜の涙であるのだろうか。)

 

   月かげにまよひあらそふひとあらば 

                さたの外(ほか)なる身をいかにせん

(月の姿のことを迷い争う身分の高い人たちがいるとすれば、さたのほか(問題にならない、裁判にかからない些末なこと)であるこの身をどうすればよいだろうか。)

 

花なし(4)の実がなったのが春の終わりまで庭に残っていたのを、折って将軍へ差し上げたときに、

(4)花なし:花梨(かりん)の実のことか。

 

   桜ちりて花なしとこそおもひしに

               なほこのえだに春はありのみ

(桜が散ってもう花はないと思っていたが、まだこの枝にありのみ(なしの別名)があるように春はのこっていたことです。)

  

   

 

 

 

夢窓国師仮名法語(六)

瑞泉院の一覧亭で、雪が降った日に、

 

   まつもまたかさなる山のいほりにて

                梢につづくにはのしらゆき

(松の木が重なるように生える山の庵で、その梢から庭までも白い雪が続いていることだよ。)

 

雪の中で、草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)の文を思い起しなさって、

 

   わきてこの花さく木をとうゑけるは

                雪見ぬときのこころなりけり

(選んでこの花の咲く木をと植えたのは、雪を見ないときの心であったよ。)

 

初雪の日に将軍が雪を踏み分けてお越しになったので、

 

   とふ人のなさけのふかきほどまでは

                 つもりもやらぬにはのしら雪

(訪ねてくる人の情けの深さほどは、積もってはいない庭の白雪だよ。)

 

   たはむほどしばしは枝につもりつつ

                 ふたたびにふるまつのした雪

(いっときは枝がたわむほど積もりながら、また松の下に降り落ちる雪よ。)

 

天龍寺の方丈の集瑞軒(書院の名)から、雪が降っていたとき、嵐の山をご覧になって、

 

  ゆきふりて花かと見ゆるあらしやま

               松とさくらぞさてかかはれる 

(雪が降って桜の花のように見える嵐山だが、松と桜がこんな仕方で関わるのは面白いことだ。)

 

どこであっても心にかなう山があったら隠れ家にしようとお思いになっていた頃、

 

   世をいとふわがあらましのゆく末に

                いかなる山のかねてまつらん

(世間を厭う私に予想される行く末として、どんな山が待っていてくれることだろうか。)

 

仏身は無為(1)であって諸趣(いろいろな迷いの境地)に落ちないという心を、

(1)無為(むい):因果、生滅を離れていること。有為の逆。

 

   わすれては世を捨てがほにおもふかな

                のがれずとても数ならぬ身を

(世間のことをすっかり忘れてしまい世を捨てたような顔でいろいろ思っていることだが、世間を逃れないとしても物の数ではないこの身なのだが。)

 

濃州(美濃の国)虎渓(こけい)という所にお住みになっていた頃(2)、仏道を志す人が訪ねてくるのをお嫌いになって、

(2)虎渓:虎渓山永保寺。岐阜県多治見市虎渓山町。

 

   世のうさにかへたる山のさびしさを

               とはぬぞ人のなさけなりける

(世間が疎ましいのでそれを山の寂しさに変えたのだから、訪れないのが人の情けというものだ。)

 

また、鎌倉山の人が住んで捨てた庵に、一夜お泊りになった時に、軒の松風が一晩中吹いていたので、

 

   我(わが)さきに住みけん人のさびしさを

                  身にききそふるのきの松かぜ

(私の先に住んでいただろう人の寂しさが、軒を吹く松風を聞いて今はわが身にやって来ていることだ。)

 

相模国そこくら(3)という温泉に下って行かれたときに、その山の奥の人里も続かない谷の底に、山賎(やまがつ)(4)の庵があったのをご覧になって、「同じくは世を捨ててこそ」と詠んだ昔の和歌を思いだして、改めて思うと、世を捨てた人はいかにも世を捨てたような顔をする汚れがあるが、この山賎はかえって仏法の道理にかなっている心地がして、お詠みになった和歌、

(3)底本注によると箱根の底倉である。

(4)山賎:山仕事をする身分の低い人。

 

   のなかをいとふとはなき住居にて(5)すごし

               なかなかすごきやまがつの庵(いほ)

(5)冒頭「よ」の欠落か。

(世の中を厭うというのではないこの住まいで、かえってすばらしい山賎の庵であるよ。)

 

相州(相模の国)三浦の横須賀という所、入江に臨んだ泊舟庵という所にお住みになっていた頃、中納言為相(ためすけ)卿がお訪ねになって来られたのを、舟で送りだされたとき、お詠みになった和歌。

 

   かりにすむいほりにたづねてとふ人を

                あるじがほにてまたおくりぬる

(仮に住んでいる庵に訪ねてきた人を、まるで主人のような顔でまた送ることだよ。)

 

また三浦の庵を捨てて、綱州(6)へいらしたとき、その庵の施主である三浦安芸の前司貞連(三浦貞連)のもとへ送られた和歌。

(6)綱州:底本では「本ノママ」と注記。不明。

 

   うかれいづる事をうらみとおもふなよ

                ありとてもまたありはてんかは

(浮かれたように出て行くことを恨みに思われるなよ。住んでいたとしてもこの世にずっと住み果てるわけでもないのだから。)

 

濃州清水という所に庵を結んでお住みになっていたのを、捨ててお出になるというので、

 

   いく度かかく住み捨てて出(い)でぬらん

                  さだめなき世にむすぶかり庵(いほ)

(いったい何度このように住み捨てて出て行くのだろうか。定めのないこの世に仮に結んだ庵を。)

 

右武衛将軍が西方精舎におこしになり、仏法の談義をされた後、人々が和歌を詠まれた折に、

 

   おのづからとひくる人のあるときも

                さびしさぞそふやまかげの庵(いほ)

(みずから訪ねてくる人があるときでも、寂しさが離れないこの山陰の庵であるよ。)

 

花室という尼寺の長老が、自分の見解(けんげ、仏法の会得)になぞらえて詠んで差し出された和歌。

 

   をちこちの海とやまとはへだつれど

                おなじ空なるつきをこそみれ

(あちこちの海や山は遠く隔たっているけれども、同じ空にある月を見ていることです。)

 

    返歌

   ところからかはる気色のあるものを

                おなじ空なるつきとみるかな

(所が変われば様子が変わって見えることもあるのに、同じ空にある月だと見ていることよ。)

                

夢窓国師仮名法語(五)

征夷将軍(その当時の亜相)ならびに厩(1)(足利義詮(よしあきら))が西芳寺に来られて仏法の談義をなさった後、庭前の二本の桜の木がすばらしいのを鑑賞された折に、人々が和歌を詠まれたときに、

(1)厩:馬寮の守。

 

   いつも見ばかくめづらしき事はあらじ

                 ちりしも花のなさけなりけり

(いつもお会いしているなら、このように珍しい事はなかったでしょう。桜の花が散っているのも花の情けというものでしょう。)

 

   いざしらずにはの梢やかげならん

                池のそこにもはなぞさきけり

(庭の桜の木の梢の方が映った姿なのだろうか。池の底に見える桜の花が見事に咲いていることだ。)

 

   ふく風のえだをならさぬ春なれば

                おさまれる世と花もしるらん

(吹く風が枝を鳴らすことのない春であるから、平和に治まった世の中だと桜の花もきっと知っているであろう。)

 

春の夜ということを、(詠んだ和歌)

 

   わけいづるひまもなきまで霞む夜は

                 おぼろぞ月のすがたなりけり

(分けて出る隙間もないくらいに霞んでいる夜は、月もぼんやりと朧の姿になっているよ。)

 

山居の郭公という題で、

 

   (2)なきいでし軒端の山のほととぎす

  花ゆゑの御幸にあへるおひが身に

             千歳(ちとせ)のはるをなほもまつかな

 

(2)なきいでし・・・:底本では冒頭「本ノママ」としてある。七七の欠落か。

 

(鳴き出した軒端の向こうの山のほととぎす)

(桜の花があるからこそ御幸に立ち会えるこの老いた身に、さらに千年の春を待っていることです。)

 

弥生(三月)の末になってかえって桜が咲いた年にお詠みになった和歌。

 

   花もまた春のなごりをしたふとや

               ことしやよひの末にさくらん

(桜の花も春のなごりを慕っているというので、今年は三月の末に咲いているのであろうか。)

 

花が散り過ぎたあと、西芳寺に将軍がいらした時に、

 

   さかりをばみる人おほしちる花の

                跡をとふこそなさけなりけれ

(盛りになっているのを見る人は多いけれども、散る花の跡に訪れてこそ情趣が深いというものでしょう。)

 

また庭の花をご覧になって、

 

   おなじくは風にしられぬ世しも哉

               わがともとなるかくれ家の花

(同じことならば風に在りかを知られない世の中であればよかったなあ。我が友となっている隠れ家の桜よ。)

 

左武衛将軍、禅閣相公が羽林(近衛)を連れ立ってお越しになり、仏法の談義をした後で庭先の桜の花の下で人々が和歌をお読みになった折に、

 

   おさまれる世ともしらでや此春も

               花にあらしのうきをみすらん

(すでに治められた世とも知らないからだろうか、この春も嵐に花が散る辛さを見せていることだ。)

 

   行く春のとまりをそことしるやらん

                花をさそひてすぐるやまかぜ

(過ぎ行く春の行き先をそこだと知っているからだろうか、桜の花を誘って過ぎて行く山風よ。)

 

   これやまた春の形見となりなまし

               里よりかへるほどぞまたるる

(これもまた春の思い出ときっとなるのでしょう。里からまたここに帰られる時がまたれることです。)

 

弾正(だんじょう)親王が御光臨のおり、題を探りながら人々が和歌を詠んだ折に、

 

   夕暮れをなにいそぎけんまちいでて

                後もほどなきみじかよのつき

(夕暮れを何をそんなに急いでいたのだろうか。待っていて姿を現した後もいくらもしないで消えてしまう短夜の月よ。)

 

武衛がお越しになった時、夏月ということを、

 

   つきをみる心にながき夜はあらじ

               ふけゆくうさは夏のとがかは

(月を見る心にとって長い夜というのはないであろう。夜が更けてゆく辛さは夏の罪ではないだろうよ。)

 

納涼、

 

   くれぬよりゆふべの色はさき立(だち)て

                 木陰すずしきたにかはのみづ

(すっかり暮れてしまう前から夕べの色は先立って迫り、木陰は涼しく、谷川の水音が聞こえるよ。)

 

題しらず、

 

   やまあひの木の間はしらむ短夜に

                なほ明けのこす谷かげのいほ

(山あいの木々の間はもう白んでくる短夜だが、私のいる谷陰の庵はまだ明けきらないことだ。)

 

当時、侍者でいらした頃、円覚寺を出て奥の方を巡礼なさって、うちのくさという山中に庵を結んで、初めて移り住まれた夜、月がくもりなく輝くのをご覧になって、

 

   のがれきていま見る時は替わりけり

                おもひやれかし深山辺の月

(逃れて来て、今こうしてお前をみている時は移りかわっているよ。深い山の辺にかかる月よ、私の心を思いやってみてくれ。)

 

二階堂出雲守道薀(二階堂貞藤(さだふじ)、道薀(どうおん)は法名)の屋敷で、中納言為相(ためすけ)卿暁月房などがお集まりになって、仏法の談義をした後、人々が和歌を詠んだ時に、迷情中仮有生滅(迷いの心において仮に生滅がある)という題で、

 

   夜(よ)のほども幾度(いくたび)いでていりぬらん

                 雲間づたひにいづるつきかげ

(夜のあいだでも、何度出入りすることだろうか、雲間伝いに出る月の姿よ。)

 

   いづるとも入るとも月をおもはねば

                 こころにかかる山のはもなし

(山の端に月が出たとも入ったとも思わなければ、人の生き死にの境も心にかかるものではない。)

 

   いまははやこころにかかる雲もなし

               のがれ来てみるみ山辺のつき

(今ではもう心にかかる雲もない。解き放たれて見る深い山辺の月よ。)

 

   いつまでとしもがれをまつ浅原木(あずらぎ)(3)に

               よはらぬ虫の音(ね)さへはかなし

(3)浅原木:今の京都府綾部市の浅原(あずら)の木か。

 

(いつまでも霜枯れを待っているような浅原の木に、弱らない虫の音さえもはかないことだよ。)

 

   くづはうらみ尾花はまねくゆふぐれに

                 こころづよくもすぐるあき風

(葛(くず)の蔓)は飛ばされまいと恨むかのように薄(すすき)は手招きするかのように揺れる夕暮れに、つれない様子で吹きすぎてゆく秋風よ。)

            

 

夢窓国師仮名法語(四)

 夢窓国師御詠

 

甲州(今の山梨県の辺り)河浦という所に山籠もりしていらした庵の庭の雪がまだらに消えて、人が踏んだのに似ていたのをご覧になって詠んだ和歌

 

   わが庵(いお)をとふとしもなき春のきて

                にはに跡ある雪のむらぎえ

(わたしの庵(いおり)を人の訪ねてくる折などないが、春が来て庭の雪がまだらに消えて、まるで訪ねてきた人の足跡のようだ。)

 

相州(現在の神奈川県辺り)三浦に泊舟庵という庵を結んで、お住みになっていた頃にお詠みになった和歌

 

   引潮の浦とおざかるおとはして

                ひがも見えずたつ霞かな

(引き潮の入江を舟が遠ざかる音はするが、干潟も見えないほど霞が立っていることよ。)

 

鎌倉亜相(あしょう、大納言のこと)ならびに武衛(護衛の武官)(直義朝臣(1))が鹽川寺の前に茶屋があったところで仏法の談義をした後、嵐の山の花の様子を見て、そこにいた人々が和歌を詠んだときに、

(1)直義朝臣足利直義のこと。直義と夢窓国師の問答が『夢中問答』となる。

 

   誰もみゑを見る人ぞなき

(春には皆が来て集まって詩歌をつくったりして遊ぶけれども、心の花を見る人はいない。)

 

   ちる花を梢のよそにふきたてて

                嵐ぞしばしえだとなりぬる

(散る花を梢の向こうまで吹きたてて、嵐が少しの間、花をつける枝となったかのようだ。)

 

   なほもまたあまた桜をうゑばやと

                花見るたびに見せん庭かな

(なおいっそう多く桜を植えたいものだと、花を見るたびに思わせる庭であるよ。)

 

   見るほどは世のうき事も忘られて

                隠家(かくれが)となるやまざくらかな

(見ている間は、世の中の辛いことも忘れられて、隠れ家となる山桜であるよ。)

 

   咲とみるまよひよりこそちる花を

                 風のとがとぞ思ひなれぬる

(咲くとみる迷いの心があるから散る花なのに、風が悪いのだと思い慣れてしまっていることだ。)

 

   今見るはこぞわかれにし花やらん

                咲てまた散るゆゑをしられぬ

(今見ているのは去年お別れした桜なのだろうか、咲いてはまた散ってゆくその理由は知ることができないのだ。)

 

征夷大将軍足利尊氏)が西芳寺の花の下で仏法の談義をした後、人々が和歌を詠んだときに、

 

   心ある人のとひくるけふのみぞ

               あたら桜のとがをわするる

(情趣の分かる人が訪ねてきた今日ばかりは、人を迷わす桜の罪を忘れてしまうのが残念だよ。)

 

花の盛りに西芳寺行幸があるだろうと聞いていたが、たて続きに差しさわりが出来てのびのびになっていた時に、桜の花が散っていたのをご覧になって、

 

   なほも又千年の春のあればとや

               御幸もまたで花のちるらん

(さらにまた向こう千年も春があれば、とでもいうのだろうか。行幸も待たずに桜が散っているようだよ。)

 

武衛将軍禅閣(恵源(えげん)(2))が桜の花のころ西芳寺にお越しになった時に、人々が和歌を詠んだ折に、

(2)恵源:足利直義の号。

 

   ながらへて世に住かひもありけりと

                はな見る春ぞおもひしらるる

(生き永らえてこの世に住むかいもあったなあと、桜の花を見る春に思い知られることだよ。)

 

   ちればとて花はなげきのいろもなし

                わがためにうき春のやまかぜ

(散るからといって桜の花は嘆いている様子もない。春の山風が吹いて物憂く思うのは自分のためなのだ。)

 

   いきて猶ことしも見るにならはれて

                またこん春をはなにまつかな

(生き延びて今年も見ることに慣れてしまい、また来るであろう春の桜の花を待つことであるよ。)

 

   かずならぬ身をばあるじと思はでや

                 こころのままに花ぞちりゆく

(ものの数ではない自分の身を、確かに存在する主(ぬし)とは思わないからなのだろうか、こころのままに桜の花が散ってゆくことだよ。)

 

征夷将軍が同じ春にお出でになってとき、

 

   山かげにさく花までもこのはるは

                世ののどかなる色ぞみえける

(この春は、山陰に咲く桜の花にまでも、世の中ののどかさの様子が見えるようだよ。)

 

   この庭の花みるたびにうゑおきし

                むかしの人のなさけをぞしる

(この庭の桜の花を見るたびに、植えておいてくれた昔の人の情けを知ることだ。)

 

   さく花はいまもむかしの色なるに

               我身ばかりぞおひかはりぬる

(咲いている桜の花は今でも昔のすがたと変わらないのに、我が身ばかりが老いて変わってしまったことよ。)

 

年をとってから庭の花をご覧になって、

 

   ななそぢの後の春までながらへて

               こころにまたぬ花をみるかな

(七十歳を超えた後の春までも生き永らえて、また来年と期待することもなくなった桜を見ていることだよ。)

 

西芳精舎に御幸があって、二株のすばらしい桜を見て回られることがあった、その翌日に献上なさった和歌。

 

             竹林院内大臣(現在の大納言)(3) さまへ

(3)竹林院内大臣西園寺公重(きんしげ)のこと

 

   めづらしき君が御幸をまつかぜに

               ちらぬ桜のいろをみしかな

(めったにお出でにならないあなた様のお越しを待っている私ですが、ここの松の木を吹く風にも散らない桜の美しい姿を見たことですよ。)

 

  贈答(お答え)

 

  心にちらぬ花のおもかげ(4)

(4)底本ではこの七七の冒頭に「本のママ」と書かれている。初めの五七五が消失したか。

(心の中には散らない桜の面影がはっきりとあります。)

 

   またもこん春をたのまぬおひが身を

               花もあはれとおもはざらめや

(再び来るだろう春を期待しない我が身を、桜の花も哀れと思わないのだろうか。)

 

   行末のはるをもひとはたのむらん

               花のわかれはおひぞかなしき

(行く末の春を人は期待しているのだろうが、老いた私には桜の花の下での別れは悲しいことだよ。)

 

この年の九月末にお亡くなりになった。

   

   

 

   

 

   

夢窓国師仮名法語(三)

   和歌

一 のちの世の遠きをねがう人はみな

              ちかきむねなる仏しらずや

(死んで後の遠い世を願う人たちはみな、すぐ近い自分の胸にある仏を知らないのだろうか。)

 

一 あさゆう(1)に有無ぜんあくにとまらずば

                 ひとを自在のほとけとはいう

(1)底本では「ふふゆふ」となっているが「あさゆふ」とみる。

(朝夕に有無や善悪に執着しないならば、その人を自由自在の仏と言うのである。)

 

一 円相のやぶれかがみの身となりて

               本のすがたはあらわれにけり

(丸い形も破れた鏡の身となって、本来の姿は現れたのである。)

 

一 さしおかず死するに眼(まなこ)をつけて見よ

                   よぶにこたうる主のすがたを

(捨ておかずに死ぬということをよく注視せよ。呼ぶと答える主のすがたに。)

 

一 きりはるるときは月日のあらわれて

               やまはもと山みずはもと水

(霧が晴れると月や太陽が現れるが、山はもともと山であり水はもともと水である。)

 

一 ゆられ行く船に入江のわたりして

               風にまかせる身こそやすけれ

(揺られている船に入って入江を渡るが、帆掛け船が風にまかせるようなこの身の安楽さよ。)

 

一 身がくれて(2)光まされる玉なれば

               死後のたからとなりにける哉

(2)底本では「見かくれて」としているが「身がくれて」とみる。

(自分の身が隠れてこそいっそう光が増す宝玉であるから、仏という宝石も死後の宝となるのである。)

 

一 えりきらう二つのこころある人は

               みななすことも地獄顛倒

(選り好みする二つに分ける心のある人は、なすことすべて真理とは逆の地獄となる。)

 

一 もし人の坐禅せずしてこの法(のり)に

              かなうは外道(げどう)なりけり

(もし人が坐禅をせずにこの真理に合致することがあったとしても、それは仏の教えではない。)

 

一 善悪のたたぬところを極むれば

               地ごく浄土というきわもなし

(善や悪やということが成り立たないところを究めれば、地獄や浄土といった境遇もない。)

 

一 一心の門ひらくれば法界の

             草木国土ほとけなるべし

(一心という真理の門が開ければ、この真理世界の草も木も国土もみな仏であるよ。)

 

一 万法は眼(まなこ)のまえにあらわれて

                 みな唯心(ゆいしん)(3)の仏なりけり

(3)唯心:世界はこころのあわられであるという華厳経に説かれる教え。

(あらゆる物事は目の前に現れるが、すべて唯心の仏であるよ。)

 

一 百年のうちはわずかにとけまして

               わが身の主をはやく知るべし

(百年という時は取るに足らず露のように溶けてしまうので、自分の身の主人をはやく知るがよい。)

 

この和歌の心はこうである。世間のありさまは本当に、一年一年や四季で移り変わり、昨日とも変わっているのであって、人を弔うが、あすは自分の身の上になるはずである。人の命には定めがなく朝に生まれた者が夕べには死ぬ。十二、十三、二十までに死ぬ人はあるけれども、八十まで長らえる人はまれである。

 

一 本覚の如来というもよそならず

              さとりきわむる人をこういえ

(本来の悟りの知恵をもつ如来というのも他ではない、悟りを究めた人をこう言うのである。)

 

一 おしえをば法(のり)の道ぞとふみおきて 

                  いそぎてまわれ死後のほとけへ

(さまざまな教えは仏法を進んでゆく道だと踏みゆくのはよいが、いそいで死後の仏へとまわれよ。)

 

一 きょうけには仏の道のものがたり

               まよいの人のみちしるべなり

(さまざまな教家には仏への道の物語があるが、それらはみな迷っている人の道しるべのようなものである。)

 

以上は、夢窓国師の母上けんしん様のお申し出により、国師が一心の端的をお示しになって、悟りを得られたという法語である。

夢窓国師仮名法語(二)

    ねられずば起きていよかし梓弓

               あたらぬまでもはづれざりけり

(寝られないのであれば起きていればよい。考えが的にあたらなくとも、外れることもないというものだ。)

どうせ眠れないのであれば起きていて自分の生死の一大事を究めなさるがよい。たとえこの世で的に当たらず、悟ることがなくても、機縁によって未来には尊い悟りを得るのである。たとえ横になってでも、確かにありもしない迷いを思案するよりは、自分というものはどこから来て、また後はどこへ帰るのかと立っても座っても手放さず、思案なさるがよい。忽然と自然に悟りを得られる事、疑ってはいけません。無数の法門を唱えても、肝心のものを知らなければ何になるというのか。

 

    芸能やよろずの口をたたくとも

               わが主(ぬし)知れる人はまれなり

(いろいろと技芸や能力にたけてあらゆる事を語っていても

               自分の主を知っている人はまれなのである。)

のうというのは、四書五経を暗記し、漢詩を作ったり和歌を詠んだりして、あらゆる技能を自分のものとするのだが、そうしたあらゆる能力のある人でも、自分の主を知らなければ、成仏することはあり得ないのである。むかし善生比丘(ぜんしょうびく)という人は、聖なる教えを自分のものにして読んでいたが、地獄に落ち、提婆達多(だいばだった)も仏に劣らないほどの良い僧であったけれども、無間地獄(むげんじごく)(1)に落ちたのである。十分に注意してはやく坐禅三昧によって主を知りなさい。

 

(1)無間地獄:最悪の地獄と言われる。

 

     和歌

一 思い出のある人さえに捨つる世を 

               数ならぬ身の何を待つらん

(心に残ることのあるような人でさえ捨てるこの世なのに、取るに足りないこの身で何を期待しようというのか。)

 

一 朝顔をあだなるものと思いしに 

               花より先に落つる白露

朝顔をたちまち凋むはかないものと思っていたが、花より先に落ちてしまう朝露であることよ。)

 

一 とにかくにたくみし桶のそこぬけて

               水たまらねば月もやどらず

(いろいろと工夫した桶[自分]の底が抜けて、水もたまらないし月も宿らない。)

 

一 坐禅して死後のほとけを悟らずば

               六道輪廻だれかのがれん

坐禅をして、死後の仏を悟らなければ、誰が六道輪廻を免れるだろうか。)

 

一 肉身を帰す仏になすことは

            ただ禅定の坐禅なりけり

(この肉身をそこに返す仏にするのは、ただ禅定の坐禅だけである。)

 

一 ほとけ祖師教律勤行をからずして 

               すぐに悟るを禅僧という

釈尊や祖師方、教えや戒律や修行によらないで、たちまちに悟るのを禅僧という。)

 

一 利剣にてみなきりすつし見るときは

               森羅万像ほとけなりけり

(鋭い剣ですべてを斬り尽くして見るときには、森羅万象はすべてほとけであるよ。)

 

一 おのづから求めず捨てずさしおかず

               自由自在はかれが三昧

(自分から求めることもせず、捨てることもせず、放っておくこともせず、自由自在なのは、それの三昧境である。)

 

一 われという我を知らざる我なれば

               我を我とも思はぬはわれ

(私という私を知らない私であるから、私を私とも思わない私である。)

 

一 露よりもあだなるものと身を知りて

               いのちのうちにわが主を知れ

(露よりもはかないものとわが身を知って、寿命のあるうちに自分の主を知れ。)

 

この和歌の心はこうである。あるいは世の中の無常の有り様は稲妻や朝露よりもはかないものである。それゆえに一生の栄華は風が吹く前の雲のようなもの、百年の栄華は夢の中で得た宝のようなものである。後生の道理をいそいで心にかけて、自分の主をお知りになるがよい。

 

                

夢窓国師仮名法語(一)

*夢窓国師(むそうこくし:1275-1351)=臨済宗天龍寺開山、夢窓疎石(むそうそせき)禅師の仮名法語。底本:『禅門法語集 中巻 復刻版」ペリカン社、平成8年補訂版発行〕

*〔 〕底本編者による補足、[ ]はブログ主による補足を表す。

( )付数字はブログ主による注釈。

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仮名法語

                             夢窓国師

 

そもそも仏と言うのは何かと問い尋ねてみれば、すなわち人である。神というのは、何であるかと問い尋ねてみると、むかしはただの人である。人という者はどこから来たのかと問い尋ねてみると、父母も天地もいまだ分かれない先を考えてみれば、ただ地水火風の四つ(1)である。かりに父母の縁として生を受けて人となったとしても、限りがあって死ねば、またもとの地水火風に帰るものであるのに、本当に死んで朽ち果てるように思う事は、大いなる誤りである。

 

(1)地水火風(ちすいかふう):四大(しだい)と呼ばれる古代中国の四元素。世界はこの四つの元素から構成されるとした。

 

   灯(ともしび)の消えて何国(いずこ)にかへるらん

               くらきぞ本のすみかなりけり

(燈火が消えていったいどこに帰るのだろう。暗い所が元の住処なのだ。)

 

と詠まれている。生を受けている間の者を夢にたとえたのである。まず、夢を見ると良い事にもあい、おそろしい事にもあうことがあるけれども、醒めてみれば何もない。生を受けている間、今から後世のことを見越して欲を蓄え、好ましい境遇や悪い境遇と分かれるけれども、善悪ともに夢のようなものである。またもとの四大が空(くう)に収まるとき五大(ごだい)となるが、これを本分の天地(本来の故郷)といって苦も無く楽も無く安楽の都であるのを、悪い行いや煩悩や瞋恚(しんい、怒り憎しみ)に捉えられて、境遇があるように思うことは、嘆かわしいことである。

 

  極楽にゆかぬと思うこころこそ

              地獄におつるはじめなりけり

(極楽にきっと行こうと思う心こそ、地獄に落ちる初めなのであるよ。)

 

と詠まれている。夢でも考えていることが出てくるのは、二念(にねん)をつぐ(2)からである。この浮世では、どれほどかでも欲の心とか煩悩もなくては思うように行かず、たとえどんな悪事であったり好ましいことであったりしても、三世(さんぜ、過去・現在・未来)に関係するということもあるが、その時の当座で済ませて二念をついではならない。

 

(2)二念をつぐ:その時の想念で終わらず、引き続き次の想念を抱くこと。

 

そうなのではあるが、やはり念が起こるような時には、水に波が立つように思いなさい。そうすれば、しいて念を止めようと心にかけなくとも、そのまま醒めるのである。もとより凡夫(ぼんぷ、悟らない普通の人)の身の上で水で清めるべき汚れもなく、嫌うべき煩悩もなく、求めるべき菩提(ぼだい、悟りの知恵)もなく、ここにおいての振る舞いはみな、夢のようであるといつも心にかけているならば、たとえ浅ましい想念が起こったとしても香炉の上にかかった雪のようにたちまち消えてしまうだろう。想念が起こるときにこのように打ち破ることを金剛法剣(こんごうほうけん)(3)と修行者の戒法(かいほう、いましめ)と言うのである。この道理を聞くときは、善にでも悪でも二念をつぐほど浅ましいことはないと見えるのである。仏法さえ捨てるのに、非法(仏法でないこと)はなおさらである。前に申し上げたように人というものは地水火風の四つである。死ぬときに膿や血は水に帰る。ぬくもりは火に帰る。働きは風に帰る。残る骨や死骸は土に帰る。この四大が空に収められた時は、五体とみて仏の姿である。

 

(3)金剛法剣:金剛はダイヤモンド、念を斬る非常に固い真理の剣。

 

一 つくづくと生まれぬ前(さき)をあんずるに

                   こひしかるべき父母もなし

(つくづくとまだ生まれない前を思いめぐらしてみると、恋しいはずの父母もない。)

 

一 四大とて地水火風を合わすれば

              われを名(なづ)けてほとけとは云ふ

(四大という地水火風を合わせると、自分を名付けて仏というのである。)

 

一 おしよせてむすべば柴の庵(いおり)なり

                とくればもとの野原なりけり

(押し寄せて結べば柴の庵となるが、解いてしまえば元の野原である。)

 

一 世の中は市のかり屋のたへ[え]たへ[え]に

               ひとりひとりに帰りこそすれ

(世の中は、市場の仮小屋が次第に店をたたんで、一人一人帰ってゆくようなものであるよ。)

 

一 たえもせず本の水にもあらぬかな

              ただ谷川のひとのよのなか

(絶えてしまうこともなく、また元のままの水でもない。ただそのような谷川のごとき人の世の中であるよ。)

 

この和歌の心は、人というものは死ぬと元のように現れて絶えないものであり、そうはいっても死んで行く者はふたたび帰ることもない。同じように谷川の水も落ちて行くとは言っても元になっている水はけっして落ちるものではないという心である。

聖一国師(東福寺開山)仮名法語(六=終わり)

 古人法語(1)

 

参禅の日々を重ねて成果を得ようと思うなら、千尺(2)の井戸の底に落ちたかのようにするがよい。朝から夕方になるまで、夕方から朝になるまで、千万という思案や分別を、ひたすらこの井戸を出ようとすることを求める心だけにして、ほかのことはまったく考えないのである。本当によくこのように工夫する(心を用い務める)るならば、あるいは三日、あるいは五日、あるいは七日で徹底しないとすれば、私は本日、大きな嘘を言う過ちを犯して長く抜舌地獄(3)に落ちるだろう。

 

(1)巻末についているこの法語については、先の「坐禅論」が九条道家に示されたのとは別に他の人に当てて書かれたものなのか、詳細は不明とされている(底本「解題」による)。

(2)尺:昔の長さの単位。30センチ前後。千尺では300mほど。ここではとても深いこと。

(3)抜舌地獄:言葉で悪を犯すものが落ちるという地獄。舌を抜かれるという。

 

古人は、この道に参じ、学ぶときの心構えについて、「工夫する(心を用い務める)」と言う。この言い方は、非常に適切なものである。ところが、修行者たちは皆、このことについて聞いたり見たりできない者であるかのようである。それというのは、一つの「禅」という字を説くのを聞いて、あるいは悟りは容易だと思って、日夜言葉や文字の中に向かってそれを尋ね求める者があり、あるいは悟りは困難だと言って頭を振って顧みず、長い間、無事甲(ぶじこう)(4)の中に置き捨てて、逆に気にしない者もいる。この二通りの者たちは皆、「工夫する(心を用い務める)」という道理があることを知らず、空しく一生を過ごし、甘んじて輪廻を受ける。「工夫する(心を用い務める)」という道理を深く尋ねてみれば、ただ「信」という一つの文字を出ることはない。「生死事大、無常迅速(生死の事は重大である。無常は迅速である)」という八字を深く信じて、二十四時間中、方便(5)がある場合でも無い場合でもよいが、念々に心を放たず、ひたすらに打ち込みなさい。ただ、このように心を放たず、ひたすらに打ち込み、務めるところを、すなわち「工夫する」というのである。初めから目を閉じ、わざと身構えて、喧噪を避け、静かな所を求めるといったことではない。ただこの道は、他人から受け取るものではないと深く知って信じていたならば、たとえ釈迦や達磨が目の前に現れて、禅の道や仏法を自分の胸のうちに注ぎ入れると言っても、本当に道を求める人ならば、吐き返しなさい。ただ、この心に放さない所を守って、ひたすら打ち込んで正しい悟りを求めるならば、そのまだ悟らない前のときでも、みだりに自分勝手な見解をもつことはないだろう。その工夫を行う志がそのようであるならば、どうして如来の禅、祖師の禅が自分の手の内に入らない心配などあろうか。

 

(4)無事甲:何事も無いというカブト。元は、大慧宗杲(だいえ そうこう、1089年~1163年、中国の宋代)の語録に出る。大慧禅師はいわゆる無字(むじ)の公案にちなんでこの語を出しているので、「むじこう」と読まれているが、臨在禅師には「無事(ぶじ)これ貴人」などの語もあり、ここでも意味上は「ぶじこう」と読んでもよいように思われる。

(5)方便(ほうべん):悟りに導く手段。ここでは公案などのことを言うか。

 

仏や祖師について学ぼうと思うなら、まずはっきりと心を決めて生死の大事を明らかにしようと思う正しい念願を立てなさい。この志がつねに眉目のあいだにあるならば、あらゆる縁や境遇が乱れ来たとしても、別に髪の毛一筋ほどの他の念を起こし、分別を生じてその志を妨げるようなことはない。もし生死のためにする正しい念願が切実でなければ、はっきりと決心して日々の生活の中で工夫を行うことはできないのである。もし強いて行ってもただ一時のことになってしまい、長く続くことはないだろう。たとえ聡明で利発であり、文字の上で理解することはあったとしても、ただ見聞した知恵を増やすだけで、実際に生死大事のことについては、何の用にも立てられないのである。これはただ根本の志が真実のものでないことから来ている。それゆえに道を学ぶ上で肝要なことが三つある。第一に生死という大事のためにするという心が切なるものでなければならない。第二に、世間の嘘や、得だの損だのという有り様をよく知って打破しなければならない。第三にゆるがない長く遠い決心をして、永久に退いてはいけない。この三つは、もし一つが欠ければ(6)退いてしまう。二つを欠くときは消え去ってしまう。三つ共に欠くときには、たとえ釈迦が一生で説いた経すべてに通じ、百家の書物を読んだとしても、ただ業識(ごっしき、無明による認識)を助け、高慢を助長して、少しも自身の補いになることはないのである。

 

(6)底本では「かぐ」となっているが「かく(欠く)」と解釈する。

 

仮名法語終わり。

 

 

聖一国師(東福寺開山)仮名法語(五)

問い もし見性成仏の本質を明らかにすることなく、臨終に向かっている時には、最後にはどのような心構えでいればよいのか。

答え 一心が起こって生死がうまれる。無心のとき、生まれる身もなく、消滅する心もない。無念無心のとき、まったく生滅というものはない。この身体はただ草の葉にできうる露のようなもので、露にはもとより主(ぬし)というものはない。自分の身があると思う心を止めて、本来一物もないところに打ち向かって、生まれるとも思わず死ぬとも思わず、無心無念であれば、三世の諸仏の大いなる涅槃と同じである。善悪の姿がいろいろと現れて見えても、目にかけてはならない。髪の毛一筋ほどの心を起こせば、それで輪廻の種となるであろう。ただひたすら無心を修行して、行住坐臥(動いても留まっても座っても寝ても)忘れなければ、最後の心持ちといっても特別にあるわけではない。本当に無心の道に安住するときには、飛花落葉(ひからくよう)(1)が風に従い、霜や雪が朝日に溶けるようなものである。そのようなことに、何か心構えをする者があろうか。真実に無心を得るときには、三界(欲界・色界・無色界)六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の各道)、あるいは浄土も穢土(えど、汚れた世界)もまったくなく、仏、衆生、一物もない。この無心の道に安住して生き死にがやむ心を、仏が最後におっしゃったのは、「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽(しょぎょうむじょう、ぜしょうめっぽう、しょうめつめつい、じゃくめついらく)」(2)とお説きになった。諸行無常とは、一切の衆生がおこなう有為(うい)の法(3)である。これはすべて夢幻や鏡に映る像のようなものであり、また水に映る月のようなものである。是生滅法とは、一切衆生をはじめとして草木に至るまで、生じるものは必ず死ぬ。あるいはこの世界、山河大地もまたついには破滅して滅びるだろう。一切の真理も、打ち立てられたものなら、みな生滅の真理である。これはただ一念が去来し、変化するところから生じたり死んだりするのであり、すべて真実はない。生滅滅已というのは、一切衆生の本分は無相(姿形がない)であり、清浄であるので、本分の無相の源に至るときには、永劫の過去から未来へ続く生じたり滅したり、やって来ては去ってゆくということが、一時に消滅してしまって、心の朗らかであることは、まるで虚空のようである。寂滅為楽とは、仏も無心であり、衆生も無心であり、山河大地、森羅万象、すべて無心である。一切衆生がみな無心であるときは、地獄も無心である。極楽も無心である。喜びもなくまた憂いもない。このように道を信じて、一切の物事を見るなら、心には見るということがない。一切の物事を聞くなら、心に聞くということがない。また口に嘗め、鼻に嗅ぐ心も同じことである。あらゆる物事についてただ無心でいなさい。無心の心、これが三世の諸仏の本当の師なのである。これが第一の仏なのである。この無心の本当の仏と成ることを、諸仏の成等正覚(じょうとうしょうがく)(4)とは言うのである。このことを悟るのを、寂滅為楽と言うのである。このような真理を信じてこの身を捨てるのであるから、一念も真理を思ってはならない。あなかしこ、あなかしこ。

 

(1)飛花落葉:風に花が飛び、葉が落ちること。無常のたとえ。

(2)諸行無常・・・:『涅槃経』に出る無常偈と呼ばれる句。あらゆるものは無常である。これは生じ、また滅する真理である。生じ、また滅するということが無くなったとき、その寂滅が安楽である。」何かが生じたり滅したりということは、人が何かに執着する心、相(姿形)を認めて執着する心によって成立する。無心に安住するものにはそれがないので、何かが生じたり滅したりということ自体がなくなり、無始無終の仏心が現成する、そこが寂滅と言われる甘露である、ということ。

(3)有為の法:因縁によって生じる物事。無為に対して言う。

(4)成等正覚:菩薩が仏と同じ悟りの境地に至ること。

 

聖一国師が九條大臣に密かに開示した坐禅論、終わり。

聖一国師(東福寺開山)仮名法語(四)

問い 長い間坐禅修行をしている人は、身心が明るく清浄に違いない。初めて修行をする人は、妄想や顛倒(てんどう、さかさまな思い違い)がどうして止むだろうか。

答え 妄想や顛倒を憎んではならない。ただ心の本性を明らかにしなさい。一心が分からず迷っているので、本来清浄なところで、あえて妄想顛倒があるのだと思っているのである。譬えれば(1)眠っているときに様々な事を夢に見ても、夢が覚めてしまえばすべてみな妄想となるように、一心を悟るときは、すべてみな空であって一物(いちもつ)もない。

 

(1)底本では「讐へば」となっているが、「譬へば」の誤記とみる。

 

問い 煩悩即菩提、生死即涅槃という意味はどういうことか。

答え 煩悩というのは愚痴(ぐち)と無明(むみょう)(2)である。菩提(悟りの知恵)とは、すべての衆生の仏性(仏の本性ほんしょう)である。衆生は自分の仏性を知らずに、外に仏性を求め、外に善悪を見、あらゆる姿形にとらわれる。これは大いなる愚痴である。また、さまざまな姿形を捨てて自己の仏性を求める人も、ややもすれば自分は明らかに悟ったという見解を起こし、いくらか普通の人と変わるところがあるので慢心を起こして魔道に落ちることが多い。これは無明である。一心がもとより無心であることを知らずに、心を起こし、心を尋ね求め、いつしか何かが来たり去ったりという顛倒(てんどう、さかさまな思い違い)をする。これが生死の種である。一心がもとより不生不滅であるところを悟れば、自他の差別もなく、善悪や憎愛もない。まったく無念であり無心である。これを生死即涅槃という。一心の根源を悟らずにつねにおのれを失い、仏性をくらましてしまう。このような煩悩の源を尋ねてみると夢や幻、水の泡や影のようなものである。一心の、もとより清浄であるところに至ったならば、煩悩即菩提(煩悩はそのまま悟りの知恵)である。また、一心の源に至ることが出来た時、本分の大いなる知恵の光明があらわになる。このとき、あらゆる物事はおさまり、諸仏の畢竟空(ひっきょうくう)(3)の本質を得るのである。喩えるなら、日や月の光が届かない岩窟は暗いけれども、燈火を持って入る時には、長年の闇が自然と明るくなるようなものである。また、闇の夜でも月の光にあう時には、虚空の本体を変えることなく自然と明るくなる。心の真理もこのようなものである。無明や煩悩の闇に迷う衆生も、知恵の光にあう時には、身心が変わることなく、自ずと清浄である。これを煩悩即菩提、生死即涅槃と言うのである。

 

(2)愚痴と無明:元になるサンスクリット語は異なるが、いずれも真理に暗く無知なことを言う。

(3)畢竟空:究極の空

 

問い 心の本性は常住不変(常に存在していて変わらない)であり、諸仏も衆生も一味平等(一体で平等)だといっても、まだ真理に到達せず悟っていない衆生は苦しみを免れることはできない。このために修行して道を悟らねばならない。そうであるなら、見性ののちもまだ気を付けなければならないのだろうか。

答え 一味平等というのは知恵の照らし出すところである。修多羅(しゅたら、お経)の教えは、月をさす指のようなものである。まだ月を見たことがなければ指に頼るがよい。月を見たあとは、指も無益である。まだ仏心を悟らない時は、教えに頼るがよい。もし仏心を見届けらなら、八万の法門は、一心においてありありとしている。一心を悟りおわったのちは、一つの教えをも用いず、祖師の言葉は門をたたく瓦のようなものである。まだ門に入らない時は瓦を手に掲げるが、すでに門に入ったならば、瓦を掲げてどうしようというのか。それゆえ仏や祖師の本心を悟らないうちは、見性成仏の言葉を掲げてみるがよい。すでに大いなる解脱の門を開き、仏や祖師の本心を徹底して悟ったならば、見性といっても有難い何もなく、成仏といっても得られるものではない。仏も無く、衆生もなく、本来一物もない。三世(過去、現在、未来)は捉えることができない。

 

聖一国師(東福寺開山)仮名法語(三)

問い 見性し道を悟った人は、じかに仏だとは言っても、どうして神通力や光明に輝くようなことがないのか。また普通の人と違って、霊妙な働きとみえるようなこともない。これはどういうことか。

答え この身は、過去の妄想から造り出されているので、見性したからといっても神通力や光明は現れない。そうは言っても、六塵(ろくじん)(1)が妄想であると徹底することは神通力ではないだろうか。難行苦行にもよらず、三大阿僧祇劫を経ることなくして生死を断ち切り、じかに見性して成仏する。これが霊妙な働きである。清らかな法身(仏の本体)の知恵の光をもって一切衆生の愚かな暗闇を救う。このほかの光明に何の益があろうか。大いなる知恵の徹底のほかに神通力を願うのであれば、それは天魔(てんま、悪魔)外道(げどう、仏法以外の邪道)であろう。狐や狸も神通変化(へんげ)を行う。それを尊ぶべきであろうか。ただ無心を修行して、三大阿僧祇劫を一時に滅し、瞬時に見性成仏すべきである。

 

(1)六塵:色、声、香、味、触、法の六つ。六境とも。心を汚し煩悩を起こさせるもの全てのこと。

 

問い 見性成仏の意味は、どのような知恵をもってこれを悟ればよいのか。

答え お経やそれを研究した論書を学んで得た智を見聞覚智(けんもんかくち)と名付ける。これは暗愚な凡夫に対しての智であって、真の智ではない。回光返照(かいこうへんしょう)(2)して本有(自分に本来備わっている)の仏性を見届けること、これを恵眼(えがん)と言う。この恵眼をもって見性し成仏するのである。

 

(2)回光返照:光を外ではなく自分の内に向けて、自分本来の姿を反省すること。

 

問い 本有の仏性とはどのようなものか。また回光返照とはいったい何か。

答え 一切の衆生には自性(自分の本性)というものがある。この本性(ほんしょう)は、もとより不生不滅であり、常住不変である。それゆえ本有の自性と名付ける。三世(過去・現在・未来)の諸仏も、一切の衆生もこの本性を本地(ほんじ、本来の姿)法身(ほっしん、仏の本体)としている。この法身の光明は、周遍法界(しゅうへんほっかい、世界全体)に充満して、一切の衆生の愚昧な無明(むみょう、悟りから離れていること)を回光返照する。この回光の至らない所は無明魔界と名付けられる。この魔界に煩悩という鬼神(きじん、恐ろしい悪霊)が住んで法性(仏としての本性)を食おうとする。この煩悩の鬼に害された人は、妄念を本心だと思い込み、貪欲の種子を歓楽だと思って、三悪(さんあく、地獄・餓鬼・畜生の三悪道)四生(ししょう)(3)をめぐることになる。いったいいつ、生死を断ち切ることができるというのか。

 

(3)四生:生き物を産まれ方から四種に分類した言い方。胎生(母体から生まれる人や獣)卵生(卵から生まれる鳥獣)湿生(湿気から生まれる虫類)化生(けしょう、自らの業により忽然と生まれる化け物)。

 

問い 生死は妄念から起こる。もし妄念の起きる源を悟るなら、生死はおのずと止むのか。

答え 衆生は昼夜二十四時間、妄念によってさかさまな思い違い(顛倒、てんどう)をしており、本分である仏性を自分で煩悩の塵に埋めている。明るい月を雲が隠すようなものである。この念の源を悟ってしまえば、明るい月が雲を出るようなものである。鏡が清らかであれば、あらゆる姿がはっきりと映し出されるようなものである。さまざまな物事について行き渡り、あらゆる状況に対面しても髪の毛一筋ほどの汚れもない。これは本分の仏性が神通自在(じんつうじざい、不思議な力で思うままであること)だからである。

問い 坐禅するときの注意として、「一切の善悪についてすべて思い巡らしてはならない」というのはどういうことか。

答え この言葉は、じかに生き死にの根源を断ち切るところである。坐禅をする時だけだと思ってはならない。もしこの言葉のように至った人は、無始無終の仏である。行住坐臥(動いても留まっても座っても寝ても)の禅である。

問い 大きい念、小さい念とはどういうことか。

答え 小さい念というのは、一切の縁(えん、物事の関係)によって起こる念である。大きい念というのは、永遠の過去からの生き死にの繰り返しや貪瞋痴(とんじんち)(4)のことである。この大小三毒の念を坐禅の説きだけ止める人も、真実の道心がない人は、永遠の過去からの生き死にの根源を明らかにし、三毒煩悩の心の迷いを消し尽くすことはない。もし人がこの根源を明らかにすれば、煩悩は菩提(ばおだい、悟りの知恵)となり、生死は永遠の涅槃となり、六塵は六神通となるのである。

 

(4)貪瞋痴:三毒煩悩と呼ばれる三つの煩悩。貪はむさぼり求める貪欲。瞋は憎しみ嫌悪する瞋恚。痴は道理に暗く迷い悩む愚痴。

聖一国師(東福寺開山)仮名法語(二)

問い 善根(ぜんこん、善い報いの原因となる行為)の功徳を積まなければ、どうしてあらゆる徳が円満に備わった仏となることができるのか。

答え 善根の功徳を集めて仏になろうと願う人は、三大阿僧祇劫(1)を経過して成仏することができよう。ただ直指人心見性成仏(じきしにんしん、けんしょうじょうぶつ)(2)を修める人は、自己本来に立ち返るだけである。初めて仏という修行の成果を得るというわけではない。

 

(1)阿僧祇劫(あそうぎごう):「阿僧祇」は無数を意味する語で、劫は最大の時間単位。無数の劫という無間に永い時間のこと。菩薩が仏になるまでの段階を三つに分け、それを三阿僧祇劫と言った。

(2)直指人心見性成仏:禅の立場を表す語として知られる。「直接人の心を指して、本性を見届けさせ、成仏させる」。

 

問い 禅を修行する人は、善根の功徳の力を嫌うべきなのか。

答え 他人に利益を与えるために善根を積むけれども、望みというものが無いので、功徳を期待することはない。いかなる時においても無心であるからである。

問い 無心を最上のものとするなら、誰を見性し仏道を悟った証しとすべきなのか。

答え 一切の悪しき知識や見解、思慮分別を止めるのを無心の究極と言うのである。修行という見解を起こさないので、成仏をも望まない。迷いという見解を起こさないので、悟りをも求めない。大衆に交わるという見解を起こさないので、尊敬や名誉も喜ばない。憎しみや愛といった見解を起こさないので、自分と他人の親しさ疎遠さの差別もない。一切の善悪についてすべて考えない、これを無心の道人(どうにん、仏道を得た人)というのである。この道は、凡夫や二乗(にじょう)(3)が知ることのできるものではない。

 

(3)二乗:声聞条と縁覚条の二つ。自己の解脱のみを目指す小乗の聖者のこと。

 

問い さまざまなお経の中には、あらゆる善行の功徳を説いたものが多い。なぜ無心の功徳を直接説かないのか。

答え 本覚(ほんがく、仏としての本性を悟った)の菩薩は、すでに立派に理解しているが、それゆえに説かない。なので、法華経に、「無智人中莫説此経(無知の人の中にしてこの経を説くことなかれ)」(4)と説くのはこの意味である。さまざまな教えに八万四千の法門があるとはいっても、その源を尋ねれば、色空(しきくう)の二つの真理を出ることはない。色とは四大五蘊(しだいごうん)(5)からなる体であり、空とは、煩悩や菩提(悟りの知恵)の本性である。この身体に形があるので色と言い、心は形がないので空と言うのである。すべての境地は、この身心より以外に説くべきことはない。

 

(4)「無智人・・・」:法華経比喩品第三に出る。

(5)四大五蘊:四大は世界の構成要素と考えられた地・水・火・風の四元素。五蘊は人間を構成する五つの要素で色(物質)受(感覚)想(イメージ)行(意志)識(認識作用)。

 

問い この四大からなる形体(身体)は、元来、迷えるものか、悟っているものか。

答え 色心ともに本来、迷いや悟りの違いはない。一切は仮に姿を現しているもので、ただ夢や幻のようなものである。あらゆる事柄すべてについてあれこれ考えてはならない。

問い 二乗にもこの無心があり、菩提があり、涅槃(悟りの境地)がある。大乗とどれほどの違いがあるのか。

答え 声聞、縁覚の羅漢(らかん)(6)は、初めから身心を煩悩だと思ってこれを嫌い、身心を滅し尽くして枯れ木や瓦石のようである。このように修行しても、無色界(むしきかい)(7)の天人となるのである。これはすべて正しい仏法ではなく、小乗の得る結果である。大乗の無心とは異なっている。

 

(6)羅漢:阿羅漢。悟りを開いた仏弟子、高僧。

(7)無色界:心の働きだけからなる世界。三界(さんがい)の一つで、欲界、色界の上位の世界。

 

問い 大乗の菩薩には、この無心の道があるのかないのか。

答え 菩薩は、十地(じゅうじ)(8)に至るまでは迷いの知の妨げがあるのでまだ叶わない。その迷いの妨げとは、十地までは真理を求める望みがあるので、本来の姿にかなわないのである。等覚(とうがく)(9)を得た時、初めてこの無心の道に至るのである。

 

(8)十地:ここでは、悟りに至るまでの階梯を十の段階に分けた、最後の段階。

(9)等覚:菩薩の悟りの知恵が仏と等しくなった状態。正等覚。

 

問い この菩薩でさえ叶えられないのに、どうして初心の人がたやすくこの道を成就できようか。

答え そもそも真正の仏法は不可思議なものである。三賢十聖(さんげんじっしょう)(10)の位を立てることは、素質の劣った人のためである。素質の優れた人は、仏道への心をおこすとき、無心の正覚(ただしい悟り)を得るのである。

 

(10)三賢十聖:菩薩の段階のうち、十聖は十地であり、聖なる階位。それ以前の十住、十行・十回向はいまだ凡夫の階位で三賢と言われる。

聖一国師(東福寺開山)仮名法語(一)

聖一国師(しょういちこくし:1202-1280)=臨済宗東福寺の開山、円爾(えんに)禅師の仮名法語。底本:『禅門法語集 中巻 復刻版」ペリカン社、平成8年補訂版発行〕

*〔 〕底本編者による補足、[ ]はブログ主による補足を表す。

( )付数字はブログ主による注釈。

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仮名法語

                            東福聖一国師

 

そもそも坐禅の宗門というのは、大いなる解脱(げだつ)の道である。さまざまな仏法はみなこの門から流出し、あらゆる修行もみなこの道から行き渡り、知恵や神通(じんつう)といった優れた働きもこの中から生じ、人間界や天上界の命運もこの中から開けるのである。それゆえ諸仏はすでにこの門に安住し、菩薩もまた修行してこの門に入る。あるいは小乗仏教や外道(げどう)(1)も修行するといってもいまだ正しい道にかなっていない。およそ顕密(けんみつ)(2)のさまざまな宗派もこの道を得て自証(みずからの悟り)としている。それゆえ祖師が言うには、十方(じっぽう、全方位)の智者はみなこの宗に入るとおっしゃるのである。

 

(1)外道:仏教以外の教えのこと。

(2)顕密:顕教密教

 

問い この禅門をさまざまな仏法の根本と言っているのはどのようなわけか。

答え 禅とは仏心(ぶっしん)である。律(戒律)は外側の姿である。教(きょう、教え)は言説である。称名(念仏)は方便である。これらの三昧(さんまい、心が乱れずに集中すること)はみな仏心より出ている。それゆえにこの宗を根本とするのである。

問い 禅の法(真理)は無相(むそう、姿形がないこと)を本体とする。そうであるなら、どのように霊妙な徳が姿を現し、見性(悟り)も何をもって証拠とするのか。

答え 自らの心、これが仏である(自心是仏、じしんぜぶつ)。このほかに何を霊妙な徳としようか。自らの心を悟りおわるよりほかに、何の証拠を求めようというのか。

問い この一心を修行するなら、それは一つの真理でありましょう。あらゆる修行、あらゆる善行を修めるなら、その功徳が一つの真理に劣るということがどうしてありましょうか。

答え 古人が言うには、「頓に如来禅を覚了すれば、六度万行(3)、体中に円(まどか)なり(如来のお伝えになった真実の禅を一瞬にして悟れば、六度万行はその悟りの本体の中に円満に備わっている。)」と(4)。そうであるから、禅という一つの真理は、一切の真理を備えているのである。だから、世間の事でも、「万能一心に如かじ(いろいろ能力があるのも一心に専念するのには及ばない)」と言うのである。それゆえあらゆる修行を行っても、一心の迷いを消せないと悟りを得ることはできないのである。もし悟らなければ、何をもって成仏としようというのか。

 

(3)六度万行(ろくどまんぎょう):六波羅蜜のこと。布施、持戒、忍辱、精進、禅定、知恵の六つの道を修行すること。

(4)「頓に・・・」:永嘉禅師『証道歌』に出る。

 

問い この仏心宗(禅宗)をどのように修行すべきであろうか。たとえ修行しても、悟りを得られるとは決まってはいない。もし決まっていないなら、修行しても何の得があろうか。

答え この宗門は、不思議解脱(思考を超えて解脱に至る)の道であるので、もしも一度耳に触れた者は、菩提(悟りの知恵)の優れた原因となる。もしこの宗門を修行するなら仏心の至極とするのである。それゆえ仏心はもとより迷いも悟りもなく、まさにこれは釈尊が雪山で六年坐禅の霊妙な修行をなさった結果がこの宗門に明らかになっているのである。未だ仏道を成就していなくても、一時(いっとき)(5)坐禅すれば一時の仏、一日坐禅すれば一日の仏である。一生坐禅すれば一生の仏である。このように信用する人は、大機根(立派な素質)をもつ大いなる仏法の器なのである。

 

(5)一時:昔の時間単位で2時間ほど。

 

問い もしこの道を修行するとすれば、そのように心がければよいか。

答え 仏心は無相(むそう、姿形がない)無著(むじゃく、執着がない)である。金剛経に言うには、一切の相(姿形)を離れているのを諸仏とする、と。それゆえ行住坐臥(ぎょうじゅうざが、動く留まる座る寝る)の四つの振る舞いにおいて、無心無念でいるところ、これが本当の心の用い方であり、修養である。

問い そのような修行は、信じがたく、行いがたい。ただお経を読み、呪文を唱えたり、あるいは戒律を保ち、または念仏称名したりして、その功徳を期待したいと思うのはどうなのか。

答え お経や呪文というのは、文字ではなく、一切の衆生の本心なのである。本心を失っている人のために様々な喩えを使って教えて本心を悟らせ、迷いの生死を止めようとするがための言葉である。本心を悟り、根源に返る人は、真実のお経を読んでいるのである。文字を本当のお経とは言ってはならない。もし文字を口々に唱えてそれが最上のものと言うなら、寒い時に「火」と言って暖かになったり、熱い時に「風」と言って涼しくなったりするだろうか。また飢えて食べ物の名前を唱え、ほしい物を決めたりして満腹するだろうか。だから一日中「火」「火」と唱えても熱いはずはなく、一晩中「水」「水」と言っても口が潤うことはないのである。文字や言葉は絵に描いた餅のようなもの、一生のあいだ口に唱えていても飢えが止むことはない。悲しいかな、凡夫(ぼんぷ、悟りのない普通の人)は、生死の妄想が深く、様々な物事について、しきりに有所得(何か得るものがある)という考えをしている。これは大いに誤った考えである。一切の物事を行っていても、有所得の心がないのを、大乗の般若(悟りの知恵)と名付ける。これは、諸仏の無相で清らかな知恵である。この知恵は、生き死にの根源を断ち切るので、般若の利剣(鋭い剣)と言うのである。