月庵禅師仮名法語(十八=終わり)

〇 在家の人に示す

 

 一切の道理は、自分というものがあるときに起こるので、自分を忘れるならば、いったいどんな道理がありましょうか。ただこれ、物事の成り行きに任せ、機縁に従うまでのことです。これは凡人の在り方でも聖人の在り方でもありません。また肯定するのでも否定するのでもありません。自然のままで自由な受け止めであって、どうして善悪を選ぶことがあるでしょうか。それだから「智者は物に任せ、おのれに任さず。愚人はおのれに任せ、物に任さず」とかまた「逆行順行、天も計る事なし(逆らって進んだり、そのまま進んだり、天さえも伺い知ることはない(1)」と言われるのです。もしこのところの道理を信じるなら、見聞きすることはその跡をとどめず、現われたり去ったり、生じたり滅したりすることも結局捉えることはできません。信ずる心が薄いので人に惑わされ、周りの状況に翻弄されて、主となることができません。ややもすれば、数えきれないほどあれこれ思案を起こします。これは実に、愚かに迷った者の虚妄の見解です。支持すべき主張ではありません。きっと身命を惜しまず、全力で取り組みなさい。忽然として大笑いすることがあれば、天地がひっくり返るでしょう。疑ってはなりません。

 

(1)逆行順行・・・:永嘉大師『証道歌』に出る言葉。

 

〇 宰相中将殿の問いに答える

 

 問い。散り散りに乱れ飛ぶような想念が起こる時には、どのように応対すればよいでしょうか。答え。散り散りに乱れ飛ぶ想念というのは、起こる物も、起こす者もありません。ただ眼の病にかかっている人が、空中に花があるように見るようなものです。この花は眼から出たわけでもなく、空中から生じたわけでもなく、ただ眼に病があるから、みだりに空中に花の姿を見るのです。乱れ飛ぶ想念もまたそのようなものです。それゆえに、これを妄見(もうけん、虚妄の見解)といい、あるいは妄想といいます。眼病がなければ妄見はなく、思慮分別がなければ妄想は起こりません。ただ一切の迷って逆転した見解は、虚妄の心が思慮分別することから来ます。虚妄の心が起こらなければ、一切の心境はすべて正真の大道です。このところで即座に徹底しつくせば、あれこれの必要はありません。もしまたそうでなければ、ただ散り散りに乱れ飛ぶ想念のところについて、まっすぐにこれを窮めてみなさい。必ず透脱(とうだつ、束縛を脱すること)する時が来るでしょう。

 

仮名法語 終わり