月庵禅師仮名法語(四)

〇  存上人に示す

 

 仏道に向かうことにおいては、誠(まこと)ということを保つこと以上のことはありません。誠を保っていれば、すべての縁、すべての状況はみなそのまま仏道であって、このほかに別に道はありません。保たないときは、目に触れても道を得ることはできず、何かというと、妄念を除いて道を明らかにしようと思います。それゆえに是(ぜ、肯定すべきこと)を受け入れて非(ひ、否定すべきこと)を捨て、妄(もう、誤り)を嫌って真(しん、真実)を求め、昼も夜も心を苦しめるばかりで、悟ることはありません。ただ今生きている一生がむなしく過ぎるだけでなく、千回生まれ変わり一万劫(ごう(1))という長い時間、悪道(地獄、餓鬼、畜生の三道)に浮き沈みして苦しみを受けることがやみません。実に憐れむべき者です。しかも、誠という言葉を聞いても本当に誠という道理を知る人はまれです。そもそも誠というのは、二心(ふたごころ)が無いのを言うのです。二心がないというのは、是は是であって、どうして是なのかという理屈はなく、非は非であって、どうして非であるかという理屈はない。生は生であって、なぜ生かという理屈はなく、死は死であって、なぜ死かという理屈はない。あるいは一切の念がその物に即して(一つになって)、なぜ物に即するかという理屈はない。ただ直に見、直に聞いて、さらに再び振り返らない、それがそのまま、あなたの本来の面目(2)が現れる時なのです。これを仮に二心がないと言うのです。あらゆる事柄を混ぜ合わせて一つにし、二つではないと言うのではありません。そうとは言っても、この言葉を見て、その道理を心得、理解したことを究極であるとしてはいけません。実際に誠を保つということと一致しなければなりません。誠を保とうと思うなら、ただ志を励まして進む以上のことはありません。志が切実であるときには、誠を保とうという心すら忘れ果てて、全身がただこれ一つの生きた鉄の塊ようであり、ここに至ってさらに自分をとどめることなく、いよいよ志を激しく励まして進みなさい。志が極まって忽然として変化するとき、大地山河が身に和して一時にひるがえります。ここで初めて、三世(過去・現在・未来)の仏たち、歴代の祖師方、天下の老和尚たちが共に棒で痛く殴られるほどの所に至るのです。少し言ってみなさい。誠を保っていますか、いませんか。私は甘んじて土塊を追う狂った犬(3)となりましょう。試みに述べてみなさい。

 

(1)劫(ごう):もとインドにおける非常に長い時間単位。「カルパ」が劫波と音写されたものから。

(2)本来の面目(2):本来の姿。本性の姿。

(3)土塊(つちくれ)を追う狂った犬:狂狗塊(つちくれ)を追う、漢語から。狂った犬は投げた人ではなく投げられた土塊にかみつく。土塊は、ここでは言葉のことであろう。