月庵禅師仮名法語(七)

〇  在家の女性に示す

 

 自分の心は本来これ仏なのです。千回生まれ変わり一万劫という長い時間を経ても、けっして迷ったということはないのです。迷ったということがなければ、また悟らねばならない真理というものもありません。すでに迷いとか悟りとかいうことが無ければ、そのままで真実であり、元来、生死を離れています。生死を離れているので、来るといってもそこから来る所もなく、去るといってもそこへ去る所がなく、とどまるといってもとどまる所がありません。三世(過去・現在・未来)の心は把握することができないので(1)、すべての物事は、みな等しく解脱(げだつ)しています。どこに滅ぼすべき無明(むみょう、真理に暗い無知)がありましょうか、どこに断つべき煩悩がありましょうか。善悪がないので地獄も天国もありません。邪正がないので仏の世界も魔の世界もありません。心念が生じるようでいてまったく生じてはおらず(不生)、心念が滅するようでいてまったく滅してはおりません(不滅)。それゆえに、一切すべての物事、心を持つものも持たないものも、最終的に空寂(くうじゃく(2))なのです。このような本来の真理を知ることなく、ただ目の前の姿形について限りない妄念を起こし、生死がないところに生死を見、迷いも悟りもないところに迷いと悟りを分け、何度も生まれ変わって輪廻を繰り返す業(ごう)が絶えないのです。それゆえ法華経に、「舎利弗当に知るべし 鈍根小智の人 著相憍慢(じゃくそう・きょうまん)の者は是の法を信ずること能わず(3)(舎利弗よまさに知るがよい、素質が悪く智慧の乏しい者、姿形に捉われて驕り高ぶる者は、この真理を信じることはできない。)」と言うのです。それゆえ、龍女が成仏した(4)のは初めて成仏したのではありません。ただ本来これ仏である道理を明らかにしたのです。実際に男女の相があると思ってはなりません。そえゆえに龍女は姿を変えて男子となったと言うのです。また元来迷いも悟りもありませんから、たちまち南方世界に行ったと言うのです。このように身心が本来清らかである事をそのまま信じるなら、たとえ今の一生で悟ることがないといっても、この信じる力によって未来永劫悪道(地獄・餓鬼・畜生道)には落ちず、成仏することは疑いありません。

 

(1)「三世の心不可得」:金剛般若経に、「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」とある。

(2)空寂:実体がなく有無、生滅を越えている。

(3)方便門に出る語。

(4)法華経提婆達多品に出る話。

 

〇  慶中大師に示す

 

 様々な仏が世に出られたことも、祖師西来(そしせいらい、達磨大師がインドから中国に来たこと)もすべて、ほかの事ではなく、ただ人に本来備わっている自らの本性を直接指し示すだけです。その本来備わっている自らの本性とはどのようなものかと言うなら、見聞覚知(けんもんかくち、見聞きすること)語黙動静(ごもくどうじょう、話しても黙っても、動いても留まっても)あるいは一切の働き、一切の境地、すべてがそれです。少しでも想念を起こしてなるほどと頷こうとすれは、たちまち離れてしまいます。それゆえ、臨済禅師の門下に入れば、すぐさま一喝を浴びせ、徳山禅師の門下に入れば、すぐさま棒で殴りつけ、どうしてためらいや思案の入る余地がありましょうか。あなたはただその場で見てとりなさい。このほかにさらに何事を説くというのでしょうか。

 

〇 かさねて示す

 

 仏祖一段の大因縁(仏や祖師方が世に出られる所以であるまさにこのこと)は、天をおおい、地を覆って行き届かないという所はなく、過去に渡り、現在に渡って断絶した時というものもなく、これはまた心を持つだとか持たないとかの境地を超えていて、どうして思慮分別が及ぶところでしょうか。それゆえ昔から確かな目をもった尊敬すべき師が人に示すために、少しでも心の働きが出る前に直ちに裁断して疑念を入れさせず、まるで稲妻が走り、流れ星が飛ぶようなものです。たとえば、ある僧が雲門禅師に尋ねた。仏とはどのようなものですか。答えて言った。乾いた糞の棒だ。また尋ねて言った。一念も起こさない時は、落ち度があるでしょうか、無いでしょうか。答えて言った。須弥山(しゅみせん、世界の中心にある高い山)のようだ。ある僧が趙州禅師に尋ねた。犬には仏性があるでしょうか無いでしょうか。答えて言った。無。またある時言った。有。また僧が尋ねた。祖師(達磨大師)が西からやってこられた意図は何でしょうか。答えて言った。庭先のイブキの木。倶胝(ぐてい)禅師はおよそ何か尋ねられると、ただ指を一本立てた。魯祖禅師は僧がやって来るのを見ると壁を向いて座ってしまう。臨済禅師はすぐさま喝し(大声で叫ぶ)、徳山禅師はただちに棒で殴る。素質がよく智慧の優れた人は、即座に身をひるがえして古来の路に行き、手放しですべての働きが生き生きと卓抜である。素質や知恵が中ほどか劣っている人は、反応が遅いし鈍く、そのようにはいかない。それゆえ昔の人は、仮の手段を設けてしばらく坐禅して探求することを進めるのです。そうはいっても、坐禅して探求しても悟ることが遅くて、ひょっとすると十年、二十年を経る人もいる。また一生のうちについにかなわずに空しく終わる人もいる。これらは皆、正しく信じる心がなく本当の志が薄いことによるのです。洞山禅師がある僧に尋ねた。世間でいったい何が最も苦であるか。僧が答えて言うには、地獄が最も苦である。洞山が言うには、地獄はいまだ苦ではない。袈裟を着ていながら仏法を明らかにせず、人の身を失うこと、これが大いなる苦しみであると言う。まずこのことの意味をよくよく理解してください。そもそも在家の人は、非常に多くの重罪をおかし、口業(くごう、言葉によって悪い結果を招くこと)も深いので、地獄や餓鬼といった諸々の悪道に落ちるとは言っても、不思議な仏法の縁にあってそこから浮かび出て、また人の身を受けることもあるでしょう。しかし出家の人で道心がないのは、仏の衣鉢(いはつ、袈裟と鉢)を盗み、僧や尼の姿をまねているばかりで、むなしく信じず、気づかず、先達の勧めにあっても気づかず恐れず、ただ自分の感情に基づいて、思うように振る舞い、怠惰でなまけ、恥を知らず勝手きままなので、今の一生だけではなく、たとえ無限に長い時間を経ても、仏法の種がなく、縁もないので、道心の起こることはまったくあるはずがないのです。長く人の身を失って、悪道に沈み果ててしまうこと、これは大いなる苦しみではないでしょうか。仏も、縁のない衆生はお救いにはならないので、どのような慈悲や方便も役に立たず、本当に憐れむべき者なのです。このような道理を思い知って、大いなる誓いと努力の力を奮い立たせて、正しい信念を起こし、本当の志を進めて、今の一生で仏法を明らかにしようと思ってください。そもそもどのようなものが正しい信念かと言えば、ただ一切の思考や配慮、さまざまな道理を離れた所を、仏法に入る道の入口だとまず信じなさい。たとえこのように信じたとしても、本当の志がなければ、悟ることは難しい。本当の志というのは、さまざまな道理がないとき、教外別伝(きょうげべつでん)の所とはどのようなものかと、真剣に目をつけて極め見てください。かえすがえすも少しも怠らず、ほんのしばらくも放置することなく、行住坐臥一切のところ、一切の時において、たいへんな悩みのある人のように、念々忘れてはなりません。昔の人は、これを譬えて、父母が一度に亡くなったかのように、自分の頭を切られたかのように思いなさいと言いました。そのように熱心に心を傾ければ、修行の機が熟して、必ず悟る時が来るでしょう。この時初めて知るでしょう。金屑眼中翳(きんせつげんちゅうのえい)(尊い金のかけらも目に入ればかげとなる)

衣珠法上塵(えじゅはほうじょうのちり)(衣に縫い込まれた宝石も仏法の塵)。

己霊猶不重(これいなおおもんぜず)(自分の精神すらも重んじない)。

仏祖是何人(ぶっそこれなんぴとぞ)(仏や祖師方が何であろうか)。(1)

 

(1)雲門禅師(862~949年、雲門宗の開祖)の詩(『雲門広録』)。後半に関しては、石頭禅師(700~790年)の「不慕諸聖 不重己霊」(聖人を慕わず、己の精神も重んじない、『祖堂集』)を踏まえるか。