永平仮名法語(道元禅師仮名法語)(九)

〇 見性

 

見性(けんしょう)というのは仏性(ぶっしょう、ほとけである本性)である。あらゆる物事の真実の姿である。衆生の心の本性(ほんしょう)そのものである。この本性は有情(うじょう、命あるもの)非情(命のないもの)すべてに渡り、凡夫でも賢人や聖者でも全てに及んでどこかに留まるという所がない。それゆに無住(とどまるところがない)の本性というのである。有情にあっても有情に留まらず、非情にあっても非情に留まらず、善にあっても善に留まらず、悪にあっても悪に留まらず、色(しき、物)にあっても色に留まらず、形にあっても形に留まらず、一切に留まらないので無住の本性というのである。またこの本性は、色にあらず、有にあらず、無にあらず、留まるのでなく、真理に明るいのではなく、暗いのでもなく、煩悩にあらず、悟りの心にあらず、まったく真実の本性はない。これを悟るのを見性と名付けるのである。衆生はこの本性を見失っているので、六道に輪廻する。諸仏はこの本性を悟るので、六道の苦しみをお受けにならない。願わくば、仏道を学ぶ人は、自分の心の本性はこの本性であって、もとより不生不滅であり、常住不変(つねにあって変わらない)で本性が無いと覚り、心の本性とは別に仏性を求めてはならない。それゆえ古人も言うように、衆生の本性はそのまま仏性であり、この心の本性を離れて仏はなく、この心の本性を離れて衆生はない。喩えるなら水と波のようなものである、と。また言う、寂滅(じゃくめつ)*の本性である。寂滅の本性は、涅槃(ねはん)**の本性である。涅槃の本性は、自分の本性である。衆生が地獄にあるときも、この本性は立ち去らず、それゆえ衆生が仏になるときも、この本性を離れない。ある僧が大殊禅師***に尋ねて言った「大涅槃の本性とはどのようなものでしょうか。」大殊禅師が答えて言うには、「生死の業(ごう)を作らない人、これが大涅槃の本性である」。また尋ねて言うには「生死の業とはどのようなものでしょうか。」答えて言うには、「大涅槃の本性を求めること、これが生死の業である。」ここにおいてこの僧は大いなる悟りを開いた。よく分かることだが、やはり生をもって悟りを求め、涅槃を求める人は、みなこれ生死に流転するであろう。もとより生死はないのであるから、いまさら涅槃を求めるなかれ。これを見性と名付ける。このことがまだ納得できないならば、見るがよい、柳は緑、花は紅である。

 

*寂滅:涅槃経に出る無常偈と呼ばれる四句の偈に「諸法無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」(様々な物事は無常である。これは生じたり滅したりする道理である。生じたり滅したりすること自体が無くなったとき。その寂滅が安楽である。」とあり、寂滅とは生滅が滅し終わった状態、涅槃の状態を指す。

**涅槃:サンスクリット語ニルヴァーナ」の音訳。炎が消えた状態を意味し、煩悩が消滅し、輪廻から解放された状態を指す。

***大殊禅師:唐代の大珠慧海禅師(生没年不詳)か。馬祖道一禅師の弟子。

 

〇 得法

 

得法(とくほう、真理を得る)というのは、無法(むほう、真理がない)ということである。無法とは、さまざまな仏の心の真理であり、衆生の本来清浄な心の真理である。有為(うい)*の真理ではなく、無為の真理でもなく、生滅の真理ではなく、寂滅の真理でなく、本来常住不変の真理である。それゆえに釈迦仏が言うには、本当の真理は、無法であり、無法の真理もまた真理である。今、無法を伝授するとき、伝授される真理と伝授された真理はどうして未だかつて真理であったろうか、云々と。また金剛経に言うには、仏法とはすなわち仏法ではない、これを仏法と名付ける、と。また師子孔雀経に言うには、真理はただの一字である。いわゆる無の字である。もとより言葉の説明はない。どうして説明する所があろうか、と。また浄名経**に言うには、説き聞かせている真理というのは、有ではなく、また無でもなく、因縁があるゆえにさまざまな物事となっているだけだ、と。また法華経に言うには、この真理は真理の位に留まっており、世間の姿は常住である。また言うには、真理は常に無生(むしょう、生じるということがない)である。仏種(ほとけとなる種、教え)は縁によって起こる、それゆえに一乗(いちじょう)***を説くのである。また言うには、ただ一乗の真理だけがあって、二つもなく三つもないとお説きになられた。今言っている一乗の真理というのは、我々の心の本性のことである。祖師が言うには、我々の心の本性としてたった一つの真理も伝えないのを名付けて、心法(しんぽう、心の真理)を伝えると言うのである、と。大慧禅師****の言うには、この真理はもとより自分の心の真理であって、外から得たものではない、また師匠によって得たものでもない、ただ一つも真理として授けるべき真理はなく、もし授けるべき真理があるとすれば、それは生死を解脱する真理ではなく、無明(むみょう、真理に暗い無智)の真理である。また言うには、今、達磨のお伝えになる不立文字(ふりゅうもんじ)の心の真理とは、もともと言葉による説明を離れているのであるから、この真理は有(う、存在しているもの)を手がかりに求めてはならず、言葉の説明を手がかりに求めてはならず、無言を手がかりに求めてもならない。真理を手がかりに尋ね求めてはならない、すべて一念でも生じてこの真理を尋ねてはならない、もし一念を生じてこの真理を問おうと思うならば、みな仏や祖師の心に背き、この心の真理に行き当たらない。それゆえ古人も言っているように、わずかでも心を生じるならたちまち背いてしまう、念を動かせばすぐさま間違う、ただ一念も生じなければ、自然に仏や祖師の心に合致するのである、と。また鑑智禅師*****が言うには、「一心不生 万法無咎(いっしんふしょう ばんぽうとがなし、一心も生じなければすべての物事に過ちなどない)」******。過ちなどないのだから真理ではなく、心でもない、と。言うには、このように心得て、一念も生じない所に差し向って、心に煩いがないのを、得法の人と言うのである。このことがなお納得できないなら、見るがよい、烏は黒く、鷺は白い。

 

*有為:因縁によって生じる、生滅する物事。無為はその否定。

**浄名経:維摩経の別名。

***一乗:乗は救いへと導く乗り物のことで、一乗はあらゆる衆生を導く唯一絶対の教えを意味する。

****大慧禅師:大慧宗杲(だいえそうこう)禅師、1089年~1163年。公案を用いる看話禅(かんなぜん)の大成者と言われる。

*****鑑智禅師:中国禅宗第三祖。僧璨大師。

******「一心不生 万法無咎」:『信心銘』に出る。