月庵禅師仮名法語(十五)

〇 明貞道人に示す

 

 自分のこの身心全体は、もとより迷うことのないものです。それゆえにこれを名付けて仏と言います。そもそも仏というのは、容貌が厳格で赤々とひかり輝き、自由に空を飛び、神通力で姿を変えるといったことを言うのではありません。そのような仏は、ただいっとき、無知な凡夫のために優れた姿を現して信仰を生じさせ、真実の道に導きいれるための手段なのです。真実の仏というのは、有相(姿かたちのある)のものではなく、さまざまに執着する心がなく、念々に精進をする姿、そのものなのです。また自分のこの身も、本当に姿かたちがあると思ってはならず、四縁(しえん)(1)が仮に合わさってできただけです。四縁というのは、地水火風です。この地水火風は、姿かたちがあるようには見えますが、実際には姿かたちはありません。夢まぼろし、水の泡や影のようなものです。この四縁が仮に合わさって人となると、自分ではないものを本当に自分であると思って我執を深くします。それゆえ自分に従う者を愛して喜び、自分に背くものを憎みねたみます。この心が悪道に落ちる業(ごう、自分の行いの結果)となって、生まれ変わり世を変えて輪廻の苦しみが絶えませんが、これもまた別のことではありません。直に仏であるといっても、愚かな人はまったく信じることなく、その教えを用いることができません。それゆえに、釈尊は、韋提希婦人(いだいけぶにん)(2)のために西方極楽世界、阿弥陀仏を信じて念仏称名して一心に念じれば臨終のときに必ず迎えに来てきっと往生すると説かれました。これを信じてひとえに他力を頼み、念仏するなら、どのような極悪な人でも仏法との縁が絶えることはなく、後には必ず極楽往生して十二大劫という長いあいだ蓮の腹に身ごもられて、その後、観音菩薩勢至菩薩などの菩薩が大乗仏教の真理をお説きになるのを聞いて、初めて菩提心仏道を求める心)を起こすだろうと言われます。自分の心がそのまま仏であることを信じない人のために、その人の素質をあれこれ言わずに(3)方便を用いてこのように説くことは最も大事なことでしょう。少しでも霊性のある人は、十二大劫の過ぎた後で初めて道心を起こすはずのことを延々と待つべきではなく、ただまっすぐに道心を起こして直ちに仏法を明らかにすべきです。そうであれば、釈尊阿弥陀仏の本意にかなうでしょう。そもそも仏法を直ちに明らかにしようと思うのなら、ただ心に生じてくる一切の念、あらゆる行いは、すべてこれ仏です。このように直接示してもやはり疑いがあって真理に遠いように思われるならば、まず心の一切の念をやめて、何ともかんとも知られないところにむかって坐禅参究しなさい。心を静めて坐禅すれば、何ということのない思いが始終起こってきて、その後は眠るばかりです。念が生じるのも眠気が来るのも、みなこれ仏の心です。すべては別のものではないと深く信じて、嫌いいやがる心を起こしてはいけません。ここにおいてまた何とも知ることができないので、何か茫々暗たんとして取り付くところがなく、進むべき道もないと思って退いてはいけません。もし少しでも取り付くところがあるならば、それは生死の絆(きずな)です。何とも知ることのできないところ、それがそのまま生死を出る路であると、深く信じて疑わず、夢が覚めるようにして、一切の疑いがたちまちやむ時が来るでしょう。この時はじめて自分のこの身心が何でもありはしないことを悟って大いに笑うでしょう。またたとえ今の一生でこのように明らかにすることが間に合わなくても、こう信じる力が強ければ、業に引かれて悪道(地獄・餓鬼・畜生の三道)に落ちることはありません。再び人の身を受けて幼いころから仏法に入って、すみやかに悟る人になるでしょう。疑ってはなりません。

 

(1)四縁:物事の原因を四種に分類した説を言うが、ここでは地水火風(四大)と捉えている。四大は古代に考えられた世界を構成する四つの元素。

(2)古代インドのマガダ国のビンビサーラ王の妃。夫が子のアジャセ(阿闍世)王に幽閉された時、釈尊に教えを請い、釈尊が浄土往生を説いたとされる。観無量寿経に出る。

(3)原文は「機をもをさゝる」とあるが意味が取りにくく、ここでは「機を申さざる」と理解する。