2021-01-01から1年間の記事一覧

永平仮名法語(道元禅師仮名法語)(二)

〇 理致 理致(りち)というのは、様々な善やあらゆる法(真理)の根源であり、諸仏の本源であり、衆生の本心である。この道理を見失っているので衆生となるのである。諸仏は、この心をお悟りになるので、仏となられるのである。経に言うように、正しい教え…

永平仮名法語(道元禅師仮名法語)(一)

*道元(どうげん:1200-1253)禅師の仮名法語。底本:『禅門法語集 中巻 復刻版」ペリカン社、平成8年補訂版発行〕 *〔 〕底本編者による補足、[ ]はブログ主による補足を表す。 *はブログ主による注釈。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー …

大応仮名法語(十=終わり)

〇 病中の者に示す 病の中での工夫(くふう:心を尽くして修行に打ち込むこと)は、ただ心に物を懸けないことである。これは今生での祈祷であり、また来世での菩提(悟りの境地)である。これ以上のことはない。たとえ死の免れがたい状況であっても、必ず助…

大応仮名法語(九)

〇ここまでこまごまと書いて来たが、つまるところはただ、公案を一つ持って、どのように答えようかと思案されれば、答え方に思い至ることができるのである。そのようなことがある場合には、善知識(指導する師僧)の所へ行ってその様子を申し上げるのだ。師…

大応仮名法語(八)

(続)大恵禅師*が言うには、たとえ最後まで通らなくとも、般若(知恵)の中にあると言う。ただこの自分の身のことを思うのならば、自分の身を思わず、木石のようになりなさい。木人は人が打っても痛むことはなく、罵っても腹を立てず、非難しても怒らず、…

大応仮名法語(七)

(続)法華宗で[南無妙法蓮華経の]妙の字を説明するときには、妙とは心であると言う。このように心得れば、唱えなくとも常に念仏し、修行を行わなくとも自然と極楽の衆生である。これは教家*の言うところである。もし教外別伝**ということになれば、鏡…

大応仮名法語(六)

〇また、この心を一つの鏡に喩える。心に浮かぶ念を、鏡に映る姿に喩える。この心の鏡に、善を行う時は善の姿が映り、悪を行う時は悪の姿が映る。心で捉えた行いやその結果のすべては、心の姿となって、この姿にひかれて六道四生*の輪廻に沈むのである。心…

大応仮名法語(五)

〇また言う。法法本来法(個々の姿はそのまま真実の姿)であり、心心無別心(時々の心のありさまは、そのまま仏心)である。世界や国土がいまだ姿を現さず、仏の世界と衆生(生きとし生ける者)の世界とがいまだ二つに分かれない前、この心は一人己を現し、…