永平仮名法語(道元禅師仮名法語)(二)

〇  理致

理致(りち)というのは、様々な善やあらゆる法(真理)の根源であり、諸仏の本源であり、衆生の本心である。この道理を見失っているので衆生となるのである。諸仏は、この心をお悟りになるので、仏となられるのである。経に言うように、正しい教えには無数の違いがあるとはいえ、様々な善は一つの道理である等々。また、円悟禅師の言うように、この大法(大いなる真理)の道理は、三世(過去・現在・未来)の諸仏が同じように証明したもので、歴代の祖師が共に伝えたものである。その一つの道理というのは、すなわち心鏡(すべての物事を映している心の鏡)が如如にして(あるがままであって)すべてのものは空である。まさにこれは大乗の本当の真理なのである。仏はこの道理を説くために世に出ること八千度である。この道理とは、我々衆生の心の本性なのである。生まれる時もこの道理から生まれる。喩えるなら水と波のようなものである。もし自分の心の道理を離れて別に仏があり、心があり、または道理があると思うなら、身体を離れて影を求め、水を離れて波を求めようとするようなものである。それゆえ昔の人も言ったように、道理を見て取らずに仏道の修行をしようとする者は、ただ寝そべっている牛が反芻(はんすう)しているようなものである。道理を知らない人が布施をするのは、繋いである犬が柱の周りを廻るようなものである。道理を見て取って仏道を修行する人は、人が目を開いて、晴れている時に太陽や月を見るようなものである。道理を了解して布施を行う人は、燈火と光を持っているようなものである。そうであるから、あらゆる教えを学ぶよりは、心の唯一の道理を見て取るには及ばない。あらゆる修行を行うよりは、心の唯一の道理を会得するには及ばない。ただ心の唯一の道理を修めることは、あらゆる教えを学び、あらゆる修行を行うことに勝っている。それゆえに昔の人も言っている。心の道理を見て取る者は角(つの)のようであり、あらゆる教えを学ぶものは毛のようであると。それゆえに、如実に心の道理を知る者を仏と言い、心の道理を見失っている者を衆生と言うのである。仏と衆生とは機(き、働き方)は異なるが、道理は一つである。衆生を離れて仏なく、ただ氷と水のようなものである。もし一念が生じて、心の道理の他に仏があると思うなら、すでに三宝(仏法僧)をそしる者である。なぜというなら、諸仏は世に出られてただこの衆生の心の道理は諸仏の心の道理である、まったく違いはないとお説きになるのを聞きながら、なお信じないで、自分の心の道理より他に仏法があると思って、仏を念じ、浄土に生まれようと願うのは、諸仏の金言(尊いお言葉)を信じないのであるから、三世の諸仏を誹謗する者なのである。長く悪道に落ちて脱出する時はないであろう。そうであるから、自分の心の道理はすなわち仏であると信じて、外に仏を求めてはいけない。また別に仏法を学んではいけない、仏があるという所にも安住してはいけない、仏が無いという所にも安住してはいけない、このように言うのをまだ納得できないとなれば、見るがよい、天には日月が明るく輝いており、地にはあらゆるものが青々として緑である。

 

〇  機関

機関(きかん)というのは、釈尊沙羅双樹の下で涅槃に入られる時に、迦葉尊者が来て金棺を叩いた時、釈尊はただ、紅蓮花(ぐれんげ、赤い蓮の花)をかかげて目をまじろがされた。迦葉はここで大悟した*。釈尊が無くなられた後の祖師の多くもこのようであるかと問い尋ねてみれば、「虚空に内外なし、大道に門なし」と答えたりしている。また仏や祖師の心そのものとは一体どんなものか、と問われて、柱状**を立てたり払子***を挙げたりし、また祖師が西国から唐土に来た意志はどのようなものかと問えば、「八角の磨盤空裏を走る」****と答えたりする。さらにまた、どのようにして仏や祖師の心を知るかと問えば、「首の上には天をいただき、足では地を踏む」と言っている。すべてただ、これらについて思いを巡らし、心を働かせてはいけない。思いをはせて心を動かせば、ことごとくみな違ってしまう。ただ、あるがままの本心から動かず、良し悪しを言わず、疑う所なく、直接に仏や祖師の頭上に越えて、虚空を踏み倒し、雲の外に手を開いて、まっすぐ向上の一路を踏む。ここにおいてはあらゆる聖人も踏み入ることなく、仏や祖師も肩を並べて進まず、鳳凰が飛ぶ空には小鳥は羽根を並べない。獅子が遊ぶ山には他の獣が立ち入らないようなものである。もしこの所であれこれ筋道を立て思量分別をするなら、須弥山を担いで大海を渡ろうとするようなものである。それゆえ法華経に言うように、是非(良し悪し)や思量分別なくしてよく悟ると。この法(真理)は思量分別でよく理解できるものではないとお説きになったのである。どういうわけかというと、思量分別して求めようと思う心は一体どんなものか、他人の心か自分の心か、このように思量分別する心すべてはこれ仏や祖師の心なのである。やはり朝夕に行住坐臥の振舞をする心は、まったくこれ自己の本心である。それゆえに維摩経に言うように、直心是道場(じきしんこれどうじょう、そのままの心が修行の場である)なのである。後世(ごせ、死んで後の世)は無いから直心是法界であり、妄想がないから直心是仏性(そのままの心が仏の本性)であり、思量分別がないから直心是禅定(そのままの心が本心の統一を離れない)であり、見聞きするものに捉われないから、足を上げるのも下げるのも、すべてこれ道場である。あらゆる物事について、時が過ぎてしまえばすべて夢となる。悪い心を忘れてしまえば、たちまちこれ善である。一日中一晩中眠っていても明らかである。病気のときも明らかである。正に知るがよい、一念が起こらなければ生き死にはそこで滅するのである。思量分別がなければあらゆる物事において明らかとなるはずである。このように了解し到達すれば、仏や祖師の行っている機関(働き)や擬量(思案)はすべてこの一念不生のところの心ではない。喩えるならば、水の泡のようなものである。目の中にホコリが入っていてもそれを見ることはできない。願わくば、自ら無心となれば、一切が明らかであろう。また、一念不生のところを悟るならば、自然に本来の心と合致するだろう。このところを見て、さらに働きのなすところを打破してみよ。鳥は天を飛んでゆったりとし、魚は淵に遊んでぴちぴちしている。泥で作った牛は泥であり、木馬はもとより木である。ただ自分で手を打って笑う、これは誰が行っている思案なのか。

*ここには、釈尊が涅槃に入られたときに迦葉尊者が間に合わず、遺体の収められていた金棺を拝んだという逸話と、迦葉尊者の大悟の因縁(いわゆる拈華微笑)の二つが混ざっているように見える。

**柱状(ちゅうじょう):杖のこと。

***払子(ほっす):僧が持つ仏具の一つで、毛を束ねて柄をつけたもの。

****「八角の磨盤空裏を走る」:八角の磨盤は古代インドの八角の武器で、空中を飛んであらゆるものを破壊すると言われる。達磨大師が中国に来られた心をこのように言ったか。「空裏」は武器が空(そら)を飛ぶとも、空(くう)の中を達磨大師が来られたとも取れるか。