月庵禅師仮名法語(十四)

〇 豫洲太守(1)に示す

 

 即心是仏(心がすなわちこれ仏である)。外に向かって仏を尋ねてはなりません。即心是法(心がすなわちこれ仏法である)。他にさらにどのような仏法を求めましょうか。これら真実の一句は人の常日頃の心情を絶って思考の働きは停止してしまいます。智慧の優れた人は言下にたちまち悟って、一切の疑心が一度にやんでしまう。素質の優れない者はそのような事を聞いても直ちには信じず、ただ難行苦行をして、長い間功徳を積んた後で仏になろうと思い、朝夕仏を念じ、お経を読み、焼香、礼拝、散花行道(さんげぎょうどう(2))、あるいは布施や持戒(戒律を保つこと)、忍辱(耐え忍ぶこと)精進(励み務めること)といった修行をし、あるいは長時間座って横にならず、仏を念じ仏法を思う。はなはだ愚かしい者は、断食をし、塩を絶ち、肘を断ち指を切り、無言の行や裸形(はだか)の行などのあらゆる苦行を行う。これらはただ今の一生で直にさとるべきことに思いも寄らず、ひたすら生まれ変わった後の世での成仏を希望するばかりなのです。このように仏法を遠く思いなす心があるのであれば、たとえどのように我が身や命や財産を捨てる苦行を行うといえども、すべてはれ有相執着(うそうしゅうじゃく、姿形をあるものと思い捉われる)の間違った信念であるのですから、ついに正しい仏道を成就することはできません。たとえ、いったん、果報の力(善行の結果生まれる力)を得て、地位が高く人徳が優れ、幸福や安楽が思いのままになったとしても、善行の力が尽きてしまえば、また戻って悪道に落ちるでしょう。昔の人はこれを「住相の布施は生天の福、猶お箭(や)を仰いで虚空を射るが如し。 勢力つきぬれば箭還って堕つ、来生の不如意を招き得たり。 いかでか似かん無為実相の門、一超直入如来地(姿形の世界に捉われての布施は、天に生まれる福徳を与えたとしても、やはり矢を天上に向けて射るようなもので、勢いが尽きれば矢は落ちてしまい、来世の不幸を招いてしまう。どうして生滅を超えた真実世界の門より優れたことがあるだろうか。ひと飛びで如来の本地へ直に入るのだ。)(3)」と言ったのです。まずこのような道理をわきまえて、姿形の世界の仏を望んではなりません。たとえまた即心是仏を信じる人でも、素質が優れないことから、直に透脱(とうだつ、姿形の世界を超えること)することができず、ただ外に仏を求めてはならないので、自分の心がそのまま仏なのだと信じるばかりです。あるいは、即心是仏というのは、ただ他に特別な道理があるわけでもなく、物を見、声を聞き、ないし一切の事を行う所が、ただそのままで二度念をつがないことでよいのだと思っている。このような人は、ただ当て推量をして信じているだけで、実際に悟らないので、ただ口では即心是仏と言い、心で即心是仏と思っているばかりで、徹底して落着することはないのです。それゆえ、ややもすれば疑心が生じて来て、まさかたったこれだけのことではないだろう、この上にもっと何かあるだろうと思うのです。このような思いに邪魔されて、本心をくらましてしまうことを知りません。あるいは本当に仏道を求める心はなくて、なまじ小智慧があって賢しい人は、高飛車な禅のやり方を好んで、即心是仏という法門はただ赤子が泣くのをとめる匙加減であり、まったく迷っている在家の人などのためにはそのような法門を勧めて導く方便もあるだろうが、仏や祖師方の最終的な境地をもってこれを見ればまったく浅いものである。こられの法門をもって究極だと思って留まる人は、本当に仏や祖師方の骨髄を知ることはできないなどと思っています。これは思いあがった慢心であって実際の悟りがないので、このような人はついに外道(げどう:仏道以外の教え)や天魔(てんま:仏道を妨げる悪魔)の仲間となってしまうでしょう。むかし、大梅和尚が馬祖大師に仏とはどのようなものかと尋ねました。馬祖が答えて言うには、「即心即仏」。大梅はこの言葉でたちまち大悟して疑いの心がすっかり止んでしまいました。「獅子の一滴の乳が百斗の驢馬の乳を四方に散らす」(4)とはこのことです。ある時、一人の僧が来て語って言うには、最近馬祖大師の法門は異なっています、人に道を示すのに、多くの場合「非心非仏」と言っています、と。大梅が答えて言うには、あの親爺、人を惑わしてまだそんなことを言っているのか。非心非仏ならそれでもよい。私はただこれ即心即仏だ、と。実際に悟った人はこのように足が実地を踏んでいるので、まったく躊躇って振り返ることがありません。また、水潦(水老)和尚が馬祖に達磨大師が西へ来た本当の意図は何でしょうかと尋ねました。馬祖が言うには、礼拝しなさいと。水潦がわずかに礼拝しようとすると、馬祖はたちまち胸のあたりを蹴飛ばしました。水潦は忽然として大悟しました。起き上がって手を打って大声で笑って言うには、何ということか、何ということか、幾多の三昧(雑念の無い済んだ心の状態)、無量の優れた教義も、ただぎりぎりの所に向かって根源を知れば、流れの源に行き着き、雲の沸くところを見るだけだ、と。それから後は、何か尋ねられることがあっても、ただ大声で笑うだけだったといいます。このように、徹底して身を翻すならば、どうして仏法の勝ち負けとか、公案の深浅とか、あれこれ、究極だ方便だと論ずることがありましょうか。本当に優れた人は一度に決定して一切が了ります。中くらいの人は多くを聞きますが疑念も多い。ただ猛烈な志のあるような人は、わずかばかりの修行の功徳を要することなく、一言一句のもとにきっぱりと断ち切って、さらに疑念を重ねません。もしまた志が弱く、素質の劣った人は、このように脱することができなければ、ただ念々、志を励まして絶え間なく、心とも仏とも何ともかとも思いはかることなく、ただ志を命とし、願いを力として、道のないところに向かって歩みを進めてごらんなさい。必ず、覚えず知らないうちに、十方(上下、四方八方)の虚空がその身と一体となり、一挙に打破する時がやってくるでしょう。この時に初めて知るでしょう、即心即仏、非心非仏、そのほか一千七百の公案および無数の法門は、すべてこれ門を叩く石であったことを。こういうわけで、「骨をくだき、身を粉にしてもまだ報いるに足りず、一句において決定して百億の方便を越える」というのです。本当に仏や祖師方の方便や教導によらずしては、いったい何劫を経た未来に生き死にや苦しみを離れて大いなる解脱、大いなる安楽の田地(でんち、立脚地)に到達するでしょうか。この恩に何をもって報い尽くすべきでしょうか。針芥相投の譬え(5)はまったく疑いがない。このように、わが身の大願が成就すればそれで満足だと思ってはなりません。なお縁のない衆生を救い尽くし、等しく仏道を成就させようと思う大願を起こして、在家の人、出家の人一切の人を憐み、恵み、救い導く大慈悲心を起こしなさい。これこそ本当の仏祖の弟子、末世のこの世に再来した菩薩に違いありません。努めなさい。努めなさい。

 

(1)豫洲太守:豫洲は伊予国(今の愛媛県)、太守は領主のこと。

(2)散花行道:仏の周りをまわりながら地に花を撒くこと。

(3)住相の布施は・・・:永嘉禅師『証道歌』の言葉。

(4)獅子一滴乳・・・:底本の頭注では、「悟り了れば煩悩即ち菩提となるの意なり」とされている。

(5)針芥相投:磁石が針をひきつけ、琥珀が芥をよく拾うように、互いに合致することを言う喩。