塩山仮名法語(8)

 一方居士本間将監(いっぽうこじほんましょうげん)に示した教え

 

七十二、面と向かい合って直に会っているもの、彼は一体だれか。言うことができたとしても誤り、言うことができないとしても誤りである。結局どうだ。

 

七十三、説法のあることを知らせる幡竿の上に仔牛が産まれた。ここがきれいに悟れれば、余分な力は必要ない。もしそれが分からなければ、自分の心中に立ち戻って自ら仏性を見て取りなさい。仏性は各人に備わって、それぞれまどかに成就しており、諸々の仏と衆生と同体であって高い低いはない。それなのに世の人は誤って、無縄自縛(むじょうじばく:ありもしない縄で自分を縛る)して、見性し仏道を悟ることは自分のような素性の悪いものの到達できることではなく、ただ看経(かんきん:お経をみる)し、礼拝をして諸仏のご加護にあずかって、やっと仏道に入ることができるだろうなどと言う。聞く人もまた、そうだと言う。これを「一盲衆盲を引く」*というのである。これは、仏を信じ、お経を信じているのではない。まさに仏やお経をそしっているのである。どうしてかと言えば、看経というのは、お経を見るということである。仏というのは、心の本性の異名である。お経[華厳経]に述べられているが、心と仏と衆生と、この三つは異なるものではない、と。それだから、自分の心を信じないで仏を信じるというのは、異名を信じて本体を嫌うようなものである。心の本性を見る探究はかなえられないだろう、ただお経を見ようというのは、飢えている人にお粥を与えたとして、そのお粥を食べずに、お粥を書いた目録を見て飢えをしのごうと言っているようなものである。諸々のお経は、この心の本性をしるした目録である。

:一盲衆盲を引く:一人の盲人が多くの盲人を導いて行くこと。危ないことの譬え。

 

七十四 経[円覚経]に言う、「お経にある教えは、月をさし示す指のようなものだ」と。指を知って月を見なければ、どうして仏様のお気持ちにかなうだろうか。各人にことごとく一巻ずつのお経がある。ほんの一瞬でも自らの本性を見たなら、手にお経の巻を取らず、目に文字を見なくとも、もろもろのお経をいっぺんに読むことができ、一点も残すことがない。これが本当にお経を読むことでなくてなんであろうか。

 

七十五 さあ見なさい。青々としている竹は仏道となった人の心であり、生い茂っている黄色い花は、すべて悟りの知恵でないということはないのだ。

 

七十六 また、礼拝するというのは、自分という幡を倒して、仏性を悟るということ、これなのである。そうであるからこそ、仏に成ろうと求める人は、自分の素質の良し悪しを言うことなく、自ら見性し、悟りを開かねばならない。

 

七十七 さてどうするか。たまたまこの道理を信じて参究する人が、いまだ大悟せずに途中で滞ってしまうことを。あるいは思慮分別をいったん止めて無念無双であるのを悟りとしたり、あるいは一則の公案*を忘れないことで十分としたり、あるいはさまさまな戒律を犯さず、世間の是非善悪を逃れて山林に住むだけのことを仏道としたり、いったいどんな道を求めるというのか、茶に向かえば茶を飲み、飯に向かえば飯を食べると言って、仏法について問われれば、あるときは喝をはき、あるいときは袖を払って出て行き、あらゆることに留まらない様子を好んで仏道とし、参究をし優れた師を求める者を愚鈍だとしたりする。

公案:禅の参究者が取り組む問題のようなもの。

 

七十八 このような人を道人(仏道を修めた人)とするなら、三歳の幼児もまた禅が分かっていることになる。あるいは認識の働きを絶ち、意志の働きを絶って、枯れ木や石のようになるのを無心の道であるとしたり、あるいは胸のうちがさっぱりとして内も外も隔てのないこと、まるで青空の昼日中のようで、全身に輝き通り、明々白々であるのが大事だとする。これはまさに仏法の本性が現れ出る寸前なのであるが、いまだ本当の悟りではない。昔の人もこれを解説して「深い穴」と言ったのである。

 

七十九 このような見解の人は、仏法について疑いはないと言って、実質は何も無いのに驕り高ぶり、問答や宗旨の討論を好み、人に勝つことを楽しみとし、負けるときは恨みを起こし、心の中はうっぷんが充満して因果の道理を否定し、大きな声で喋りまくって戯れを好み、他人が修行するのを妨げて、人が実直に励むのを見ては愚鈍なやつ、これは禅宗ではない、と欺くのである。

 

八十 これはまるで狂った人が、正気の人を笑うようなものである。慢心は日々増長して、矢のように地獄に落ちるであろう。