塩山仮名法語(7)

六十二、さまざまな業(ごう、自分の行為によって引き受けることになる結果)の根本は、識情(しきじょう)*である。識情を忘れ去れば、解脱(げだつ)**の人である。その識情というものは、自分の本性を悟れば寂滅(じゃくめつ)***するというのは、塵の中に埋もれている火を吹けば、火が盛んに現れて、塵は消滅するようなものである。

*識情:情識と同じ。誤った認識と感情。

**解脱:業による輪廻を脱すること。

***寂滅:無常偈といわれるものに「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽(諸行は無常である。これは生滅の法である。生滅が滅し終わって 寂滅を楽となす)」とある。寂滅とは、生じるとか滅するとかいうこと(生滅)が終焉し、不生不滅の当体に逢着したところを指す。

 

六十三、座禅するとき、想念が生じるのを頑なに嫌ってはいけない。また好んでもいけない。ただその想念の起こる元に返して、源を見て動ずることがなければ、一切の想念の根本の情識が消滅することは、あたかも火の中の塵を消し去るには火をあおぐよりほかの手段がないようなものである。

 

六十四、また、妄想が尽きて胸の中に一物もなく、内も外も隔てがなくなること、あたかも晴れ渡った虚空のようで、世界全体が清浄になっても、それは悟りではない。もしその状態をもって仏性を明らかに見て取ったと思うならば、ただちらと影を見て本体だとするようなものである。もしこのような状態になったなら、いよいよ勇気を振り絞って集中し、一切の音声を聞く自分の心を見究めさない。

 

六十五、そもそも四大(地・水・火・風の四元素)からなる身体は、幻のようなものであって実体ではない。この身体の外には、心と名付けるべきものがあるわけでもない。十方に拡がる虚空が、物を見たり、声を聞いたりするわけでもないのである。この身体において一切の声を聞き、音響を聞き知るものは一体何か、さてこれは一体何者かと、自ら大いに疑問が生じ、是か非かという分別の働きは尽き果て、有るとか無いとかの考えも忘却してしまい、まるで暗い夜に明かりをふっと消してしまったように、自分があることを知らないのであるが、ただ一切の声が聞かれるとき、自分があることを覚える。

 

六十六、ただこの状態になって、そのときにこの声を聞く者を知ろうとしても、知られるものはなく、いよいよ心の行方は十方に行き詰まり果てるとき、忽然として大悟すること、死人が手を打って声高く笑うようなものである。このときはじめて、自分の心がそのまま仏であるということを知るのである。

 

六十七、ではその自分の心の仏、その姿はどのようなものかと言えば、答えて言おう。木の上で魚が遊び、水の底に鳥が飛んでいると。

 

六十八、これはどういう理屈なのか。もしいまだはっきりと分からないのであれば、自分の中で見究めなさい。見聞きする主(ぬし)はいったい何ものなのか、と。

 

六十九、少しの時間も惜しんではならない。時は人を待ってはくれない。

 

臨終の床に至った病人に示す教え

 

七十、あなたの一霊の心の本性は、生じるものでもなく死ぬものでもなく、有るのでもなく、無いものでもなく、空でもなく、色(しき)*でもない。苦しみを受けたり、楽しみを受けたりするものでもない。

*色:姿、形をもつ物のこと。般若心経の「色即是空 空即是色」がよく知られる。

 

七十一、たった今、このような病気の苦しみを覚える者はさて何者だろうかと知ろうとしても、知ることができないところについて、さてこの病苦を受ける心の本体は一体何だろうかと思案する一念のほかにはまったく思うことなく、願うところもなく、知るところもなく、頼りにするところもなくて、空の雲が消えるように、何の心もないように一生を終えるなら、ただちに輪廻の道は途絶えて、じかに解脱する時があるだろう。