月庵禅師仮名法語(十七)

〇 在家の人に示す

 

 仏が世に出られる所以のこの一大事は、天に先立ち地に先立ち、昔をはるかに過ぎ、今も超えています。凡人とか聖人とかの境地の中にはなく、考えや分別も及びません。これを名付けて不思議の法と言うのです。この法は、人々に具わっているのですが、みずから悟ることができないので、日々これを使っているのに知りません。目の見えない人が一日中、大通りを歩いているのに自分では見えないようなものです。自分で見ないので、これを信じず、また貴くも思いません。一歩一歩、悪所(輪廻してゆく地獄などの悪道)へ向かっていることに気づかず、ただ今の一生の身の上を良くしようと思うばかりで、いろいろと雑多なことをして、日ごと夜ごと、悪の業を積み増すばかりです。今の一生のことは、たとえ百年の寿命を保ったとしても、ほんの一時の夢の中の楽しみにすぎません。ずっとあることはできないのです。古人いわく、遠くを慮らなければ、近くの憂いがある、と。ただいっときに過ぎない妻子や仲間に愛着し、わずかな五欲(五感の与える欲望)や快楽に縛られて、一生はむなしく過ぎ、永劫という長いあいだ悪道(地獄・餓鬼・畜生の三道)に落ちてしまうのは、憐れむべきものです。在家の人は、いかにも才知があるといってもこうしたことを思い知ることはなく、まして修行し仏道を心にかけ、坐禅参究してこの一生で一大事を悟ろうという人は、百人千人に一人いることもまた稀なのです。仏の力が業(ごう)の力に勝らなければ、たとえ仏や菩薩の慈悲・方便(手段)が深いものであっても、自分が造った罪の悪業が重い人をすべて助け尽くすことはできないのです。ただ自分で進み、励まないと、どうして生き死にを断ち切ることができましょうか。そもそもどのような手段で生き死にを断ち切るかというなら、まず大いなる願いの心と大いなる信念とを起こし、二十四時間、あらゆる機会、あらゆる状況、一切の物事を行う場面で、どのようなものが主人となってこのような事を行うのかと追究してみなさい。たとえば百万の軍の陣地へただ一人で乗り込んで、直接大将の首を取って出てこようと思うかのように、志を強く励まして、まっすぐに進んで心掛ければ、必ず無限の時間の生き死にという敵を滅ぼして、天地に先立っている自分の本来の清浄で円満な大いなる自覚の法王がたちまち現れて、世間のこと、世間を超越したこといずれも成就して、大いなる自由自在そのものの境地となり、生まれ変わり世を変わっても大安楽です。疑ってはなりません。

 

〇 病気の人に示す

 

 自分のこの身心は本来、生死を離れています。生死を離れているので、それ以上一切の理屈はありません。たとえいったん、父母の縁によって地水火風(1)が仮に合体したように見えますが、不生(ふしょう、生まれない)の生なので、本当に生があると思ってはなりません。また時期が来て、四大が分離するようにみえますが、不死の死なので、本当に死ぬと思ってはなりません。ただ生死(生き死に)去来(去ったり来たり)、是非善悪、一切のあらゆる物事は、夢まぼろしのようなものです。それゆえに、金剛経に言うには、「一切の有為(生成変化する)の物事は、夢や幻、水の泡や影のようなもの。露のような、また稲光のようなものです。まさにこのように見なさい」と。ただこのような道理を信じて疑ってはなりません。たとえ病の苦しみ、死の苦しみがあるといっても、このような正しい信念を守って一念を動かすことなく、病に任せ、苦痛に任せて、何とも疑い慮ることなく終わりなさい。今の一生で仏法を明らかにできないならば、後の世でどうなってしまうのかと、けっして疑い恐れてはなりません。ただ何とも思わない心、それがそのまま仏法なのです。信じなければ輪廻の業となります。そのまま信じれば、ただちに生死を断ち切るところとなります。疑ってはなりません。

 

(1)地水火風:四大(しだい)という、古代に考えられた世界を構成する四元素。