月庵禅師仮名法語(二)

〇  慈雲禅尼に示す

 

 世間は無常です。一切とどまることがありません。たとえば夢や幻、水の泡や影が在るかのようであっても実体がないようなものです。世の中の人々はこの道理を知らず、実際に自分というものが在ると思って、さまざまな貪欲や執着の心が強く、名誉や利益を求めることがはなはだしい。ただ今の一生のことばかりを思って、明け暮れ妻子や親族、衣食や財宝の営みに心を尽くすばかりで、一刻一刻生き死にの境が到来し、一念一念に殺鬼(せっき(1))が犯し責めることを知らない。病気の難がたちまちに到来して寿命が終わろうとするときに初めて驚き、後生(ごしょう、死んで後の世)のことがうまくゆくようにと思ってもまったくその甲斐はない。ただ茫然として死んで行くだけです。それだから悪道に堕ちて、常日頃行っていることの業が巡ってきて、その報いの様々な苦しみを受け、身を破り、心をくだいて、劫(ごう)という非常に長い時間を経て、生まれ変わりを重ねても、抜け出ることが難しい。実に憐れむべき者です。この道理を知らないで、決まりを破っても恥じることなく、誤った考えを抱いて好きなように生きている者を、人の中にいながら鬼畜(きちく、鬼や畜生=動物)だと言うのです。これを恐れ嘆いて仏とは何かをはっきりと知り、仏法を信じ、僧を供養し、さまざまに善い行いをして、世間という一時の姿に執着せず、ひたすら生々世々(しょうじょうせぜ、生まれ変わってもずっと)救われたいということを思う、これを特に智慧のある人と言うのです。そうとはいっても、また世間的な善い行いをするばかりで、菩提心(ぼだいしん(2))がない者は、有相(うそう(3))の世俗の幸福となってしまって輪廻の業を免れることはできません。心の中では菩提心を起こし、外の行いでは善行を積んで修行をする、これが内外相応(ないげそうおう(4))の功徳というものです。そもそもどのように菩提心を起こすべきなのかと言えば、まず世間の姿は、もとより実在する姿ではない(非相)と信じて、見聞覚知(けんもんかくち、見聞きすること)において存在するもの(有)と思わず、また存在しない(無)とも思わず、生じた(生)とも思わず、無くなった(滅)とも思わず、いろいろな理屈を作り、思考を巡らせ分別してはなりません。たとえ妄念がいっとき起こったとしても、再びそれを追わず、また顧みてはならない。このようにするならば、諸々の事柄において、執着や捉われが生じるはずはありません。これがまず菩提(悟りの心)に入る道です。ここにおいてまた茫然として何とも知りようがなく、とりつく所がないと思って疑念を生じ、退いてはなりません。少しでも取り付く所があるのは、すべて輪廻の元となる業なのです。何とも知られない所、そこがそのまま生き死にを超出し、煩悩を離れる所なのです。ただ、またこのように深く信じて何とも考えようがないところに直ちに目をつけて、行住坐臥、念々怠ることなく、志を励まして究めてみなさい。必ず悟る時が来るはずです。これを、菩提心を起こして現在の身のままで成仏する人と言うのです。たとえまた、今の一生で悟ることが遅いといっても、このように信じる力が強ければ、さまざまな悪業を転じて(5)、永遠に人間の身を失うことがなく、願いを成就して、大安楽の地に至るでしょう。疑ってはなりません。

 

(1)殺鬼:無常がすべてを滅ぼすことを鬼に譬えたもの。

(2)菩提心:我と人と、共に仏道を成就して救われようとする心。

(3)有相:姿形のあること、いずれ消滅する定めのもの。

(4)内外相応:気持ちと行動が一致していること。

(5)悪業を転ずる:行いが悪い結果となり、餓鬼、畜生、地獄の悪道に堕ちるのを防ぐこと。