聖一国師(東福寺開山)仮名法語(三)

問い 見性し道を悟った人は、じかに仏だとは言っても、どうして神通力や光明に輝くようなことがないのか。また普通の人と違って、霊妙な働きとみえるようなこともない。これはどういうことか。

答え この身は、過去の妄想から造り出されているので、見性したからといっても神通力や光明は現れない。そうは言っても、六塵(ろくじん)(1)が妄想であると徹底することは神通力ではないだろうか。難行苦行にもよらず、三大阿僧祇劫を経ることなくして生死を断ち切り、じかに見性して成仏する。これが霊妙な働きである。清らかな法身(仏の本体)の知恵の光をもって一切衆生の愚かな暗闇を救う。このほかの光明に何の益があろうか。大いなる知恵の徹底のほかに神通力を願うのであれば、それは天魔(てんま、悪魔)外道(げどう、仏法以外の邪道)であろう。狐や狸も神通変化(へんげ)を行う。それを尊ぶべきであろうか。ただ無心を修行して、三大阿僧祇劫を一時に滅し、瞬時に見性成仏すべきである。

 

(1)六塵:色、声、香、味、触、法の六つ。六境とも。心を汚し煩悩を起こさせるもの全てのこと。

 

問い 見性成仏の意味は、どのような知恵をもってこれを悟ればよいのか。

答え お経やそれを研究した論書を学んで得た智を見聞覚智(けんもんかくち)と名付ける。これは暗愚な凡夫に対しての智であって、真の智ではない。回光返照(かいこうへんしょう)(2)して本有(自分に本来備わっている)の仏性を見届けること、これを恵眼(えがん)と言う。この恵眼をもって見性し成仏するのである。

 

(2)回光返照:光を外ではなく自分の内に向けて、自分本来の姿を反省すること。

 

問い 本有の仏性とはどのようなものか。また回光返照とはいったい何か。

答え 一切の衆生には自性(自分の本性)というものがある。この本性(ほんしょう)は、もとより不生不滅であり、常住不変である。それゆえ本有の自性と名付ける。三世(過去・現在・未来)の諸仏も、一切の衆生もこの本性を本地(ほんじ、本来の姿)法身(ほっしん、仏の本体)としている。この法身の光明は、周遍法界(しゅうへんほっかい、世界全体)に充満して、一切の衆生の愚昧な無明(むみょう、悟りから離れていること)を回光返照する。この回光の至らない所は無明魔界と名付けられる。この魔界に煩悩という鬼神(きじん、恐ろしい悪霊)が住んで法性(仏としての本性)を食おうとする。この煩悩の鬼に害された人は、妄念を本心だと思い込み、貪欲の種子を歓楽だと思って、三悪(さんあく、地獄・餓鬼・畜生の三悪道)四生(ししょう)(3)をめぐることになる。いったいいつ、生死を断ち切ることができるというのか。

 

(3)四生:生き物を産まれ方から四種に分類した言い方。胎生(母体から生まれる人や獣)卵生(卵から生まれる鳥獣)湿生(湿気から生まれる虫類)化生(けしょう、自らの業により忽然と生まれる化け物)。

 

問い 生死は妄念から起こる。もし妄念の起きる源を悟るなら、生死はおのずと止むのか。

答え 衆生は昼夜二十四時間、妄念によってさかさまな思い違い(顛倒、てんどう)をしており、本分である仏性を自分で煩悩の塵に埋めている。明るい月を雲が隠すようなものである。この念の源を悟ってしまえば、明るい月が雲を出るようなものである。鏡が清らかであれば、あらゆる姿がはっきりと映し出されるようなものである。さまざまな物事について行き渡り、あらゆる状況に対面しても髪の毛一筋ほどの汚れもない。これは本分の仏性が神通自在(じんつうじざい、不思議な力で思うままであること)だからである。

問い 坐禅するときの注意として、「一切の善悪についてすべて思い巡らしてはならない」というのはどういうことか。

答え この言葉は、じかに生き死にの根源を断ち切るところである。坐禅をする時だけだと思ってはならない。もしこの言葉のように至った人は、無始無終の仏である。行住坐臥(動いても留まっても座っても寝ても)の禅である。

問い 大きい念、小さい念とはどういうことか。

答え 小さい念というのは、一切の縁(えん、物事の関係)によって起こる念である。大きい念というのは、永遠の過去からの生き死にの繰り返しや貪瞋痴(とんじんち)(4)のことである。この大小三毒の念を坐禅の説きだけ止める人も、真実の道心がない人は、永遠の過去からの生き死にの根源を明らかにし、三毒煩悩の心の迷いを消し尽くすことはない。もし人がこの根源を明らかにすれば、煩悩は菩提(ばおだい、悟りの知恵)となり、生死は永遠の涅槃となり、六塵は六神通となるのである。

 

(4)貪瞋痴:三毒煩悩と呼ばれる三つの煩悩。貪はむさぼり求める貪欲。瞋は憎しみ嫌悪する瞋恚。痴は道理に暗く迷い悩む愚痴。