永平仮名法語(道元禅師仮名法語)(十二)

〇 教外

 

教外(きょうげ)というのは、不立文字(ふりゅうもんじ)の宗であり、いわゆる禅宗がこれである。学ぶべき師もなし、示すべき働きもなし、教えるべきものもなし、ただ自ら独り真理を悟るのである。心は透きとおり輝くようで一物もない時、煩悩もなく悟りの知恵もなく、生死もなく、涅槃もない。悟りもなく、迷いをも知らない。悟りをも願ってはいけない、真理をも求めてはいけない、仏を念じてはいけない、煩悩を絶とうと思ってはいけない。元より煩悩はないのだから、悟りの知恵を求めてはいけない。元より悟りの知恵はない。生死をも嫌ってはいけない。元より生死はない。涅槃を明らかにしてもいけない。元より涅槃はない。ただ一念不生のところに差し向って、自己の本分を打ち開くのである。これが禅宗の非常な強さなのである。禅というのは、いわゆる仏禅(釈尊のなさった禅)である。教というのは仮の名である。衆生と煩悩と、菩提(悟りの知恵)と涅槃と言うのも皆仮の名である。本当にはあるのではない。金剛経に言うには、「私には真理があって説くのだと言う者は、仏をそしり、僧をそしる者である」等々。また古人が言うには、「もし人が仏の眼前に文字や言語があると言うのなら、これは仏をそしり、僧をそしる者だ」と。そうであるから、祖師は、不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏と言ったのである。まったく文字言語を立てず、直に人の心の本体を指し示して成仏させるというのである。また言うには、三界(欲界・色界・無色界)に真理というものはない、心はいったいどこにあるのか、四大(1)は元より空であり、如来は一体どこのおられるのか、と言う。書き終わってしまえば筆に文字はない、人が終われば口に言葉はない、眼には物を見ず、舌は口から出ず、墨は黒く、紙は白いことを誰が見ないだろうか。これを教外というのである。

 

(1)四大(しだい):古代中国で考えられた世界を構成する四元素、地・水・火・風。

 

〇 出家の人(僧)に示す事

 

朝に人の道を会得できたらなば夕べに死んでも構わない(1)。仏道を学ぶ人は何よりもこの心を持たねばならない。長い年月に多くの生を重ねながら、六趣(2)のうちを何度輪廻したのだろう。今、さいわいに受け難い人の身を受け、出会いがたい仏法に出会った。どのように惜しんだとしても、ついには終わりのあるこの身を、心の及ぶかぎり惜しんで無駄に捨てる命を、一日に片時であっても仏法のためにすることなくして、惜しくも日夜(にちや)を空しく過ごすようなことは残念なことである。ただ思い切って、明日食べるものがなければ飢え死にしてもよい、今日一日仏道を修行して仏や祖師の心に適って死のうと思う心を起こしなさい。もしこの心を起こさないのであれば、世間に背をむけ、頭をまるめた姿をしていたとしても、本当の出家の人ではないのである。ましてやまた夏や冬の服のことをひそかに思い、明日、来年の命長らえることを思って仏法を学ぶ者は、千度生まれ変わり万劫という長い時間修行したとしても空しく心身を疲労させるばかりで、仏道を成就するときはまったくないであろう。出家の人としては、よくこの道理を心得るべきである。

 

(1)朝に・・・:よく知られた孔子の言葉から来ている。

(2)六趣(ろくしゅ):輪廻する地獄・餓鬼・畜生・人間・修羅・天上の六つの路のこと。