永平仮名法語(道元禅師仮名法語)(四)

〇 大悟

 

大悟(たいご)というのは、次のようなことである。心は本来、不生(ふしょう、生じたということがない)であり、法(真理)は本来、無法(むほう、説くべき真理はない)であり、煩悩は本来、これ菩提(ぼだい、悟りの心)である。心として求めるべき心もなく、法(真理)として尋ねるべき法もなく、煩悩として断ち切るべき煩悩もなく、元より菩提(悟りの心)であるから、悟りとして証しすべきものもない、と悟ることを大悟と名付けるのである。また、六祖*が言うには、自分の心の仏性(仏である本質)は本来清らかなものであり、煩悩というあり方と諸仏の本体とは平等であって二つのものではないと悟る。六道**の衆生(しゅじょう、命あるもの全て)は、本来、無相(むそう、姿形がない)であり、一切の衆生はことごとく仏である。自分の心と諸仏の心と一切衆生の心とに、各々別はないと悟ることを大悟と名付ける。本心を悟り、本性などを悟り、不滅であると見て、一切の場面において、一念一念みずからを見て滞ることが無ければ、心と境(きょう、対象世界)は一つとなり霊妙で明らかである。一切の迷いの心は、さまざまな境か心によってある。無念を宗(しゅう、教えの根幹)とし、無相を本体とし、無住(むじゅう、留まらないこと)を根本とする。一念不生(いちねんふしょう)であれば衆生はそのまま仏である。一念が生じれば、仏もまた衆生となる。自分の心に仏の心がないのであれば、いったいどこに初めて仏を求めようというのか、自分の心がそのまま仏の心であると分かることを大悟と言うのである。世尊***とも言う。黄檗禅師****が言うには、自分の心が本来、成仏であると悟ってしまえば会得すべき一つの真理もなく、修得すべき一つの経文もない、これが究極の道である。これはすなわち真如(しんにょ、真実ありのまま)の仏である。それゆえ達磨大師が中国に来て言われるには、直接人の心を指し示してたちどころに見性成仏(けんしょうじょうぶつ、本性を悟って仏となる)させる、教えのほかに別に伝えるのであり、まったく文字を立てることがない、と*****。なぜというなら、心はもとより不変であり常住(つねに存在する)であって、その姿形がないので、文字を立てないのである。これは如来の心の真理である。この心は師によって悟るようなものではなく、ただ自分の心を知るのであるから、教外別伝(きょうげべつでん)と言うのである。上は仏や祖師をはじめとし、下は衆生に至るまで、まったくわずかばかりも変わりはない。喩えるなら水と波のようなものである。だから末代の求道者たちよ、心よりもほかに仏があり、心よりほかに真理があると思ってはならない。明らかに知るのである、心と仏と衆生とに違いはないということを。そうして、この心を次々に受け継いできた人は誰であるかと言えば、過去の七仏である。

一番目に毘婆尸仏(びばしぶつ) この時の人の寿命は八万歳であった時にこの仏がこの世にお出ましになった。

二番目に尸棄仏(しきぶつ) この時の人の寿命は七万歳であった時にこの仏がこの世にお出ましになった。

三番目に毘舎浮仏(びしゃぶぶつ) この時の人の寿命は六万歳であった時にこの仏がこの世にお出ましになった。

四番目に狗留孫仏(くるそんぶつ) この時の人の寿命は五万歳であった時にこの仏がこの世にお出ましになった。

五番目に狗那含仏******(くながんぶつ) この時の人の寿命は四万歳であった時にこの仏がこの世にお出ましになった。

六番目に迦葉仏(かしょうぶつ) この時の人の寿命は三万歳であった時にこの仏がこの世にお出ましになった。

これらは皆過去の仏である。今は釈迦牟尼仏であり、この仏の時、人の寿命が百歳の時、この世にお出ましになった。ここまでで七仏である。

                         [「大悟」の項つづく]

 

*六祖:中国の達磨大師から六番目の祖師、慧能禅師(638年~713年)のこと。

**六道:人が輪廻する六つの道、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上。

***世尊(せそん):釈迦の尊称の一つ。世に尊ばれる人、の意。

****黄檗禅師:黄檗希運(おうばく きうん、生年不生~850年)。臨在禅師の師。『伝心法要』を残す。

*****直接~:「直指人心、見性成仏、教外別伝、不立文字」は禅宗の標榜。

*******狗那含:底本では「舎」となっているが「含」の誤植とみて改めた。この仏はまた倶那含牟尼仏とも表記される。