聖一国師(東福寺開山)仮名法語(一)

聖一国師(しょういちこくし:1202-1280)=臨済宗東福寺の開山、円爾(えんに)禅師の仮名法語。底本:『禅門法語集 中巻 復刻版」ペリカン社、平成8年補訂版発行〕

*〔 〕底本編者による補足、[ ]はブログ主による補足を表す。

( )付数字はブログ主による注釈。

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仮名法語

                            東福聖一国師

 

そもそも坐禅の宗門というのは、大いなる解脱(げだつ)の道である。さまざまな仏法はみなこの門から流出し、あらゆる修行もみなこの道から行き渡り、知恵や神通(じんつう)といった優れた働きもこの中から生じ、人間界や天上界の命運もこの中から開けるのである。それゆえ諸仏はすでにこの門に安住し、菩薩もまた修行してこの門に入る。あるいは小乗仏教や外道(げどう)(1)も修行するといってもいまだ正しい道にかなっていない。およそ顕密(けんみつ)(2)のさまざまな宗派もこの道を得て自証(みずからの悟り)としている。それゆえ祖師が言うには、十方(じっぽう、全方位)の智者はみなこの宗に入るとおっしゃるのである。

 

(1)外道:仏教以外の教えのこと。

(2)顕密:顕教密教

 

問い この禅門をさまざまな仏法の根本と言っているのはどのようなわけか。

答え 禅とは仏心(ぶっしん)である。律(戒律)は外側の姿である。教(きょう、教え)は言説である。称名(念仏)は方便である。これらの三昧(さんまい、心が乱れずに集中すること)はみな仏心より出ている。それゆえにこの宗を根本とするのである。

問い 禅の法(真理)は無相(むそう、姿形がないこと)を本体とする。そうであるなら、どのように霊妙な徳が姿を現し、見性(悟り)も何をもって証拠とするのか。

答え 自らの心、これが仏である(自心是仏、じしんぜぶつ)。このほかに何を霊妙な徳としようか。自らの心を悟りおわるよりほかに、何の証拠を求めようというのか。

問い この一心を修行するなら、それは一つの真理でありましょう。あらゆる修行、あらゆる善行を修めるなら、その功徳が一つの真理に劣るということがどうしてありましょうか。

答え 古人が言うには、「頓に如来禅を覚了すれば、六度万行(3)、体中に円(まどか)なり(如来のお伝えになった真実の禅を一瞬にして悟れば、六度万行はその悟りの本体の中に円満に備わっている。)」と(4)。そうであるから、禅という一つの真理は、一切の真理を備えているのである。だから、世間の事でも、「万能一心に如かじ(いろいろ能力があるのも一心に専念するのには及ばない)」と言うのである。それゆえあらゆる修行を行っても、一心の迷いを消せないと悟りを得ることはできないのである。もし悟らなければ、何をもって成仏としようというのか。

 

(3)六度万行(ろくどまんぎょう):六波羅蜜のこと。布施、持戒、忍辱、精進、禅定、知恵の六つの道を修行すること。

(4)「頓に・・・」:永嘉禅師『証道歌』に出る。

 

問い この仏心宗(禅宗)をどのように修行すべきであろうか。たとえ修行しても、悟りを得られるとは決まってはいない。もし決まっていないなら、修行しても何の得があろうか。

答え この宗門は、不思議解脱(思考を超えて解脱に至る)の道であるので、もしも一度耳に触れた者は、菩提(悟りの知恵)の優れた原因となる。もしこの宗門を修行するなら仏心の至極とするのである。それゆえ仏心はもとより迷いも悟りもなく、まさにこれは釈尊が雪山で六年坐禅の霊妙な修行をなさった結果がこの宗門に明らかになっているのである。未だ仏道を成就していなくても、一時(いっとき)(5)坐禅すれば一時の仏、一日坐禅すれば一日の仏である。一生坐禅すれば一生の仏である。このように信用する人は、大機根(立派な素質)をもつ大いなる仏法の器なのである。

 

(5)一時:昔の時間単位で2時間ほど。

 

問い もしこの道を修行するとすれば、そのように心がければよいか。

答え 仏心は無相(むそう、姿形がない)無著(むじゃく、執着がない)である。金剛経に言うには、一切の相(姿形)を離れているのを諸仏とする、と。それゆえ行住坐臥(ぎょうじゅうざが、動く留まる座る寝る)の四つの振る舞いにおいて、無心無念でいるところ、これが本当の心の用い方であり、修養である。

問い そのような修行は、信じがたく、行いがたい。ただお経を読み、呪文を唱えたり、あるいは戒律を保ち、または念仏称名したりして、その功徳を期待したいと思うのはどうなのか。

答え お経や呪文というのは、文字ではなく、一切の衆生の本心なのである。本心を失っている人のために様々な喩えを使って教えて本心を悟らせ、迷いの生死を止めようとするがための言葉である。本心を悟り、根源に返る人は、真実のお経を読んでいるのである。文字を本当のお経とは言ってはならない。もし文字を口々に唱えてそれが最上のものと言うなら、寒い時に「火」と言って暖かになったり、熱い時に「風」と言って涼しくなったりするだろうか。また飢えて食べ物の名前を唱え、ほしい物を決めたりして満腹するだろうか。だから一日中「火」「火」と唱えても熱いはずはなく、一晩中「水」「水」と言っても口が潤うことはないのである。文字や言葉は絵に描いた餅のようなもの、一生のあいだ口に唱えていても飢えが止むことはない。悲しいかな、凡夫(ぼんぷ、悟りのない普通の人)は、生死の妄想が深く、様々な物事について、しきりに有所得(何か得るものがある)という考えをしている。これは大いに誤った考えである。一切の物事を行っていても、有所得の心がないのを、大乗の般若(悟りの知恵)と名付ける。これは、諸仏の無相で清らかな知恵である。この知恵は、生き死にの根源を断ち切るので、般若の利剣(鋭い剣)と言うのである。