盤珪禅師「盤珪仏智弘済禅師御示聞書 下」(8)

 九月一日説法

 

二十七 どなたも私の説法を聴聞しようと、夜明け前からこのように大勢押し合って窮屈な目を顧みずにこの会合に参られるのは、もちろんのこと有難いことと存じます。というのも皆さん夜明け前から早起きをなさってここへお出でになるのは、どなたも仏に成りたいとお思いになってのこと、そのように思うこの心が、そもそも賢く生まれついているからなのでございます。これはそのまま仏心が各々に備わっている徳と申すべきものでございます。そうではありますが、今どきは、世渡りをするのに、悪い習慣が身について育ち、仏心を失ってしまっている事でございます。

 親が産み付けてくださった時は、仏心がそなわっております。その証拠を申し上げるならば、ほんの幼い身で、善悪もまだ知らない時から、何が有難いという分別もなくてても、仏といって見せますと、はやくも手を合わせて拝み、数珠を持たせれば手に掛けて拝みます。こうした事は、仏心のよい証拠でございます。このようなことを思いますれば、仏と申すものはさまざまな徳が備わったものではございませんか。仏にならなければ、一万劫*という長い時間を経過しても仏の成果は得られません。畜生(動物)と成ってしまえば、どれほど有難いことを説いて聞かせましても、理解できずに、縁は切れてしまいます。仏に成りたいと思う気持ちもございません。このようなことを皆さんお聞きになるからには、今日から不生の気にもとづいて、第一に、この身にひいきがないようになされませ。

*劫(ごう):インドから伝わる時間の最大の単位。カルパの音訳、劫波から。

 自分は人に何事も負けまいと考える。慢心して何事も人に勝とうと思っても、まける事もある。人がまた自分に悪くあたるのは、自分に慢心があるからでございます。人が我が身に悪くあたるのは、自分に悪いところがあるからでございます。自分に心をつけてみれば、人間世界に悪い者は一人もいないものでございます。怒りの心が起こりますと、妙智(仏の妙なる知恵)を餓鬼修羅道に変えてしまいます。ただ怒りも喜びも、みなこれ自分びいきがあるからですので、妙智の仏心を失って流転するのでございます。ひいきがなければ、不生の気になります。ですから、どなたもよくご理解なされるがよい。この道理を納得なされば、修行をしなくとも、戒律を保たなくとも、今日から仏心でございます。

 特に侍は、出家などよりも修行しやすい事がございます。出家は若い時から学問をして、西国から東国へまいり、北国から南国に越え、走り回ります。それで行った先でもあてがあって行くわけでもございません。食事を蓄え、金銀を持って歩いて行くわけでもありませんので、行く先で不自由であって、道中でも人が宿を貸せば有難く、これ仏のおかげと喜び、行き暮れて宿もない時は、野に伏し山に伏し、食事がなくなれば托鉢もし、托鉢もできなければ、ひもじい事をたびたびこらえます。たいていはひもじい事ばかりで修行をするものでございます。たまたま綺麗な宿を人が貸しまして、ああ有難い、かたじけないと、仏恩を喜びます。そうして苦しいことつらいことをさんざん味わって、たいへんな幸せというのが庵を持つことですが、これは一寺をあずかるだけのことでございます。そうなりますと、檀那方(支援者)から施し物を受けまして、やっと落ち着くのでございます。けっしてこれが楽しみで出家をするわけではございません。こうして難行苦行をしますのは、何としても悟りを開き、仏心を見つけたいと思って、修行をするのでございます。このような事を思いますと、侍は主君から土地や報酬をたまわって、住み方は思いのまま、衣類は暖かに着て、食事も望みにまかせて修行できるわけでございます。その間には寝起きも自由になされ、何事も心にかなわない事はございません。願わくば、寝起きのあいだに、後世(ごせ)に心をおかけになれば、簡単なことでございます。まず不生の気になりますれば、主君への忠誠にもなります。仏心が万事にうつるのでございます。奉公をつとめますのに気落ちすることなく、どのような役目や取り締まりの仕事を仰せつかっても、不生の気で務めます。これを大変なことだとも考えません。もっとも不生であれば、その勤めで依怙贔屓はしません。そのように務める時には、素直な心が胸にございますので、これは主君が重宝しないわけはございません。そのようなときは、世間でも自分の名声が上がります。このように忠心が成就しますのは、みな常に仏法を心がけて修行し、不生の気になるからでございます。ですから侍は仏道修行をすれば随分と優れた効能があるのです。また修行もやりやすく、出家の修行よりも務めやすいのでございます。