盤珪禅師「盤珪仏智弘済禅師御示聞書 下」(7)

 その折に、人々が私の説法を聞くといって参詣するのをこの婦人が見まして、親の所へは帰らずに大勢に混じりまして私の庵へ参り、その日の説法をよく聴聞して、説法が終わって皆が帰って行きますので、この女房も帰り路で親の隣の人に会いました。この人がどうして来られたのかと聞くと、私たちは今朝夫婦喧嘩をしてここまで来たのですが、大勢がご説法の場所にいらっしゃるのを見て、ちょうどいい所に来たと思いましてまず親の所へは参りませず、参詣いたしました。今日のご説法は、全部私のことでございました。さてさて恥ずかしいこと。今日私が夫の家を出ましたのは、すべて自分の心のありようが悪いからで、夫は私を親の方へ戻したがりませんで、いろいろと言い、姑と一緒に引きとどめられましたが、私はつまらない事に腹を立て、姑や夫にも腹を立てさせました。今日のご説法で我が身の悪いことを十分に納得いたしましたので、親の方へは参らずに、これから嫁ぎ先へ戻って自分の間違いを懺悔して、お二人に頭を下げ、この有難いご説法を話して聞かせ、後世を勧めないのであれば、聴聞したかいはありません、と申しましたところ、隣の人が言うには、あなたは夫婦喧嘩をしてここまで来て、また嫁ぎ先へ帰ろうというのは論外のことだ。そもそも一人で帰られるものか。親の所へ行きなさい。嫁ぎ先へは私が一緒に行ってうまく行くように戻しましょうと言うと、その女房はいえいえうまく行くも何もございません。とにかく自分が悪いのですから、お二人のご機嫌をとってうまく行くようにして、その上で有難いご説法を、自分だけ聴聞しては何のかいもありません。お二人へもお聞かせしてこそ聴聞したというものでございましょうと、道すがら二人で話しておりますのを、この人たちの前後にいた参詣の人々も聞いて、さてさてこのご婦人は感心な方だ、今日一回の説法を聴聞して自分の間違いを悔やみ、女の身として、これは滅多にない例であると感じいる。もう一人の人は、さてさて訳の分からない申しようであるよ。一人で帰ろうというのを押し留めて、私がうまく行くようにして戻そうというのは何事だ。この人は大洲の住人だからこの説法もたびたび聞いているのであろうが、悪い考え違いであるといって、聞いていた人たちは皆この隣の人を叱りました。

 そしてこの嫁ぎ先へ帰ろうと言った女房に、前後の人たちが言ったのは、それにしてもあなたは感心した心根である。これから急いで嫁ぎ先へお帰りなさいと言うと、まったく帰るつもりでございますといって、帰ったということでございます。

 その日私は大洲のさる家に呼ばれて参りましたところ、その家に親しい人たちが大勢参りまして、今日のご説法に有難い事が起こりましたと、この話をどなたも口を揃えて言い聞かされたのでございます。

 その後、この女房が夫の方へ帰りました結果を聞きましたが、女房の考えの通りに帰って、二人に申しますことには、私に去れと仰られたわけでもないのに自分の考え違いでお二人のお心にそむいて家出をし、親の所へ帰ろうと思って大洲へ参りました。今日の家出は本当に仏縁だったと思います。途中で参詣する大勢の人と一緒になり、お寺へ参り、ご説法を聴聞いたしましたところ、ご説法は一つも余すところなく、みな私の身の上の事でございました。これをよく聴聞しまして、自分の心根の悪いことがよく分かりましたので、親の方へも行かず、お寺からすぐに帰りました。私の心が悪いことで、お二人にも乱れた心を起こさせました。これから私をどのようにもなさって、怒りをおさめてください。このように申す以上は、どれほどつらい目に会おうともさらさら恨むことはございませんと申しますので、姑も夫もこれを聞いて、お前は何でもないことに腹を立てたけれど、それを間違いだと思って戻ったのに、どうして恨みなど残ろうかと、戻ったことに満足して、全部うまくいったということでございました。

 それから随分と夫に従い、姑を敬いもてなし、あの有難い説法を折々二人に話して聞かせ、ついに二人ともに勧めて、私が逗留しているうちに三人連れ立って、何度も聴聞に参りました。このように仏のご縁のございます方は、何のわきまえもない無知な者でも、一回の説法によって、争いや怒りのないようになりましたことは、まったく感心な心根ではございませんか。このようなことも皆さんお聞きになるとよいでしょう。それがさっそく仏縁とならなくてはなりませんのでお話ししました。今日は説法が長くてお疲れでしょう。これで終わりにします。